二章 夜叉の姫③

 それは明け方に起こった。

 西須央での暮らしで身についた早起きの癖が抜けていない明彩は、周りの怪異たちが起きるよりも少し早く目を覚ます。

 身支度を調え、庭に面した縁側に出て朝日を眺めるのがいつしか明彩の日課になっていた。

「今日は、鈴蘭ね」

 庭に咲く花はさまざまだ。今日は木の枝に青葉が茂っていて花はないが、代わりに木の根元を取り囲むように鈴蘭が咲いていた。

 朝日に照らされ風にそよぐ姿は可愛らしく、見ていて心が和む。

「そうだ。少し、花瓶に生けさせてもらおう」

 枝を折るのは心苦しくてできなかったが、鈴蘭ならば少しもらっても問題ないだろう。

 明彩は沓脱ぎ石に置かれた草履を履いて縁側から庭へと降りた。真っ白な砂利を踏めば、しゃらしゃらと不思議な音が響く。

 鈴蘭まであと少し。そっと手を伸ばした明彩の視界に、突然影が差した。

「……え?」

 まさか雨だろうかと明彩が顔を上げれば、真上に人が浮かんでいた。否、人ではない。その背中には大きな鳥のような羽が生えている。

「お前が、夜叉の姫か」

 掠れた声に目を剥けば、それは明彩の真後ろに降り立った。

 明彩とさほど変わらぬ人型ではあったが、その顔に黒い嘴が付いている。烏を思わせる真っ黒な羽に、修験者のような服装。

「烏天狗……?」

 絵巻でしか見たことのない存在が目の前に現れたことに、明彩は驚きを禁じ得なかった。烏天狗もまた、鬼同様に人の世には滅多に姿を現さぬと言われている強い怪異だ。

「俺は烏天狗の峡。もう一度聞く、お前が夜叉の姫か」

 先日、玄が口にした『夜叉王』という言葉を思い出す。峡が言う、夜叉が涼牙のことならば、涼牙の元にいる姫とは明彩のことだろう。

「そう、だと思いますが……私に何か御用ですか?」

 おそるおそる頷けば、峡はそうかと深く頷いた。

「悪いが時間がない。俺と共に来てもらおう」

「えっ!? きゃあ!」

 言うが早いか、峡と名乗った烏天狗は明彩の身体を軽々と抱え上げ、その場から飛び立った。

「いやぁ! 高い!!」

「じっとしていろ。落とされたいのか!」

 峡の叫ぶような声に、明彩はひっと息を呑んで動きを止める。

「ひめさま!」

 明彩の悲鳴を聞きつけた玄が縁側から飛び出し、勢いよく跳びはねて追いかけてくる。そして、器用にも峡の足にしがみついた。

「なんだお前は! 離せ! 用があるのは夜叉の姫だけだ」

「ダメだ! 玄は姫様を守る! お前こそ何をしているのかわかっているのか!」

 玄は小さな牙で峡の足に噛みついているが、峡は平然としたままだ。

「ええい、振り落としてくれる」

「やめて! その子に酷いことをしないで!!」

 明彩は慌てて峡を止めた。

「大人しく付いていくから。お願い、やめて……」

「姫様……!」

「ふん。最初からそう言っていればよかったんだ。そこのチビは命拾いしたな。時間がない、このまま行くぞ」

「えっ……! わあぁぁ!」

 峡が羽を羽ばたかせれば、見る間に庭が遠くなり屋敷が小さくなっていく。玄もこの高さには驚いているらしく、言葉をなくして峡の足にしがみついている。

「一体どこに行くの……?」

 明彩の問いかけに峡は応えない。

 とうとう、豆粒のように小さくなった屋敷を見ながら、明彩は恐怖に身体を縮こまらせていた。


 それからしばらく空を飛んだのち、峡がようやく降り立ったのは巨大な木の上だった。

 どの枝も人が寝そべれるほどに太く、天地どころか幹の左右すら目視できない。下を見れば真っ白な雲が地面のように広がっており、ここがどれほど高い場所なのか考えるだけで気分が悪くなってくる。

「姫様」

 青ざめていた明彩の腕に、峡の足から離れた玄が飛び込んできた。慣れ親しんだ柔らかくあたたかい感触に強ばっていた身体から少し力が抜ける。

「お前! 姫様をどうするつもりだ!」

 明彩の腕の中から、玄が峡を睨み付ける。全身の毛を逆立て、威嚇するように牙を剥く姿から必死で明彩を守ろうとしてくれるのが伝わってくる。

 峡はそんな玄に、どこか気まずそうな表情を浮かべ、数歩下がった。

「何もしはしない」

「さらってきておいて、ぬけぬけと!」

「乱暴な手段を使ったのは悪かったと思っている。しかし、こちらにも事情があるんだ」

「事情だと、なにを……!」

「玄」

 声を荒らげる玄の背中を明彩は優しく撫でた。玄の気持ちはわかるが、峡の表情からはどうにも悪意を感じない。

 玄に怒鳴られている峡の顔は、幼い頃、悪戯をして叱られていたときの壱於の顔にどこか似ている気がして放っておけない気持ちにさせられる。

「落ち着いて。まず話を聞きましょう」

「でも……」

 納得できないという顔で玄が明彩と峡を交互に見る。心配してくれるのは嬉しいが、無用な喧嘩はしてほしくないのが本心だ。

「えっと、峡さんでしたよね。私に何の御用でしょうか」

「……峡でいい。勝手に連れ出したことを怒ってないのか……?」

「怒ってますよ。びっくりもしてます。でも、何か事情があるんですよね?」

「……」

 峡は驚いたように目を見開き、怯えたように視線を彷徨わせる。ここまで強引にさらってきたとは思えないその態度に、苦笑いがこぼれてしまう。

「……俺の父が」

 長い沈黙のあと、峡がようやく口を開いた。

「ずいぶん前から寝込んでいるんだ。薬を飲んでも回復しない。周りはもう寿命だから諦めろと言う。しかし、俺は諦めきれぬ……!」

 拳を握りしめ、全身を震わせ峡が苦しげな声を上げる。

「夜叉の姫。どうか父を治してくれ。無理に連れてきたことは謝る。この通りだ」

 勢いよくその場に膝を突いた峡が、音がするほどの勢いで木の枝に頭を押しつけた。

 まさかそこまで頭を下げられるとは思っておらず、明彩だけではなく腕の中にいる玄までも驚いているのが伝わってくる。

「頭を上げてください!」

「頼む! どうか、父を……!」

「わかりました、わかりましたから」

「いいのか!?」

 峡が顔を上げた。枝にこすりつけていた額からわずかに血がにじんでいる。それほどまでに必死なのだろう。親を想う子の気持ちに、胸の奥が痛む。

 ──きっと、大切なのね。

 明彩にとって親とは畏怖の対象だった。愛してほしいと願ったこともあるし、褒めてほしくてたまらないときだってあった。でもそんな気持ちはとうに潰えている。もし、病に罹ったのが自分の両親だったとして、明彩は峡のように医者を強引に呼びに行くだけの気概を持てたとは思えない。

「私でお役に立てるかわかりませんが、お父さんのところに案内してください」

 峡のその想いに応えたいと、明彩は背筋を伸ばした。

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