二章 夜叉の姫①
白く輝く玉砂利が敷き詰められた庭の眩しさに見惚れ、明彩は足を止めた。
──いつ見ても、本当に綺麗な景色。
明彩が涼牙に連れられ、異界にやってきて早いもので半月ほどが過ぎた。
半月ほど、と曖昧なのは異界の昼と夜は人の世界のように明確な区切りがないので、どれほどの日数が過ぎたのかはっきりしないのだ。時間の流れも少し異なっているらしい。
最初の数日は、家族が連れ戻しに来るという想像による恐怖と、逃げてしまった罪悪感から泣きながら目を覚ましていた。
勝手の違う暮らしや見慣れぬ部屋に戸惑い、やはり騙されているのではないかという疑心暗鬼に囚われた夜もあった。
もう二度と人の世界には戻れない。自分で決めたことなのに、恐ろしい選択をしてしまったのではないかと後悔しなかったと言えば嘘になる。
だが、そんな苦しみを忘れてしまうほどの幸せがここにはあった。
「ひめさま、ひめさま!」
「あそぼう! あそぼう!」
「ちょっと待ってね。これを片付けてからね」
廊下で立ち尽くしていた明彩の足元にすり寄ってくる小さな怪異たちの姿に、明彩は頬をほころばせた。
早く構ってほしいという姿は愛らしく、見ているだけで胸が満たされる。
「待ってね、これを台所に返してくるから」
朝餉が載った膳を抱え、台所に急ぐ。怪異たちはまるで雛鳥のように明彩の後を追ってくる。その姿の愛しさに、目尻が下がってしまう。
「朝ご飯、ごちそうさまでした」
「おやおや、姫様。わざわざすみません」
すらりとした着物姿の女性が駆け寄ってきて、明彩の手から膳を取り上げた。
彼女は阿貴という名前で、この涼牙の屋敷で働く怪異だ。今は人の姿だが、本性は蜘蛛に似ているらしい。
「いつもそのままにしておいてくれればいいと言っているじゃないですか」
「ごちそうになっているんですもの。片付けくらいは手伝わせて」
「本当に姫様は不思議な方ですねぇ」
からからと笑う阿貴の明るさに、明彩もまたつられて微笑む。
「ここでの暮らしは慣れましたか」
「ええ」
異界は、想像とは何もかもが違っていた。地獄に近い荒れた場所などではなく、むしろ人の世界よりもずっと穏やかで静かで、そして綺麗だった。
四季の移ろいを一日で見せてくれる不思議な庭に、果てが見えぬほど広い草原。眩しいほどの日差しの日や雨の日もあれば雪さえも降る。だが不思議に暑さ寒さは感じない。
ここは涼牙が治める土地で、明彩たちが暮らしているのはその中央にある大きな日本家屋だった。あまりに広くてどれほど部屋があるのかいまだに把握できてはいない。
それでも迷うことがないのが、また不思議だったが、疑問に思うのはもうやめている。
「姫様、おはようございます!」
「おはよう、玄」
ぴょんと肩に飛び乗ってくるのは仔猫によく似た毛むくじゃらの生き物。
それは、明彩の人生を変えるきっかけになった毛玉の真実の姿だった。なんでも、力の弱い怪異は世界を渡るときにさらに弱体化してしまうことがよくあるらしい。
毛玉は名前を持っていなかったこともあり、呼びかけるのに不便だと思った明彩が「玄」という名前を与えた。ずいぶんと誇らしそうにその名前を周囲に吹聴して回る姿はとても可愛らしく、思い出すだけで眦が下がってしまう。
「ずるい!」
「ひめさま、おれたちにもなまえ、ちょうだい」
いろいろな動物の姿をした小さな怪異たちが、明彩の足元で一斉に不満を訴える。彼らは、出会った頃の玄のようにはっきりとした形を持たず言葉も足りない。
「ごめんね。涼牙様から、勝手に名前を与えてはいけないと言われているの」
涼牙の名前を出せば、怪異たちは仕方がないといったように顔を見合わせ大人しくなった。
玄に名前を与えたとき、渋い顔をした涼牙に注意をされていたのだ。
『軽々しく名前を与えてはいけない。この世界で名前を与えるのは、それに命を分けることに等しい。それはお前に懐いていたから問題ないが、悪意を持つ者に名前を与えれば命を取られることにもなりかねぬ』
