一章 退魔師一家の汚点③

 道場に入ると、果物が腐ったような甘くすえた臭いが充満していた。

 ──酷い。

 床に累々と倒れているのは、小動物だったり植物の姿をした弱い怪異たちだ。彼らは若い退魔師たちの練習台としてここに閉じ込められている。

 術や暴力で虐げられている彼らの姿は、思わず目を背けてしまうほどに悲惨なものだった。何度見ても、慣れないほどにむごたらしい。常人ならば、目を背け、逃げ出してしまうだろう。

 ──どうして。

 まるで自分が虐げられたような気持ちになりながら、明彩は勇気を振り絞って彼らの傍に寄る。飛び散った体液から漂う腐臭に、生理的な涙がにじむ。

 半分ほど身体が削れた灰色の毛玉を、明彩はためらうことなく両手ですくい上げ、自分の膝に乗せた。わずかに伝わってくる鼓動に、ほっと息を吐く。

「ごめんね」

 いたわるようにその毛並みを撫でながら、明彩は手のひらに力を込める。

 真夏に空を泳ぐ蛍のような淡い光がほわりと灯った。

「すぐに痛くなくなるからね」

 光を浴びた毛玉は、ぶるぶると小さく身じろぎすると、先ほどまでが嘘のように生き生きとした動きでぴょんぴょんと跳ね回りはじめた。

「ああ、よかった。もう痛くない?」

 何かを伝えようとしてくれていることだけはわかるが、彼らは言葉を持たぬ故に意思疎通はできないのだ。

「みんなもすぐに治してあげるからね」

 声をかけながら、明彩は倒れている怪異たちの間を動き回った。手足を失ったもの。呼吸すらできないほどに痛めつけられていたもの。だが、明彩が力を使えばものの数分で回復し、嬉しそうに明彩の膝や手のひらにすり寄ってくる。

「ふふ……くすぐったいわ」

 目元をほころばせながら、明彩は優しく彼らを撫でた。

 明彩が生まれ持ったのは、退魔師としては異端すぎる「治癒」の力だった。それも、怪異だけを癒やす力。

 羅刹の日に生まれたせいで本来の力が反転してしまったのだ。

 怪異を倒すために戦う一族だというのに、逆に癒やすなどあり得ない。もし外に知られれば、西須央の名は地に落ちる。

 だから両親は、明彩を屋敷に閉じ込めた。

 弟である壱於はいつだって両親の間に座り、その寵愛を一身に受けていたというのに、明彩はいつだって末席で日陰の身。

 幼い頃は慕ってくれていた壱於も、いつの間にか周囲と同じように明彩を見下すようになった。一緒に過ごすことを嫌がり、話しかけようものなら憎々しげに睨み付けられる。

 事情を知る門下の退魔師たちからは、生まれた日になぞらえて『羅刹』と侮蔑めいた呼び方をされている。

 抗わなかったわけではない。他にも何かできないかと必死で努力だってした。

 だが、明彩が使える力は怪異を癒やすことだけだった。

 皮肉なことに、明彩の力は驚くほどに強い。数人の退魔師たちが数時間かけて消滅寸前まで追い込んだ怪異すら、一瞬で元に戻してしまう。

 その怪異は本家に生きたまま送り届けなければいけないものだったため、ほんの少しだけ回復させろと父が明彩に治癒を命じたのだ。

 力をまともに使ったことがなかった明彩は加減がわからず、怪異を癒やしすぎてしまった。回復した怪異は、あっという間に逃げ去ってしまった。

 奇跡とも呼べる所業に呆然としていた父や退魔師たちは、我に返った途端、激高し明彩を責め立てた。そのときの恐怖を、明彩は今でも覚えている。だから、もう二度とこの力は使わないと、一度は決めたのに。

 全ての治療を終えた明彩は静かに立ち上がると、元気になった怪異たちをぐるりと見回す。そして最初に癒やした毛玉を優しく抱え上げた。ここに来て数ヶ月ほど経つこの毛玉は、人間に害をなすような力など何も持っていない弱い怪異だ。せいぜい人混みをすり抜け、通行人を驚かせることしかできない。

