一章 退魔師一族の汚点⑨
それは、目の前の鬼が先ほどまで肩にかけていた羽織。どこか懐かしい香りのするそれは、ほとんど重さを感じないのにあたたかい。
「心配するな。その男には手を出さない」
「……ほんとう、ですか?」
「ああ。君にも、そこに倒れている男にも別に恨みはない」
安堵で全身から力が抜ける。
恐ろしいと聞かされていた鬼が、こんなにも柔らかな声が出せるなんてと明彩は目を瞬く。なにより、どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。わけがわからない。
疑問が表情に出ていたのか、鬼が困ったように目を細めた。
「君には……俺の眷属が世話になった。その礼だ」
「ひめさま、おんじん、ひめさま、ありがと」
毛玉が嬉しそうに飛び跳ねる。どうやら、この毛玉を助けたことで明彩は鬼に見逃されているようだった。
「この子、あなたの家族なんですか?」
「家族……?」
鬼が不思議そうに首を傾げ、それから何かを面白がるように口の端を吊り上げた。
「人間の考え方は不思議だな。眷属と家族とは違う。それは俺に仕え、俺はそれを庇護するだけだ。他の繋がりなどない」
「あるじさまは、あるじさま、だよ」
毛玉も一緒になって鬼の言葉を受け入れている。
「そう、なんだ」
「ああ……ところで、君はこんなところで何をしている」
「あ……」
問いかけられ、明彩は何と答えるべきかわからず口ごもる。自分の抱える事情をどこまでつまびらかにするべきなのかわからない。
たとえ彼らに何もしていなくても、西須央の娘であると知られれば退魔師と見なされて敵対することになるかもしれない。
「その、私、は……」
言葉が喉につっかえて出てこない。黙りきった明彩に、鬼は困ったように首を傾げた。
「別に急がしたいわけではない。落ち着け」
「はい……」
優しい声に不甲斐なくもふたたび涙が出そうになる。誰かにこんなに気遣ってもらえたのは、はじめてかもしれない。しかも相手は怪異。この奇妙な状況に心が追いつかない。頭の中で何度も言葉を選びながら、明彩は事実だけを告げることにした。
「弟の、儀式に付き添いで来ました」
「儀式?」
「正式に退魔師に認められるための、試験のようなものです。この杜には、危険な怪異が現れることが多いので、それを……退治するのが決まりなのです」
「それで時折ここが騒がしかったのか。確かにこのあたりには知性すらない雑魚がうろついているからな……なるほど」
明彩の言葉を素直に受け入れたらしく、鬼は静かに頷いた。
「しかし、君を付き添いに連れ出すとは奇異なことをする。君は、姫だろう? どうして退魔師に付き添う」
「ひ、姫って……」
怪異であるとはいえ美しい男性の姿をした鬼に、姫と呼ばれ明彩は頬を赤くする。
──癒やし手という意味なのに。
わかってはいるがどうしても落ち着かない。
「異界においてその力を持つ存在は希有だ。血縁とはいえ、何故あんな小僧に従っているのかさっぱりわからない。横暴で知性の欠片もない振る舞いをどうして許す」
どこか怒ったような鬼の口調に明彩は慌てる。まさか今から壱於を追いかけていくのではないかと。
「私が、私が悪いのです。役立たずだから……どうか弟を見逃してください。私にできることなら何でもしますから」
もし壱於に何かあれば、両親は激怒するだろう。佐久間だってただでは済まない。
「君は……」
呆れたように鬼は首を振ると、じっと明彩を見つめた。
「……何でもする、と言ったな」
「私にできることならば」
「ならば一緒に来い。俺だけの姫となれ」
大きな手が明彩に差し出される。
「え……ええ?」
ぽかんと、明彩は状況も忘れて鬼の顔と手を交互に見た。
──俺だけの、姫? 何を言っているの?
「君の力はこの世界では異端だろうが、俺たちの世界では違う」
──ああ、そうか。
どうやら鬼は、明彩の力が欲しいらしい。怪異を癒やす力は、彼らにとっては医者のようなものだ。必要とされてもおかしくはない。
──私が役に立てる……?