教えられた事実に明彩は青ざめたものだ。あまりに美しい光景なので忘れかけていたが、異界は人の理とは外れていることをようやく自覚した。
「お前たちももっといい働きをしたら、涼牙様に名前をもらえるかもしれないよ。ほら、いつまでも姫様に甘えてないで仕事をし!」
「はーい!」
はつらつとした阿貴の声かけに素直に返事をした怪異たちは、名残惜しそうな様子を見せながらも方々へと散っていった。彼らはこの屋敷で様々な雑用を担っているらしい。
「姫様、主様が呼んでるよ」
「わかったわ。それじゃあ阿貴さん、またね」
阿貴に頭を下げ、明彩は台所を出た。
長い廊下を歩きながら庭へと目をやれば、朝は桜が咲いていた枝に木蓮が咲いている。毎日のように違う光景に、ここが人の世ではないのだと教えられていた。
「失礼いたします」
「ああ」
襖を開けて部屋に入れば、涼牙は畳にあぐらをかいた体勢で何か本を読んでいた。
美しい顔がこちらを向く瞬間は、何度体験しても慣れない。
──ああ、本当に綺麗な人。
出会ったときも感じていたことだが、涼牙という鬼は本当に美しい。傍に控えることすらためらうような存在感に、明彩は顔を合わせる度に落ち着かない気持ちになる。
「変わりないか?」
「みなさん、よくしてくださいます」
「そうか」
ふわりと微笑む涼牙に、明彩は己の心臓が奇妙な音をたてるのを感じた。
「すまないが、また怪我をしたものが来た。あとで治療をしてやってくれ」
「はい」
涼牙の言葉に、元気よく返事をする。
この屋敷に連れてこられて最初のうちは、慣れることにせいいっぱいだった明彩だったが、今は涼牙の頼みに応え、治癒の力を使っていた。
この屋敷には、涼牙の眷属であったり、彼を慕い従う怪異がたくさん暮らしている。
玄や阿貴から教えられたが、涼牙は他の鬼とは違い力のない弱い怪異を進んで庇護しているらしい。そして眷属に迎え、この屋敷に住まわせているのだ。怪我の原因は、他の怪異との争いだったり、退魔師の攻撃だったりと、理由は多岐にわたる。これまでは時間をかけて傷を癒やしていた彼らを治すのが、明彩の役目だ。
大小様々な怪我を負った怪異たちは、明彩の治療であっという間に回復し、誰もが感謝して帰っていくのだ。
「今日はどのような御方ですか?」
「蛙の怪異だ。若い娘には少々、気味が悪い相手かもしれん。口が閉じなくなって食事もままならぬらしい」
その光景を想像し、明彩は少しだけ肩を揺らして笑った。
「平気です。すぐ治しに行きますね」
「ああ、頼む。君が……『姫』がここにいると知ってから、ずいぶんとやってくるものが増えた。無理はしないように」
申し訳なさそうに涼牙が眉を寄せれば、明彩は急いで両手を振った。
「いいえ! 平気です。そんな顔をなさらないでください」
むしろ、こんなに穏やかな生活を送っていていいのかと不安に思っているくらいだ。
食事は阿貴をはじめとした屋敷に仕える者たちが作ってくれるし、掃除や洗濯だって小さな怪異たちの役目だ。手伝いを申し出ても、何もしなくていいと断られてしまうことが多く、明彩は手持ち無沙汰になるばかり。
それだけならまだしも、誰もが口々に明彩に『何かしてほしいことはないか』という言葉をかけてくれて困ったくらいだ。
この力を使うために呼ばれたと思ったのに、涼牙は明彩に何かを命じる気配もない。
ただ毎日、明彩の様子を見に来ては「もっと食事をするように」とか「早く寝ろ」など、まるで親鳥が雛に構うような声をかけてくるだけ。
この屋敷で治癒を行うようになったのは、かつて西須央の屋敷から逃がしてやった怪異に遭遇したことがきっかけだった。小さなだるまのような姿をした怪異は、明彩を見つけた途端、声を上げて泣きながらしがみついてきた。
「姫さん、ありがとうございます。おかげでおれは戻ってこれました」
そのあまりの泣きように明彩は困り果てたし、周りも何ごとかと集まってくる。仕方なしに事情を伝えれば、怪異たちはとても驚いていた。
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