第17話  最悪の末広がり

  あの骨の髄まで凍てつくような辛い夜から二十年が経った。


 地震発生から一週間以上が過ぎて、ようやく温かくまともな食事にありつけた。


 俺は茶碗に浮かぶ赤出汁の具を見て嘔吐した事を昨日のように思い出す。


 なぜ、ありがたいはずの善意に拒絶反応を起こしたのか。


 あの震災で最も辛いトラウマを語ろう。


 その前に、まず、奇妙な質問をしよう。


 唐突に思うだろうが、読者にとって重要な事項だ。この先の文章を読む、読まないは自己責任だ。


 あなたに深刻なトラウマを残す可能性がある。もちろん、責任は取れない。


 特に汁物が好物だという人には精神的ショックを与えるだろう。


 あなたは汁粉が好きですか?




 とろけた白団子と甘い小豆が浮かんだ、あの汁粉だ。


 甘党でなくても嫌いではない、出された場合は礼儀として食べる人がほとんどだろう。


 俺は汁粉が好きだった。


 あの惨状を目の当たりにするまでは。


 トラウマを克服するのに二十年近い年月を費やした。


 今でも、時々汁粉を見ると「うっ!」となってしまう。


 あなたは、血でべとべとに浸かった人間の汁粉を担いだことはありますか?


 アイリーンさんの伝言役を始めて半日ぐらい経った。


 途切れることなく訪れる訪問者に俺はうんざりした。


 元々、同じことを繰り返し他人に説明するのも聞かされるのも苦痛な性格だ。


 濃厚な美談も思い出話も聞かされ続ければ食傷気味になる。


 一外国人女性の私生活に立ち入るほど親密な関係でもなかった。


 なにより俺と彼女の関係を誤解している輩が増えすぎた。


 いい加減にしてくれ。もうこの辺でよろしいでしょう……。


 俺は、サバイバル生活に戻った。


 アイリーンさんは俺の心の中でも死んだ事にして前に進もう。


 街のあちこちで捜索作業が始まっていた。


 救助犬は見なかったが、銀色の服を着た消防団やオレンジ色のレスキュー隊員がいた。


 俺は地元民が「バス道(みち)」と呼んでいた一車線道路をさまよっていた。


 その界隈に震災直前の思い出があったからだ。


 別にセピア調に染める出来事ではない。むしろ、忘れてしまいたい。




 俺は写真館があった筈の場所に立ち尽くしていた。


 そこにレスキュー隊員が三十人くらい集まっていた。


 瓦礫を踏破できる車両がぞくぞくと駆けつけて、戦争でも始まりそうな勢いだ。


 何があったのだろう?




 そんなに大それた救助隊を編成して誰を救出搬送サルベージするのか?


