一章 退魔師一族の汚点⑧

「壱於!」

 叫ぶ明彩の声に、壱於は振り返らない。振り上げた拳を、毛玉にしたときのように鬼へと叩き込もうとする。だが。

「こざかしい」

「なっ!!」

 鬼は指先一本で壱於の拳を受け止めた。本来ならば壱於の拳がまとう力で肌が焼けるはずなのに、鬼は何も感じないどころか羽虫を払うかのごとく軽い動きで壱於を跳ね飛ばす。

「うあああああ!!」

 宙を舞った壱於の身体は、鈍い音を立てて地面に落ちた。

「壱於!」

 恐怖を忘れ、明彩は壱於へと駆け寄る。

「壱於、壱於!!」

 力なく倒れた身体に近づけば、呻く声が聞こえ、明彩はほっと息を吐き出す。

「どうして、こんな無茶を……」

 どんなに壱於が優秀でも鬼に敵うわけがないのに。

「っ、うるさい!」

 唸るような叫び声を上げながら壱於が身体を起こす。その顔は蒼白で、恐怖からか全身が小刻みに震えている。

「ほう、まだ立てるのか」

 そんな壱於の姿に鬼が薄く笑う。まるで研ぎ澄まされた刃物のような冷たさを孕んだ笑みに、明彩はひゅっと喉を鳴らした。そして壱於もまた、同じように掠れた悲鳴を漏らしたのが聞こえてくる。

「せっかく手加減してやったものを。どうやら、貴様は死にたいらしい」

 空を掴むように伸ばされた鬼の手に、青い光が集まる。それはすぐに炎の形となり、ごうごうと恐ろしい音を立てはじめた。

「ひっ、ひいいい……!!」

 憐れっぽい悲鳴がその場に響く。それは明彩の口からではなく、隣に立つ壱於から漏れ出たものだった。

「っ、おい、逃げるぞ……!」

 ようやく力の差を理解したのか、壱於はその場で踵を返すと一目散に走り出した。咄嗟に追いかけようとした明彩だったが、倒れたままの佐久間のことを思い出す。

 離れていく壱於の背中と、地面に倒れたままの佐久間。

 明彩はためらわずに佐久間の方へと駆け出した。

「おい! 何やってんだ! 早く来い!」

「佐久間さんが……!」

「この馬鹿……! 僕は知らないからな!!」

 壱於の叫びを無視して、佐久間に駆け寄る。地面に突っ伏した身体は動かないが、浅い呼吸音が聞こえてくる。生きている、という安堵のあとにこみ上げたのは途方もない恐怖だ。

 ここからどうすればいいのだろう。

 すでに壱於の声は聞こえない。きっと明彩たちを置いて逃げたのだろう。見捨てられたという考えはあまりなかった。むしろ、懸命な判断だと思う。壱於だけでも逃げられたのなら、十分かもしれない。

「おい」

「……!」

 すぐ後ろから声をかけられ、明彩は声にならない悲鳴を上げた。

 ぶるぶると身体を震わせながら振り返れば、手が届きそうなほど近くに鬼が立っていた。

「あ……」

 叫びたいのに喉が震えて声が出ない。命を奪われる直前の獣はこんな気持ちなのだろうかという考えが頭をよぎった。圧倒的強者から与えられる理不尽な攻撃の予感に、全身から汗が噴き出る。