わずかに心が浮き立つのを感じた。これまではそれしかできぬからと使ってきた力を、異界では役立つものとして使えるかもしれない。
でも、そんなことが許されるのだろうか。退魔師の一族でありながら、異界に、しかも鬼の元に行くなど。
──異界は恐ろしいところなのよね。人間にとってはあちらは地獄だと。
そんなところで明彩は生きていけるのだろうか。
「どうしても嫌だというのならば仕方がない。この男と共に山の麓までは送ってやる、しかし、またあの小僧がここに現れたときはもう容赦はしない」
本気なのだろう。鬼の表情に嘘は感じなかった。
「ふたたびあの小僧に虐げられたいのか?」
「……そ、れは」
西須央の家に帰れば明彩はどんな扱いを受けるだろうか。明彩は何もしていない。だが、壱於の役に立てなかった。そのことで両親からは叱られるし、壱於に八つ当たりだってされるだろう。きっと、これまで以上に居場所のない日々がやってくるに違いない。
「もし俺と一緒に来るのならば、何より君を大切にすると約束しよう」
まるで愛の告白のような言葉に、顔が熱くなった。
相手は怪異。それも鬼。信じるだけの確証はない。でも。
──帰りたく、ない。
何も感じなくなったと思っていたのは幻想だった。本当は、苦しくてたまらなかったことを思い知らされてしまった。
「本当に、私でいいのですか?」
こわごわと問いかければ、鬼は力強く頷いた。
「ああ。俺は、君が欲しい」
この手を取れば二度とこちらに帰ってこられないかもしれない。でも、それの何が悪いのだろうか。同じ地獄ならば、求めてくれる誰かの傍にいたい。
──必要と、されたい。
子どもの頃に出会った少年の鬼からもらった「ありがとう」という言葉と美しい花の色が思い出される。
明彩の心をずっと支えてきたのは、本当の家族ではなく、あの日の記憶だ。
「……」
おずおずと明彩は鬼の手に自分の手を乗せた。冷たいのかと思っていた鬼の皮膚は、明彩よりもあたたかい。壊れ物を扱うかのような優しい力で、握り込まれ引き寄せられる。
「大切にする」
「っ……!」
まるで愛の告白でもされているかのような優しい声だった。
胸の奥が震え、ふたたび涙がにじむ。ずっと誰かに求められたかった、必要とされたかったのだと、思い知らされる。
「ひめさま! ひめさま!」
毛玉が嬉しそうにその場で飛び跳ね、明彩の肩に飛び乗ってきた。
「ならば行くぞ」
「はい……あ、あの、この人を……」
手を引きその場から離れようとする鬼を明彩は引き留め、佐久間に目を向けた。佐久間こそ何の罪もないのだ。
「ああ。あとで俺の眷属に山の麓にでも運ばせておこう」
「ありがとうございます。それ、と……」
「なんだ?」
こんなことを頼むのはお門違いかもしれないとわかっていながらも、明彩は伝えずにはいられなかった。
「私の、家に……この子のような小さな子たちが囚われているんです。せめて、その子たちを助けたくて」
自分が逃げてしまえば、彼らはどうなってしまうのか。これまでは助けてこられたが、本当に消えてしまうかもしれない。
「あるじさま」
毛玉も同じ気持ちなのだろう。訴えるような声に、鬼は短い息を吐き出した。
「わかった……君の髪を少しもらうぞ」
鬼の手が明彩の髪に触れ、数本を爪でそぎ取る。
「冷隼」
「ここに」
呼びかけに応えて現れたのは、一頭の白い獣だった。犬よりも大きなそれは、毛玉と同じように言葉を話している。
「何用でしょうか主様」
「この匂いを辿り、囚われているやつらを助け出してこい」
「承知しました」
言うが早いか、白い獣は明彩の髪を咥えるとその場から走り出していった。
「あれは人に紛れるのがうまい。君の髪を持っているから、忌々しい結界も抜けられるだろう」
「よかった。ありがとうございます、その……えっと」
「……涼牙だ。俺の名は、涼牙という」
「涼牙様」
口にすると胸の奥がじんと痺れる。
明彩は、これから涼牙に一生かけて仕えていくのだろう。
「行くぞ」
涼牙に手を引かれるままに、明彩は歩き出す。
青い炎が空中に円を描き、淡い光を放つ裂け目を作り出した。その先には、うっすらとここではないどこかの光景が映り込んでいる。
──異界。
ほんの一瞬、振り返りたい気持ちがわき上がる。でも、明彩は振り返らなかった。この世界になんの未練もないのだから。
ただまっすぐに涼牙に導かれるままに、明彩はその光をくぐった。
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