 救急車が数台到着して、長い柄の先にゴンドラを載せた作業車まで来た。光回線工事などでときおり見かけるあの車だ。


「なんやなんや」


 被災者が大勢駆けつけてきた。なかなか整わない救助体制に痺れを切らして自分たちで隣人を救出しようという人々だ。


 実際に初期の段階では公的機関より成果をあげていた。


「誰が住んではったんですか?」


「確か、写真屋のおじいさんとおばあさんでしょ」


「それにしては、えらい騒ぎですなぁ」


 人々は不思議がっていた。


 木造の変形二階建て店舗が傾いている。天井部分が異様に高くて、屋根が四階建てくらいの高さにある。


 俺は震災前年の十二月にこの中に入った事がある。


 一階部分は古びたカメラの展示スペースを兼ねた店舗で、フィルムの現像や写真の焼き増しを受け付けていた。


 店の奥に急な階段があり、今で言うロフトのような広々とした写真スタジオがあった。


 天井から舞台装置を吊るしたり、スポットライトがいくつもあって本格的な写真集を撮影できそうな立派な設備だった。


 俺はその当時、転職を考えていて、履歴書写真を撮りに来て、驚いた覚えがある。


 写真機はストロボ式の年代物で、電球のまわりにパラボラアンテナのようなフリルが付いていた。


 カメラマンが遮光用の布を頭から被って、コード式のシャッターボタンを押すという大がかりな撮影だ。


 その割に十枚で五百円とか破格値だった。


 七十歳近いヨボヨボのご主人が被写体の表情に喧しく注文をつける。


 こんな接客では一日の来客数も一桁だろう。


「あかんなぁ。顔が悲しすぎる。お通夜みたいな顔してはる」


 彼は何度もダメ出しをだされ、何枚も写真乾板を無駄にしたあと、諦めたようにこう言われた。


「こっちで写真を修整しておきますね。お代はサービスしますわ」


 今のようなフォトショップで簡単に直すというわけにいかない。人間が絵筆で修正していた。


 後日取りに来いという。




 俺は余計な手間をかけさせたことを謝って店を出た。


 なぜ、俺が悲壮な顔をしていたかというと、半分は俺に責任がある。


 転職写真は、お見合い写真を兼ねていたからだ。


 いい歳をした俺は父親に結婚をせっつかれ、気軽な独身を通したい俺は収入の低さを理由に拒み続けていた。


 業を煮やした父親は、お見合いを設定するという暴挙に出た。


 そして、高収入の転職先は自分で探せと俺に命令した。


 副業でカメラマンをやっているという俺の従兄弟を呼んで、俺を無理やり撮影した。


 その写真と釣書が親類縁者に回覧されたが女性陣の評判は散々だった。


「俺は、よっぽど魅力が無いのか、男として需要が無いのか」


 期待してはいなかったとはいえ、俺は全人格を否定されたようでかなり落ち込んだ。


 それで街で評判の写真スタジオに頼んで、もう一回リベンジすることにした。


 それで顔が暗かったのだが、もう一つ理由がある。


 動物的本能から来る恐怖感を写真館に感じていた。


 お通夜独特の形容しがたいムードを知っている人は共感できるだろう。


 俺は店に行く数日前から「あの」感覚、寒気というか体の芯から精気を吸い取られるような寂寞(せきばく)感を覚えていた。


 あの時、奥の階段を一歩上がる度に、ぞっと寒気が襲ってきた。


 俺は、はっきりと「寒いです」と訴えたのを覚えている。


 御主人は石油ストーブを点けてくれたが、まったく効き目はなかった。


 俺はガタガタと震えながら椅子に座っていた。


 今にして思えば、俺の動物的本能が活断層の予震を感じて警告していたのだろう。


 震災後、俺がただならぬ恐怖を思い出しながら傾いた写真館を見ていると、紺色の制服を着た人々が壁の裂け目に入って行った。


 警察関係者だと思う。骨折がどうとか、心拍がどうとか、何か医学的な内容を話し合っていた。


 十分ほどしてパトカーが到着。カメラを担いだ増援部隊が建物に入って行った。


 一分一秒を争う急患に写真撮影が必要だろうか?


