夜叉王の最愛 ~虐げられた治癒の乙女は溺愛される~
マチバリ
一章 退魔師一家の汚点①
蛇口からとうとうと流れ出る水が、昨日よりわずかに冷たい。たらいの水面が光り、憂鬱な表情の明彩を映し出している。
つい先日まで夏の名残をとどめていた朝の日差しが、ずいぶんと弱くなった。
今はまだいいが、あと数週間もすれば、この時間に炊事場に立つのは苦痛でしかなくなるだろう。
「はぁ」
ひとりでにこぼれてしまった溜息に、明彩は慌てて口を両手で塞ぐ。
急いで周囲を見回すが、幸いなことに早朝の台所にはまだ誰も来ていない。
──よかった。溜息なんて聞かれたら、また何を言われるか。
暗い、陰気、無能、役立たず、おちこぼれ。
幼い頃から浴びせられ続けてきた罵倒の言葉や、酷い扱いにはまだ慣れない。
早朝から家中の掃除や洗濯をするのは当然のことで、真冬であっても井戸で汲んだ水を使うことを強要された。毎日家中を磨き上げておかなければ、使えないと溜息をつかれる。
少しでも認められたくて必死に頑張った時期もあった。美味しいものを食べてほしいからと張り切って料理を作ったり、敷布を洗って交換したりと思い付く限りのことをした日もあった。だが。
『今日はこれが食べたい気分じゃないんだ。どうせ作るなら、もっとさっぱりしたものを作れよ』
『余計な洗い物をする時間があるなら、着物の陰干しをしなさいよ。夏が来る前には終わらせておきなさいと言っておいたでしょう』
母をはじめとする家族は明彩の成果を褒めることはない。足りない、気がきかないと、できていないことばかりを指摘して、だから駄目だと明彩をなじる。
高校生になったばかりのときのことだ。近所の神社で開かれている夏祭りに行きたいと両親に懇願したことがあった。同級生の女の子たちが遊びに行く相談をしているのを聞いたのだ。お小遣いなどいらないから、少しでもいいから見に行きたいと明彩は訴えた。
誰が夕食を作るのだと顔をしかめられたので、必ず全部終わらせるからと明彩は必死に約束した。
だったらいいと言ってもらえたその日、めったに外の人を招かない両親が、近所の人を集めて宴会を始めたのだ。明彩は、休む間もなく食事を作らされ、全てが終わって外に出たときには神社の灯りは消えていた。
『お前は本当に愚図ね。せっかく出かけてよいと言ったのに』
まるでゴミを見るような目で明彩を見つめ、さぁ傷つけてやろうという悪意を込めてぶつけられる言葉に、涙すら出なかった。
今日までの日々を思い出すだけで心臓が締め付けられるように苦しい。どうして私ばかり、という気持ちはとうに抱かなくなった。今の明彩を満たすのは諦めと惨めさだけだ。
たらいの水面に、泣きそうに歪む自分の顔が映る。
重く見える黒髪に、日に焼けにくいぼんやりとした白い肌。少し眦のたれた目元は弱々しくて見ていると嫌になるとよく言われた。
肉付きの薄い身体を包む紺色のワンピースは、もう何年も着ているものだ。ほつれた裾を何度も直しているせいで、よく見るとずいぶんみすぼらしい。
白いエプロンとゴム紐で長い髪を一つに結んだ姿は、年頃の娘にしてはあまりにも質素に見えることだろう。
十八歳になるというのに化粧の一つも許されないし、自分で服を買うお金すら持たされていないのだから地味な装いになるのは当然だろう。母や親類のおさがりか、自分で古着をほどいて手作りしたものばかり着ている。
──急がなきゃ。
この家では、明彩が家内にまつわるあらゆる役目をこなしている。
食事の支度に掃除洗濯。お金を持たせると余計なことをしかねないからと、買い出しだけは任されていないが、それ以外のおおよそ「家事」と呼べる作業は全て明彩の仕事だ。
明彩が小さな頃はお手伝いさんらしき人もいたが、いつの間にか誰もいなくなっていた。
学校以外では屋敷の外に出ることすら許されない青春時代だった。
昨年、高校を卒業してからは、一度も外へ続く門をくぐっていない。
自由への憧れはある。この家に生まれなければという夢を見たこともあった。でも、今はそんな気力すら残っていなかった。
──ご飯は炊けたし、お汁ものはできた。あとは卵焼きを作って……。
頭の中で献立を組み立てながら手を動かしていく。
誰か起きてくる前に仕事を済ませてここを離れることが、明彩にできる最善だ。もし誰かに遭遇すればまた何を言われるかわかったものではない。
難癖をつけられ、足止めをされればあとの仕事に差し障りができてしまう。
考え事をしていたせいで、いつもより時間を取られてしまったと焦りながら食器を運ぶ。
「まだ支度が終わっていないのか。姉さんは相変わらず愚図だな」
あとは箸を並べるだけというところで、背後からかけられた声に明彩は小さく息を呑む。
「おはよう、壱於」
ゆっくりと振り返れば、弟の壱於が柱にもたれかかるように立ったまま明彩を見つめていた。耳がわずかに隠れるほどに伸ばされた髪をさらりと揺らしながら、壱於は不愉快そうに目を細める。どこか苛立った表情と張り詰めた雰囲気に、酷く機嫌が悪いのが伝わってくる。
「おはようございます、だろう? 僕にそんな口をきくなんて姉さんはそんなに偉いの?」
「ご、ごめんなさい」
ほぼ反射のように明彩は謝罪を口にし、壱於に向かって頭を下げた。
一つ違いの弟である壱於は、明彩とは違い家族からとても大切にされている。いずれは家業を継いで、この家を背負って立つという期待をかけられていることもあり、明彩よりもずっと立場が上だ。
逆らうことも口答えすることも許されない。
それでも、明彩にとって壱於は大切な弟だ。
──壱於、また痩せたみたい。
壱於は幼い頃から肉の付きにくい体質で、忙しさから食べることがおざなりになるとすぐに体重を落としてしまう。数日前よりもほんの少し肉のそげた弟の顔に、明彩は胸を押さえた。
「先に食べておく? 今なら……」
「いい。姉さんの顔を見たら食事をする気が失せた」
「そんな。少しは食べないと」
追いすがるように伸ばした腕は、壱於によって乱暴に弾かれた。
「触るな」
冷たい拒絶の声に、気力が急激に奪われていき明彩は立ちすくむ。
「ん? なにそれ。姉さんのくせに、花なんて付けて」
「あっ!」
壱於の手が、明彩の髪を結んでいた紐に伸びる。
小さな花飾りは端布を使って手慰みに作ったもので、青く可愛らしい見た目が気に入っていた。
ぷつりと嫌な音を立てて花飾りがむしり取られる。
「うわダサ……姉さんは自分が西須央の人間だっていう自覚が足りないんじゃない?」
「ごめん、なさい」
装飾品の一つも買うことが許されていない明彩にとっては、精一杯のおしゃれだったが、壱於には不愉快なだけだったらしい。
奪われた花は壱於の手のひらでぐしゃりと握りつぶされていた。もう、戻ってくることはないのだろう。
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