一章 退魔師一家の汚点④
明彩が十歳になったばかりの頃だったろうか。
それこそ、怪異の治療という仕事を任されたのもその頃だ。
今のように冷静に振る舞うことも、感情をうまく押し隠すこともできなかった明彩は、この裏庭で隠れて泣いていることが多かった。
人前で泣けば、さらに酷い言葉をぶつけられるから。
夕暮れ時。膝を抱えてうずくまっていた明彩は、不意に不思議な香りが漂い始めたことに気がつき立ち上がった。
「……ぐ……」
「たいへん!」
先ほどまで誰もいなかった裏庭の片隅に、明彩と同じ年頃の少年が倒れていた。
依頼に来た人の子どもだろうかと慌てて駆け寄れば、その少年は全身傷だらけだった。着物によく似た服はあちこち破れていてとても痛々しい。
「誰か呼ばなきゃ……きゃっ!」
人を呼ぼうとした明彩の手を、少年が掴んだ。
「やめろ。死にたくなければ、見ぬ振りをしろ」
「何を……あ」
そこでようやく明彩は、その少年が人でないことに気がついた。
闇夜のような黒い髪は艶やかで、黄金色の瞳の輝きは息を呑むほどに眩しい。まるで人形のように整った顔立ちは、これまで明彩が会ったどんな人間よりも美しい。すっと通った鼻筋に薄い唇。そこに存在しているのが恐ろしいほどの造形美。
人ではない、と本能で理解した。
数秒遅れて、その証拠に明彩は気がついた。少年の頭には拳ほどの長さの角が生えていたのだ。
「鬼」
ぞわりとうなじの毛が逆立つ。
鬼とは、異界に棲む怪異の中で最も力が強い存在だ。本家の退魔師でも勝てるかどうかわからないほどだと聞かされたことがある。
──どうして鬼が。でも、すごく弱っている。
鬼の子は苦しそうに呼吸を乱しながら、地面に倒れたままだ。明彩の腕を掴む手にはほとんど力がこもっていない。簡単に振り払えてしまう。
もしかしたら西須央の退魔師たちが、したことかもしれない。
鬼が現れたとなれば、たとえ子どもでも討伐対象になってもおかしくない。戦いの中、命からがらここまで逃げてきたのだとしたら。
「っ……」
道場で退魔師たちにいたぶられている怪異たちと、少年が重なる。
そして、皆から虐げられている自分とも。
ただそこに生きているだけなのに、どんな扱いをしてもいいと思われているちっぽけな存在。心ない言葉を向けられ、不条理な暴力に晒され、ただ耐えるしかない。
自分に価値などないと思わなければ生きていけないほどの、絶望だけが世界を染めた。
考えるよりも先に身体が動いていた。
「……大丈夫?」
鬼の傍に膝を突き、おそるおそる声をかけるが返事はない。
しないのではなく、する気力も残っていないのだろう。鬼は小さな身体を丸め、何もかもを諦めたような目をして空中を見ていた。
もし露見すれば、ただでは済まないかもしれない。
「少し、触れるね」
迷いは一瞬だった。明彩は少年の背中に手のひらを押し当て、治癒の力をめいっぱい流し込む。
──っすごい。どんどん吸い取られる。
小さな怪異を癒やすのとは段違いだった。全身から根こそぎ体力を奪われていく。虚脱感に、目眩がしたが明彩は手を離さなかった。
痛々しく裂けた肌が瞬きする間に元に戻っていく。殴られ、赤黒く腫れ上がっていた顔や肩も、同じように傷があった痕跡さえわからなくなっていった。
青白かった肌に赤みが差し、鬼がはぁっと安堵したような深い息を吐いたのがわかる。
「っぁ……」
ようやく治癒を終えたときには、明彩の全身は汗みずくだった。
倒れていた少年は、自分の身体が治ったことに気がついたらしく、飛ぶように起き上がり自分の身体を不思議そうに確かめている。
「なんだ、何が起こったんだ。お前、何をした」
「……よかった」
流暢に喋る少年の姿に、明彩は頬をほころばす。