 これはアカン……。これは中で死んどる。


 俺は彼らが検死官だと悟った。


 救急車が到着して担架を担いだ人が入って行こうとしたが、中から出てきた警官に拒まれた。


 俺たち野次馬に聞こえないように耳打ちしている。


「あちゃー!」


 救急隊員は顔をしかめて引き揚げていった。


 老夫婦は気の毒に亡くなっているのだろう。


 それにしても、この大人数は何をしに来たのだろう。


 語弊があるかもしれないが、年寄り二人が亡くなる以上の大事件が起きているのだ。


 予感から演繹すれば、大量死が考えられる。


 この物々しさ。年末の警視庁密着二十四時とかいう特番を見ているみたいな感じだ。


 この後に、どういう人のどういう人生が待っているのか知らない。


 現場は急にあわただしくなった。白衣を着た人が十人くらい入っていく。


 オレンジ色のレスキュー隊員がベルトコンベアのような物を突入口と道路の間に架けた。


 X線の胸部撮影に使う金属板を担いだ人が何人も突入した。


「死んどる?」


「死んどるんちゃいますか?」


「これは、死んどりますなぁ」


「せや、死んどるわ」


 野次馬が勝手な臆測をしていると、冷蔵庫サイズの白い大きな機械が四人がかりで運ばれてきた。


 その後、一時間ほど動きはなかったが、X線撮影技師たちが「あかん、あかん」と言いながら出てきた。


 一気に騒がしくなった。警官や救助隊員が無線でガヤガヤと交信し始めた。丸聞こえである。


 レスキュー隊長が点呼を始めた。


 オレンジ服が一列にならび、勇ましく叫ぶ。


 そして、一人ずつ中に入って行った。


 どれくらい時間が経ったか判らない。


 急に血相を変えた隊員が穴から出てきて、直立姿勢を取った。


 大きな声で言う。


「女性ッ!」


 しばらく間を置いて、続けた。


「八名ッ!」


 その場に居合わせた者は、次の言葉を予想した。


 内容は判っている。


 出来れば、聴きたくない。


「全員!」


 そんな気配を察したのか、隊員は、こんなポーズを取った。


 頭の上で両腕をクロスさせた。


 女性、八名、全員、×(バツ)


「うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」


 さまざまな声が渦巻く中、オレンジ色の隊員たちは、さっさと片付け始めた。


 新年そうそうグラビア撮影でもやってたのか? こんな場末の街で。


 俺は納得がいかなかった。


 オーバーを着込んだ親類であろう主婦が、レスキュー隊員と押し問答を始めた。


「あのねぇ! 私らは人命救助が仕事なんですわ」


「生きてない人は、もうどうでもいいんですか!?」


「他にも行かなあかん所がぎょうさん有るんですわ」


「ここも行かなあかん所の一つでしょう!?」


「せやから、私らは生きている人を助けるのが任務」


「私は生きてます。兄も生きてます。あの人は、まだ見つからへんのですか?」


「え〜加減にしてください。こんだけ死んでますねん。助かりませんわ」


「あんたは、それでも人間か!? 人でなしか!? それで人命救助が出来るんか?」


「もうええです。次の現場行きますわ」


 レスキュー隊長は、やすやすと挑発に乗らなかった。


 主婦は、いきなり隊長の足元にしがみついた。


 火事場の馬鹿力とは、この事であろうか、屈強な隊員三人が引きはがそうとするがびくともしない。


「殺してーーー! 助けへんのやったら私を殺してーー! よそ行くのやったら私を殺してーー」


 もの凄い執念だった。


 根負けした隊長は嫌そうに叫んだ。


「しゃあないなあ!!」


 やけくそ気味に言う。


「こんなんレスキュー隊の仕事ちゃうんですよ! レスキューは、こんなんせぇへんのですよ!


 もう亡くなってるんです。今回だけ特別ですよ」


 隊員達もさんざん文句を言いながら作業を始めた。


 避難梯子というのか、鯉のぼりの吹き流しのような物が壁の穴に設置された。


 隊長は見物人たちに向かってこう言った。


「みなさん、ご協力をお願いします! 衣服が血液で汚れたりしても弁償する事はできませんが、それでもお手伝いをお願いします」


 瓦礫の撤去に人手が足りないから協力を要求しているのだ。


 血で服が汚れる?


 俺は、こんな状況に関わりたくないと思った。


「ぜひともご協力いただけますよね?」


 俺は隊員に睨まれて手に持っていたポリバケツを渡してしまった。


「容器が足りません! 他にもバケツ等ご協力いただける方、作業にご協力いただける方はお願いします」


 隊員が大声を張り上げていた。


 容器が不足する作業ってどういう作業だ?


