二章 夜叉の姫②

 ──彼らは、私が治癒の力を使えると知らなかったのよね。

 特別な力があるとは欠片も思っていなかったらしい。ただ、涼牙が連れてきた客人だからという理由だけでもてなしてくれていたのだ。

 だが明彩が驚いたのはそこではなかった。彼らは、明彩が退魔師の一族だと知っても態度を変えなかったのだ。

「別に姫様に何かされたわけじゃない。姫様は何も悪くないだろう」

 事情を聞きつけた阿貴に何げなく相談してみれば、あまりにもあっけなくそう言い切られてしまった。

 てっきり、仲間を傷つけた退魔師の身内だから距離を取られたり攻撃されるかと心配していたのに。

「ここにいるやつらは基本無害だが、過去にはいろいろやらかしたやつも多い。涼牙様はそういった連中を全部ひっくるめて受け入れてくださっている懐の広い御方だからね。その涼牙様が認めて連れてきたんだ。アタシたちは何もしないよ」

 明彩の不安を感じ取ったのか、阿貴は優しくそう言ってくれたのだ。傍にいた玄も同じように頷いてくれる。

「それにあんたが姫様だっていうのなら、アタシたちが嫌う理由がどこにある。姫様は大切な存在だ。どうか、ずっとここにいておくれよ」

「そうだよ姫様。ずっとここにいてね」

 それ以来、明彩は進んで弱った怪異たちの治療にあたるようになっていた。今では、明彩の噂を聞きつけてわざわざ涼牙の元を訪ねてくる怪異さえいるという。

「君が構わないならいいが。困ったことがあればすぐに言うんだぞ」

 意外なことに涼牙はかなり心配性だ。

 見た目は冷たそうに見えるが、ここに集まった怪異たちからあれほど慕われているのを見ると情の深い人なのだとわかる。

 一度懐に入れたものは、たとえどんなものでも守るのが涼牙の流儀なのかもしれない。

「はい」

「ならいい」

 満足げに頷く涼牙に頭を下げ、明彩は部屋を出る。

 廊下では玄が猫のように丸くなって明彩を待っていた。

「主様はなんと?」

「治療のお話よ。また怪我をした方が来たらしいの」

「またか。姫様、疲れてないか?」

「ふふ、大丈夫よ」

 気遣ってくれる玄の言葉が涼牙のものと重なり明彩はこらえきれず小さく笑う。

 ──ここは、本当にあたたかいところ。

 人の世界で暮らしていた日々が嘘のようだった。

 ──あの子も、どこかで元気にしているかしら。

 傷だらけだった鬼の少年も、この世界のどこかで静かに暮らしているのだろう。もしかしたら、また出会えるかもしれない。明彩はいつしかそう考えるようになっていた。

 ──いつか、お礼を言いたいな。

 あの日、少年からもらった言葉と記憶が明彩を支えていたと。

 あたたかな気持ちを抱えながら、明彩は玄と共に怪異が待つ客間へと急いだのだった。


 朝は春模様だった庭に、薄く雪が積もっている。夕日に照らされ茜色に染まった雪は美しく、明彩は思わず足を止めてそれに見入っていた。

「姫様、夕食に行かないのですか」

 立ち止まった明彩に、玄が不思議そうに声をかけてくる。玄にしてみれば見慣れた光景なのだろう。

「もう少しだけ、見ていてもいい?」

「はい!」

 玄は明彩の言葉に逆らうことはない。駄目なときや危険なときははっきり言ってくれるが、それ以外は明彩の意志を優先してくれる。

 ──今日も平和な一日だった。

 蛙の怪異というから、どんな姿かと思って会いに行ってみれば、身体はほとんど人で頭だけが蛙という奇妙な風貌の怪異が明彩を待っていた。

 なんでも求婚をする相手に立派な姿を見せようと、変化の術を使おうとしたところ、失敗して顔だけが変化しそびれ、驚きすぎて顎が外れてしまったらしい。

 明彩が治癒の力で癒やしたところ、瞬く間に手のひらに乗るほどの蛙に戻れた。

「ああ、死ぬかと思った。ありがとう、姫様」

