一章 退魔師一族の汚点⑤

 先ほど、たくさんの力を使ったが少し休んだおかけで少しだけ余裕がある。

 ──どうか、この花を助けて。

 異界の植物を治せるかどうかなどわからない。それでも、何かをしてあげたかった。

 草木を癒やすのははじめてのことだった。弱っているところに強い刺激を与えすぎないように、力を緩やかに流し込んでいく。

 鉢植えの土が、わずかに光を帯びた。それが緩やかに這い上がり細い幹を包み込む。今にも折れそうな枝が、幹と共に力強く太くなっていくのがわかった。今にも落ちそうだった葉の葉脈までもが輝きこすれ合う。弱々しく下を向いていた蕾は、みずみずしさを取り戻し、ゆっくりと上を向き始めた。そして。

「あ……」

 今にも落ちそうだった蕾が、その姿を変えた。

 柔らかく膨らみ、固く閉じきっていた花弁を広げていく。

「きれい」

 それは、赤い花だった。ふっくらとした花びらが何重にも重なり、花というよりも宝石のような輝きを放っている。

 この世のものとは到底思えない、神秘的な姿に明彩はほぅと息を吐き出した。

「まさか、咲くなんて。もう駄目かと思ったのに」

「よかったね」

 明彩は笑顔を浮かべた。

 この瞬間だけは、見つかって怒られるという恐怖よりも、この少年と彼にとって大切な花を救えたという気持ちで心が満たされている。

 そのとき、遠くで慌ただしい足音が聞こえた。

 もしかしたら誰かが少年を探しているのかもしれない。

「早く逃げて」

「でも、君は」

「私はいいの。お花、大切にしてね」

 明彩は急いで立ち上がると屋敷の方へと駆け出そうとした。

 その腕を、少年がふたたび掴んで引き留めた。

「これを」

 差し出されたのは一枚の花びらだ。それは、先ほど咲いたばかりの花から採られたものだろう。まだみずみずしく、花と同じように赤く光っている。

「君にあげる」

「大切なものなのに、どうして」

 ようやく咲いた母親の形見なのに。

「君に、持っていてほしいんだ」

「でも……」

 受け取るべきか迷っていると、少年が明彩の手のひらにその花びらを握らせた。

「この花は君がいなければ駄目になっていた。咲いた証を、受け取ってくれ」

 渡された花びらは、驚くほど軽いのにほんのりとあたたかい。

 驚きで固まっている明彩に、少年が優しい笑みを向けた。

「ありがとう」

「え」

 これまで誰にもそんな言葉かけてもらったことはなかった。

 いつだって仕事をするのが当然。どんなに努力をしても、していなかったことだけを指摘され叱られてばかりだった。

「あ……」

 目の奥がじわっと熱を持ち、視界が潤む。なにか返さなければと思うのに、唇が震えてうまく喋れない。

「じゃあ」

 少年は、ふたたび植木鉢を懐にしまい込むと、明彩が先に教えた塀の穴からするりと外に抜け出していった。

 あまりにも素早い動きだったので、その場に本当に少年がいたのか不安になるほどだ。寂しさのあまり、都合のいい夢を見たのではないか、と。


 ──あの子、元気にしているかしら。

 もらった花びらは翌日には何故か消えてしまっていた。間違いなく手に握りしめていたはずなのに。

 異界の植物はこちらでは長く形を保てないのかもしれない。

 でも、少年がくれた言葉と、美しい花の姿は今でも明彩の心の中に存在している。

 怪異は決して恐ろしいだけの存在ではない。

 そう信じるだけの理由が明彩にはあった。

「そろそろ戻らないと、また叱られてしまう」

 誰に告げるでもなくそう呟いて、明彩は踵を返し裏庭を離れた。

 台所に戻ると、もう誰もいなかった。食卓の上に置きっぱなしにされた食器を下げ、洗い場で片付ける。机を拭きあげ、床を掃き、全ての片付けを終えれば次は洗濯だ。

 急がなければ昼食の時間が来てしまうと、明彩は無心で手を動かす。

 そうしていれば、何も考えなくていいとでもいうように。


***


 あとは寝るだけという時間にもかかわらず、明彩は座敷に呼び出されていた。上座に並んで座るのは両親と壱於だ。顔ぶれだけならば家族水入らずなのだが、部屋の雰囲気にそんなあたたかさは欠片もない。

