一章 退魔師一家の汚点②

「すぐに出ていきますから、何か食べてください」

 こちらを見ようともしない壱於に頭を下げ、明彩は静かに台所から出ていく。

 箸を並べていなかったことで、あとから小言を投げつけられる可能性はあったが、壱於が食事を抜くよりはずっとましに思えた。

 長い廊下を早足で進んでいると、前方から若い男性の集団が歩いてくるのが見える。

 しまったと思いながら急いで壁を背にするようにして彼らをよければ、すれ違いざまに舌打ちの音が聞こえた。

「チッ、朝から羅刹に会っちまった。縁起が悪いぜ」

 苛立たしげな声に、明彩は身体を縮こまらせる。

 続けて何か言われるのかと身構えていたが、彼らはどうやら急いでいるらしい。

「早く道場に行かないとまたどやされるぞ」

「坊ちゃんが朝から張り切ってるせいで俺たちまでとばっちりだ」

 どこか億劫そうに語らいながら、彼らは北奥にある道場の方へ消えていった。

 足音が完全に聞こえなくなるまでその場で固まっていた明彩だったが、誰の気配も感じなくなったことを確認してからようやく詰めていた息を吐いた。

 ──壱於は朝から道場に行っていたのね。

 彼らの言葉から、壱於が朝から殺気立っていた理由を悟り、明彩は小さく溜息を吐き出した。

 屋敷の北奥にある道場は、この家に暮らす退魔師たちの練習場になっている。

 退魔師とは、その名の通り『魔』を退ける仕事を生業とする職業だ。退魔師にとっての魔とは怪異と呼ばれる存在。

 常人は知らないことだが、この世界には『異界』と呼ばれるもう一つの世界が存在している。

 そちら側では人とは違う理の下に生きる異形たちが暮らしている。

 基本、彼らはこちら側に無関心だが、希に間違ってこの世界に紛れ込んでくることがあった。凶悪な本性をもった彼らは、無邪気に害をなす。退魔の一族は、そんな存在をひとまとめにして『怪異』と呼んでいた。

 明彩は、そんな退魔師の名門である須央一族の娘だ。

 須央家は直系が当主を務める本家の他に、傍系が当主となっている分家が存在する。

 明彩が生まれたのは西地区を管轄する分家で、一族からは『西須央』と呼ばれていた。

 西に出現する怪異の多くは、人語を理解せぬ弱い獣型が多く、退魔にそこまで強い力を必要としない。

 そのため、西須央は長年目立った功績を得られておらず一族の中でも地位が低い。

 当主である明彩の父は、なんとかして西須央を本家や他の分家に認めさせようとやっきになっており、門下の退魔師や血族たちにとても厳しい。

 少しでも仕事でミスをすれば厳しい叱責や、処罰が待っている。

 西須央の屋敷はいつもどこか緊張した空気が張り詰めていた。

 跡取りである壱於は、退魔師としての素質とセンスに溢れており、その才能は西須央歴代の退魔師たちの中でもトップクラスだという。

 父は、壱於の存在こそが西須央をもり立て、いずれは本家にすら取って代われると信じているのだ。そのため、壱於は幼い頃から厳しい訓練を課せられ、成人退魔師としての儀式を終えていないにもかかわらず、すでに実践にもかり出されていた。

 壱於は父の期待に応えようといつも必死だ。

 この屋敷に暮らす先ほどの男性たちのような若い退魔師たちは、いつも壱於と比べられ苛立っている。

 だから、余計に明彩への態度が苛烈なものになっているように思う。

 ──好きで、羅刹に生まれたわけではないのに。

 彼らにぶつけられた言葉が、耳の奥でこだまする。

 羅刹。それは退魔師にとって最も忌み嫌われている、凶日の名称だ。

 その日ばかりはどんなに力の強い退魔師でも弱体化し、その逆に怪異が強い力を持つ。

 数十年に一度の羅刹には、全国の退魔師たちが前もって一堂に会し、強力な結界を作り上げておいて、怪異たちが暴れるのを押さえ込むことが約束されているほどだ。

 明彩は、そんな羅刹の日に生を受けた。

 退魔師に生まれた子は、すぐにどんな力を持っているかを調べられる。その能力に見合った教育を受けさせるためだ。

 明彩の両親は、ようやく生まれた我が子に期待していたという。いずれ西須央を背負う立派な跡取りになってくれるだろうと。

 だが、明彩が生まれ持った力は退魔師としては許されざるものだった。

「……い、明彩!」

「っ、はい、ここに!」

 暗い記憶の海に沈みかけていた明彩を、ヒステリックな声が呼ぶ。

「こんなところで何をしているのですか!」

 慌てて返事をすれば、廊下の向こうから母である小百合が走り寄ってくるのが見えた。年の頃はすでに四十を過ぎたというのに、息を呑むほどに艶やかで華やかな顔立ちの母は、壱於によく似ている。

「ごめんなさい」

「謝ればいいというものではありません。ずっと探していたのですよ。見つけたのが私であったからよかったものの、もしお父様だったらどうなっていたか」

「はい……」

「ああ、本当に手がかかる。いい? 人に迷惑をかけないで。できることだけしなさい」

「はい」

「……まったく、嫌になるほど暗い子ね。せっかく命がけで産んであげたのに、役に立たないどころか気もきかないなんて」

 まくし立てるように喋る小百合の言葉に、明彩は無心で頷きながら返事をする。

 それ以外の反応を見せれば、この十倍では済まないほどに叱責を受けるからだ。

 小百合は、明彩を産んだことを本気で後悔しているらしい。

 今のように『せっかく命がけで産んだのに』という言葉を聞かされたのは一度や二度ではない。

「あなたが無能であればあるほど、あなたを産んだ私の評価まで下がるの。私のことを思うなら、もう少しましな働きをしなさい。そうすればお父様だって少しはあなたへの態度を改めてくれるかもしれないのだから。わかった?」

「はい、お母様」

 小百合は、自分だけが明彩を案じていると思い込んでいる。

 辛辣な言葉や態度は、明彩を正しく導き守るためだと疑ってすらいない。

「全部、あなたのためなんですからね」

 言いたいことを言い尽くしたのか、小百合はすっきりとした表情を浮かべる。

「あの……」

「何?」

「それで、お母様はどうして私をお探しだったのですか?」

 普段、この時間に小百合が明彩を探すことはほとんどない。小百合は退魔師としては力が弱いが、物怖じしない性格と華やかな見た目を活用し、護符やお守りなど、一般向けに作られた商品を販売する対面の仕事を請け負っており、何かと忙しい人なのだ。

「ああ、そうだったわ」

 思い出した、と小百合が手を叩く。

「どうも壱於がやりすぎてしまったらしくて、若い子たちが練習ができないと言ってきたの。道場に行っていつものように治してきて」

 まるで玄関の掃除を言いつけるような気軽な口調に、明彩は小さく拳を握りしめる。

「早くしてね。壱於もまた訓練したいそうだから」

 そこまで言うと、小百合はさっと背を向けてその場から走り去ってしまった。

 きっと壱於を構い倒すのだろう。明彩と違い、優秀な退魔師への未来が約束されている壱於を小百合は目の中に入れても痛くないほどに可愛がっている。

 幼い頃はそれが羨ましいと思っていた明彩だったが、小百合の態度は玩具に接する少女のようなものだと気がついてからは、諦めがついた。

 明彩は、小百合にとっては最初から壊れている玩具なのだ。

 視線を床に落としたまま立ち尽くしていた明彩だったが、何かを振り切るように小さく首を振り、重い足取りで命じられるままに道場に向かったのだった。

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