「今日はあなた。ごめんね、長い間苦しかったよね」

 明彩の手のひらで、小さな毛玉はぐずるように身をよじる。

「他のみんなも、今度また逃がしてあげるから。待ってて」

 そう言うと、明彩は毛玉をポケットに押し込んだ。

 不思議なもので、大人の拳ほどもあった毛玉はポケットの中で紙切れ一枚ほどの大きさに萎んでくれる。

 他の怪異たちは騒ぐでもなく、じっと明彩を見つめ、それから道場の隅に身を寄せた。

 退魔師たちが訓練に戻ってくるまでの間、少しでも身体を休めておくのだろう。

 その痛ましい姿から目をそらし、自分の無力さを噛みしめながら、明彩は道場の外へと逃げるように走り出た。

 誰にも気づかれないように裏庭まで来ると、明彩はポケットから毛玉を取り出す。

「お逃げ。二度とつかまらないようにね」

 地面に降ろされた毛玉は名残惜しそうに明彩の手に身体を押しつけると、すぐさま茂みの中へと飛び込んでいく。

 しばらく枝葉を揺らす音がしていたが、それもすぐに聞こえなくなった。

 そこまで見届けて、明彩はようやく肩の力を抜いた。

 ──本当にむごい。あの子たちには何の罪もないのに。

 本来、人に害をなさない弱い怪異には手出ししてはならない決まりになっている。

 だというのに、西須央ではわざわざ弱い怪異を捕らえてきては、練習台だといたぶっているのだ。道場の出入り口に術をかけ逃げられないようにして飼い殺しにしていた。

 その事実を知ったとき、明彩はあまりの凄惨さにショックで数日寝込んでしまった。あんまりだと、明彩は生まれてはじめて両親に反抗した。あんな酷いことはしてはいけない、と。

 しかし両親はそんな明彩の言葉を無視した。

 それどころか怪異に味方する明彩の態度に怒り、激しい折檻を加えてきた。

『そうだ。そんなにあいつらがかわいそうなら、お前の力で癒やしてやればいい。長持ちもするし、一石二鳥だ』

 弱ったままでは獲物にもならないという非道な言葉に、明彩は声すら上げられなかった。

 以来、明彩の仕事に捕らえられ練習台にされた怪異たちの治療が加わることになった。

 いたぶられるのをわかっていながら、治療をするしかない自分の無力さが歯がゆく情けなかった。だから、時折こうやってこっそりと逃がしてやっていた。両親や退魔師たちには、治癒の前に命が尽きていたと嘘をついている。

 明彩の行いはこれまで一度も露見はしていない。きっとこれからも気づかれることはないだろう。彼らは捕らえている怪異の数すら把握していない。

 この毛玉も、本来ならば討伐対象にすらならないのに、退魔師の気まぐれによってここに閉じ込められた、か弱い命だ。

「ごめんね、ごめんね」

 こらえきれず、明彩は涙で声を震わせる。

 何の罪もない優しい怪異たちにどうしてあんな酷いことができるのか。術をぶつけられ、蹴られ、踏みつけにされ。同じ人間である明彩のことを恨んでもおかしくないのに、怪異たちは癒やしの力を使う明彩を慕い、無邪気に近寄ってきてくれる。

 ──怪異の方が、ずっと優しい。

 退魔師の一族に生まれていながらそんなことを思うのは、間違っているのかもしれない。

 西須央の家には、怪異に苦しめられ助けを求めてくる客も多い。本家からの指示以外でもそういった個人的な依頼も請け負っている。

 悪意をもった怪異が恐ろしいことは承知している。でも、そうではない怪異もいることを明彩は確かに知っている。小さな怪異は、ただそこに生まれて生きているだけなのだ。

 ──もう、あれから何年になるかしら。

 がらんとした裏庭を見つめ、明彩は昔の記憶を辿る。

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