 父親である史朗は蛇蝎を見るような目で明彩を睨み付けているし、小百合は隣に座った壱於の方にしきりに話しかけているが、壱於は相手にしていない。

 ──一体何ごとだろう。

 家族に呼び出されるときは、叱責を受けるときか、無理難題を押しつけられるときくらいのものだ。いい思い出など何一つないこともあり、明彩は早くこの場から出ていきたくて仕方ない。

「壱於が、退魔師選定の儀式を受ける」

 まず口を開いたのは史朗だ。

「今度の週末『選別の杜』に入り、怪異を無事に狩れれば壱於は正式に退魔師として認められるのだ」

 史朗が口にした『選別の杜』とは、この屋敷の裏手に広がる私有地のことだ。

 そこは異界との繋がりが深く、怪異がふらりと現れることがあり、西須央が管理を任されている。この場所に屋敷が建っているのもそこから怪異が外に出ないようにする意味があった。

 退魔師たちは定期的に杜に赴き、人に影響を与えぬように結界を張り巡らせているのだ。道場に捕まっている怪異たちのほとんどはそこで捕らえられてきたと聞いている。

「……はい」

「お前とは違い、壱於は優秀な退魔師となるだろう。この先、この西須央を支えていくのは壱於だからな」

「ええ、そうですとも。頑張るのですよ、壱於」

 この話の終着点はどこなのだろうと明彩はぼんやりと意識を飛ばしていた。

 彼らにとって大切な子どもは壱於一人だということは、この十八年で散々思い知らされてきた。何故、わざわざ明彩にそれを知らしめる必要があるのだろうか。

「本来ならば、私が同行したいところだが掟により親は監察官になることはできない。同行は別の退魔師が行うことになった」

 意外な言葉に明彩は目を丸くする。史朗のことだから、てっきり無理を通して壱於に付き添うと思っていたのに。

 小百合はその決定が不満なのだろう。眉間に皺を寄せ、恨めしげに史朗を睨み付けている。

「あなたも頭が固いわ。壱於に何かあったらどうするのです?」

「心配には及ばん。同行する退魔師は、優秀な者を付ける。何より、壱於が山に出る怪異ごときに後れを取るわけがないだろう」

「それはそうですけれど……」

 納得できないのか小百合はまだ不服そうだ。

 当事者である壱於は、両親の話には興味がないらしく、ずっと黙ったままだ。

「それで、だ。明彩、お前も儀式に同行しろ」

「えっ!?」

 思わず大きな声が出てしまった。

「私が、ですか?」

 驚くどころではない。これまで明彩は退魔師としての訓練を何一つしたことがない。本来ならば受けるはずの基礎的な練習すら参加させてもらえなかったこともあり、退魔に関する知識はまったくない。付き添ったところで何の役にも立たないのに。

「そうだ。儀式には監督の退魔師の他に、もう一人付き添いが必要なのだ。通常であれば、本家から人を呼ぶのだが、あちらも忙しいらしく身内でも構わないという返答が来た。力はなくともお前はこの西須央の娘だ。怪異の恐ろしさを一度学んでみるのも悪くないだろう?」

 にやり、と口元を歪めた史朗の表情に、明彩は彼らがどんな意図を持ってこの話を進めようとしているのかを悟る。

「姉さんがここでぬくぬくと生きている間に、僕がどれほど苦労しているのかその目で確かめてほしいのさ」

「そうよ。あなたが役立たずなせいで壱於ばかりが苦労をしているのよ。少しは学ぶべきよ」

「少々怖い思いはするだろうが死ぬことはないさ。安心しろ、儀式で何かが起れば本家が保障してくれる決まりだしな」

 ──私に怪我をさせたいのね。

 じわりと胸に広がる絶望に、明彩は目を伏せた。

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