 ──きっと、これは罰なんだわ。

 罪なき怪異たちに手を差し伸べず、中途半端な助けしかできなかった明彩。きっと天はそんな明彩を許さないと決めたのだろう。

 ──それも、悪くないかもしれない。

 恐怖でこわばっていた身体から力が抜ける。

「……ごめんなさい」

 明彩は地面に両手を突くと、深々と頭を下げた。

「あなたの眷属を傷つけたのは、私の弟です。どうか、許してください」

 今の明彩にできること。それはこの場の罪を全て被ることだ。

 壱於には西須央をしょって立つという未来がある。両親だって、壱於が無事ならば少しは明彩を見直すかもしれない。死んだと知って泣いてくれるかもしれない。

 そんな哀しい思いが、明彩の心を満たす。

「咎めは全て私が受けます。だから、この人をどうか見逃してください」

 せめて、自分たちを守ろうとしてくれた佐久間だけでも明彩は守りたかった。

「顔を上げてくれ」

「え?」

 てっきり恫喝か攻撃が来るかと思ったのに、聞こえたのはどこか優しい声音だった。

「頭を下げられるのは、いたたまれない」

 理解が追いつかぬ思考のままゆるゆると頭を上げれば、鬼が優しい笑みを浮かべていた。

「え、っと……」

 何が起こっているのだろうか。鬼が自分を見て笑っている。この場の状況にそぐわぬ事態に明彩は何度も瞬く。。

 これは何かの罠だろうか。自分を油断させ、さらなる恐怖に突き落とすつもりなのだろうか。人を騙す怪異は、最初は甘言を囁き、魂を堕落させていくと聞いたことがある。骨の髄まで利用して、最後に地獄に堕として楽しむのだと。

 ──でも、この鬼がそんなことをする理由があるだろうか。

 壱於を指先一つで倒すほどの力を持った鬼が、退魔師としては何の力もない明彩を騙して利用する理由が思い浮かばない。それに、冷静になって振り返ってみれば、先ほど壱於たちが圧倒されたとき、何故か明彩だけは何の影響も受けなかった。

 ──本当に、悪意がない?

 明彩に向けられる瞳からは、敵意を感じない。それどころか親しみさえ感じてしまいそうになる。

「あるじさま、このひと、このひとだよ」

「え?」

 甲高い子どものような声がその場に響く。一体誰がと明彩は周囲を見回すが、誰もいない。

「ありがとう、ありがとう」

「わ!」

 鬼の手に乗っていた毛玉が、明彩の膝に飛び乗ってくる。ふわふわとした身体を嬉しそうに揺らし、すり寄ってくる動きはまるで仔猫のようだ。

「……あなたが、喋ってるの?」

「そうだよ。ひめさま、ありがとう。ひめさまが、いたいのをなおしてくれた」

「ひめ、って」

 身の丈に合わぬ呼び方に、明彩は目を白黒させる。

「あなた、喋れたの……?」

「俺が傍にいるからだろう。それにここは、俺たちの世界に近いからそれも多少は力を持てるんだ」

「まあ……」

 明彩はそっと毛玉を撫でた。先ほど、壱於に殴られた箇所が酷く抉れている。その部分に手を上げ、緩く治癒の力を流し込めば見る間に傷が塞がっていく。

「ありがと! ありがと、ひめさま!」

「その、ひめさまっていうのはやめて。私はそんなたいそうなものではないのよ」

 苦笑いを浮かべながら告げれば、毛玉がこてんと身体を傾ける。

「ひめさまは、ひめさまだよぉ」

「ええと……」

「……俺たちの世界では、治癒の力を使える者のことを『姫』と呼ぶのだ。そやつは間違っていない」

 鬼は静かにそう告げた。

 ──異界の言葉だったのね。

 驚きつつもそれならば、と明彩は納得する。どうせ呼ばれるのは今だけなのだからと、逆らわずに受け入れること選んだ。

「ひめさま、ありがと、ありがと」

 必死に感謝を伝えてくる毛玉の姿に、胸が苦しくなる。

「ううん。いいの、いいの。ごめんね、助けてあげられなくて」

 たとえ癒やしても、またすぐ傷つけられるとわかっていたのに、両親に従うことしかできなかった。

 こらえきれず涙がこぼれる。感謝なんてしなくていい。あれは全て明彩の自己満足だ。

「ごめんね」

「なかないで、ひめさま、みんな、ひめさま、だいすき」

 明彩の涙に毛玉がおろおろと膝の上を転がる。申し訳なくて泣き止みたいのに、涙が止まらない。

「……泣くな」

 ふわりとあたたかいものが明彩の身体を包んだ。

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