 ぺこぺこと頭を下げる姿は気味が悪いどころか愛嬌があり、明彩はすっかりその蛙と仲良くなった。

 ついでに、変化以外でどんな求婚をすべきかという相談をされて、玄と一緒にああでもないこうでもないと会話に花を咲かせたのだった。

 治療が終わったあとは、玄と共に阿貴の作った昼食をとり、仕事を終えた怪異たちと集まって遊んだり、涼牙が用意してくれた書物を読んだりと穏やかな時間を過ごした。

 本当に何の縛りも不自由もない、あたたかな時間だけが明彩には与えられている。

 ──夢を見ているよう。

 まるで今の日々は、この庭の光景のようだ。ほんの半月ほど前まで、明彩は日常で笑うということもできなかったのに。今では玄や阿貴、そして涼牙が明彩を笑わせてくれる。

「本当にここは不思議なところね」

「人の世界の方がよっぽど不思議ですよ」

「そうなの?」

「ええ。何故人は大して強くもないし、尊敬できないものに従うのですか? 玄は不思議でなりません」

 明彩は思わず苦笑いを浮かべる。玄が言っているのは、西須央の人々のことだろう。

 あの場所では当主である父、史朗の言葉は絶対だった。逆らうなど許されない。無条件に従うのが当然で、己の意志を持つなどあってはならない。ずっとそう教えられていた。

「姫様は、こんなに素晴らしい力をお持ちなのに」

「……あちらでは、私の力は異端なのよ。あってはいけないものだった……」

 退魔師でありながら、怪異を癒やす力など認められるはずがない。役立たずの無能。

 覚えきれないほど浴びせられた言葉の槍を思い出し、明彩は身体を硬くさせる。

「私がもっと強ければ、何か違ったのかもしれないわね」

 治癒の力しか使えぬ明彩は、退魔師としての訓練を積むことすら許されなかった。

 屋敷の中で息を潜めて生きることしか選択肢がなかったのだ。

 もし、涼牙のように堂々とした心と強さがあれば、彼らに立ち向かえたかもしれないと、最近少しだけ考えるようになった。扱いの不当さを訴え、弱い怪異たちを助けるように動き、何かを変えられたかもしれない。

 ──でも、そう思えるのは涼牙様のおかげよね。

 きっとあの場所で囚われたまま生きていたら、こんな風に考えることさえできなかっただろう。

 ここでの暮らしは明彩に新しい価値観と感情をくれた。

「涼牙様はすごいわ」

 この大きな屋敷と周りの土地を統べる涼牙は、皆から慕われ尊敬されている。玄や阿貴、小さな怪異たちみんなが、涼牙を慕っている。

 そして、明彩も。涼牙のことを想うだけで、胸の奥が仄かに熱を持つ。この感情が一体何なのか、明彩はまだ量りかねていた。

「主様はとても素晴らしい御方です。なんと言っても『夜叉王』であらせられる」

「夜叉王?」

 はじめて聞く言葉に思わず聞き返せば、玄はハッとした顔で慌てて口を押さえた。

「ああ、あの、今のは……」

 見たこともないほど慌てて狼狽える様子に、どうやら聞いてはならない話をされてしまったのだと気がつき明彩は苦笑いする。

「私には秘密の話?」

「そうではないのですが……」

 申し訳なさそうな玄を明彩は優しく撫でる。

 西須央の屋敷にいた頃は、何も知らない自分が情けなかった。この場には不要の存在と言われているようで哀しかった。

 だが今は不思議とそんな気持ちにならない。それは、涼牙たちが心から明彩を思いやってくれることがわかるからだ。彼らが話さないのには理由がある。そう信じられるだけのものを与えてもらっている。

「気にしないで」

 優しく微笑みかければ、玄はほっとしたように身体を震わせた。その愛らしい仕草に、明彩は笑みを深くしたのだった。

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