助けられた。安堵で全身から力が抜け、今度は明彩が地面に倒れ込む。
「おい……!」
今度は少年が慌てる番だった。
明彩をしきりに案じ、軽々と持ち上げると裏庭を囲う塀にもたれかからせてくれる。
体格はほとんど変わらないのに、力の強さは間違いなく人ではないとわかるのが、不思議な気持ちだった。
「君は、一体何なんだ。退魔師ではないのか」
「……私は、なりそこない、だから」
「なりそこない、って」
困惑する少年の顔は、年の割にどこか大人びているように見えた。
人型の怪異は見た目通りの年齢をしていないことも多いという。もしかしたら、明彩よりずっと年上なのかもしれない。
「早く、逃げた方が、いいわ。誰か来たら大変だから」
裏庭に人が来ることはほとんどないが、少年や仕事をしない明彩を探して誰かが来る可能性はあった。
「あっちに、塀が壊れて小さな穴が空いて、るの。あなたなら、抜け出せるはずだわ」
それは明彩が偶然見つけた抜け穴だった。
屋敷を囲う塀には、怪異を阻む術がかけられている。並の怪異では飛び越えることはできない。
しかし、古い塀はもろくなっておりほんの少し内側から力を込めれば出入りできるだけのほころびがあるのだ。
それに気がついたからこそ、明彩はこの裏庭に小さな怪異を逃がしてやっていた。
「君……」
少年は信じられない、という顔で明彩を見つめている。金色の瞳がキラキラと光って、眩しいほどだった。
──本当に、綺麗な、子。
少年に言うべき言葉ではないのだろうが、綺麗という言葉しか思い浮かばない。
不意に、またあの不思議な香りが鼻孔をくすぐった。少年の香りなのだろうかと視線で探れば、彼の服の合わせ目から、なにか青光るものが覗いているのが見えた。
「それ……」
「ん、ああ……無事だったのか」
明彩の視線に気がついた少年が、懐から何かを取り出す。それは手のひらに載ってしまうほどの小さな植木鉢だった。土から伸びるのは小指ほどもないひょろりとした細い幹。いくつかの枝と数枚の葉に守られるようにして、ほんのりと青く光る蕾が一つだけ付いているが、なんとも弱々しい有り様だ。
このまま咲かずに枯れてしまうのではないかと心配になってしまう。
「お花……?」
問いかければ少年は静かに頷いた。
「俺の母上が大切にしていた花なんだ。持って逃げたが、もう駄目かもしれないな」
落胆と諦めに染まった声に、明彩は眉を下げる。
植木鉢を大切そうに抱える姿に胸が痛んだ。たとえ鬼であっても、親を思う気持ちには何も変わりがないのだと思い知らされる。
──そうだよね。家族なんだもの。
あんなに冷酷な扱いをされていても明彩は両親や壱於を憎みきれないでいる。愛されることは諦めたが、不幸せになれとまでは思えないのだ。肉親の情はそれほどまでに深い。
鬼の態度や口調から、彼が母親を慕っていたのが伝わってくる。それほどに情を注いでいたのならば、形見への思い入れは深くて当たり前だ。
「……それ、異界の花なの?」
「異界……そうだな、君たちから見れば、そうなる」
「少し、触ってもいい?」
少年がぎょっとしたように目を剥いた。触られてなるものかと、植木鉢をぎゅっと抱え込む。
「蕾には触れないわ。もしかしたら、私の力で元気になるかもしれない」
「君の力……」
自分の怪我を治してもらったことを思い出したのか、少年は黙り込む。そして少しの逡巡のあと、両腕を伸ばすようにして植木鉢を差し出してきた。
「頼む。大切な、花なんだ」
真剣な表情と言葉に、明彩は深く頷く。そして少年の手に自分の手を重ねるようにして植木鉢を包み込んだ。
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