 そうこうする間に大きなゴミバケツが集められた。


 レスキュー隊員も銀色のシートで包まれた円筒形の容器を持ってきた。


 サイズは小学生がしゃがんで中に入れるほどだ。


 吹き流しをくぐり抜けて隊員が突入しようとしたが、


 邪魔になると判断したのか、吹き流しは、すぐに撤去された。


 俺たちは指示に従って瓦礫を運んで間口を広げた。


 円筒を担いだ隊員が中に入っていった。


 俺は、中の様子がだいたい想像できたので身震いが止まらなかった。


 女性八人が全員ペケで収納容器が大量に必要な状態。しかも血で汚れても保証しかねる。お判りいただけるだろう。


「うわぁ!」


 俺は一目散に逃げ出したかったが、あたりは屈強な隊員や人々に取り囲まれていた。


 それから無我夢中で時間経過を細かく覚えていない。容器を抱えた隊員が穴から出てきた。


 まず、家の前に円筒形の容器が八つ並んだ。それだけでは足りず、大小いろいろな容器が使用された。


 どれも、しっかり蓋がされている。


 だが、俺は見てしまったのだ。


 容器のふちにべっとりと赤い色をした液体が付着しているのを。


 あまりに容器が多いので、棒にひっかけて二人一組で運ぶことになった。


 俺は容器の中身をなるべく考えないようにした。


 それから、四十歳前後だろうか、髪の毛がボサボサの男性がパジャマ姿で毛布にくるまれて救出された。


 主婦のお兄さんだと思われる。


 彼はギョロギョロと周囲を見回していた。


 隊員が質問した。「大丈夫ですか? お名前は?」


 彼は上の空だった。


「娘は? 子どもたちは、どこにいるんです?」


 彼は何度も尋ねたが、隊員はスルーした。


「どうしたんです? 私の家族を早く助けて下さいよ」


 誰もがあえて無視した。


 すると、彼はギョロっと目玉が飛び出しそうな勢いで隊員を睨んだ。


 目からレーザー光線が飛び出しそうな殺気をこめて、あたりを何度も見回した。


 そして、彼は見てしまった。


 家の前に並べてある物を。


「大丈夫ですか?」


 隊員が質問を続けていると、男が急に奇声を発した。


「アアアアァーーーーーーーーーーーーーーー!」


 首がちぎれそうなほど滅茶苦茶に振り回した。


 口からは唾液をダラダラと吐いて、手足を狂ったようにジタバタさせた。


「どうしはりました? 御主人? 御主人?」


 白衣の男が担架に乗せようとするが、暴れ回る。


「アグワーー! オゲーーーーーー!」


 言葉にならない声を発し続けている。


 映画や小説で人間が一瞬にして狂う描写がある。


 俺は脚色だと思っていたが、実際にあることなのだ……。


 この時の光景を俺は一生忘れない。


 そして、俺は今でも汁粉を食うのが怖い。


 震災から半年が過ぎたころ、俺の職場で同僚が騒いでいた。


 そいつはアニメの宇宙海賊キャプテンハーロックに出てくるヤッタラン副長に容姿も性格も瓜二つな奴で、オタクの鑑だった。


 おまけに彼はバイクレースの撮影が趣味で、鈴鹿八時間耐久レースのために職場が忙しかろうがお構いなしに連休を取る人間だった。


 こいつは嫌な野郎で、俺より一回りも年下の癖に勤務歴が俺より長いということで先輩面をしていた。


 俺に敬語を使わせたり、何かとパシリにしていた。


 そのこいつが地震直後から交際相手と連絡が取れないというのだ。


 こいつが彼女の捜索に三次元まで手広くやっていたことに俺は驚いた。


 勤務中にも関わらず市町村の災害対策本部や病院など、ところ構わず電話しまくって彼女の消息を尋ねていた。


 死亡者や行方不明者、負傷者の中にも彼女の名前はなかった。


 とうとう、病院にまで出向いて入院患者の中に彼女を探し始めた。


 ある程度、社長の許可を得ていたとはいえ、度が過ぎるので、よく上司と衝突していた。


 漏れ聞こえる情報を総合すると、地震発生当日、神戸市灘区の一軒家に彼女を含めた女性陣が集まっていたらしい。


 彼女の親類の結婚式が翌日に控えており、出席するために親類一同泊まり込んでいた。


 その家の犠牲者は死者名簿で確認できたらしいが、肝心の彼女の行方が知れない。


 神戸市内に戸籍を持つ者はある程度、身元を解明できるが、県外からの臨時滞在者は身元の把握が困難だという。


 もしかしたら、あの容器の中に……


 五月の連休が明けてJR六甲道(ろっこうみち)駅が復活する頃、彼は社長に彼女探しを諦めるよう諭されていたが、俺は、ある可能性を黙っていた。


 彼女は、あの容器の中にいたのだろうか、神のみぞ知る。


 悲惨な末路など己の胸の内にしまい込むほうがいいに決まっている。


 俺は、かろうじて生き延びることができた。


 生きるも死ぬも神のご意志なのだろうか……

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