第12話 人間が人間でなくなる時
震災三日目。
明け方の冷え込みは子どもの生命を粛々と奪い、弱々しい太陽は、夜に放射冷却を招くため、偽りのぬくもりを被災地に注いでいた。
状況を把握できないまま戦場のど真ん中に投げ込まれた兵士と同じ状況で、被災者達は敗北していった。
どんなに体力、知力、気力に恵まれた英雄でも、この困難を打開できないだろう。
既に死は決定事項だ。焦点の定まらぬ眼をした負傷者が放置され、お腹を空かせた赤子は微動だにしない。
死臭に導かれたカラスが、上空に群れ集う。
真冬の空は海のように深く、暗い。何もせず、あの世に飲みこまれるか、この世にしがみつくか、時間は俺に容赦ない決断を求めてくる。
「ぃたぃ…」
気の早いカラスが、虫の息をしている人々をついばみに降りてくる。時おり、蛙に似た悲鳴があがるが、カラスを追い払う余裕はない。
困惑する人々を置き去りにして、軽やかに動き回る集団がいた。日頃から自治体を糾弾する事に生甲斐を感じている暇人だ。
「地震から三日も経ってるのに、炊き出しの一つも無いって、どういうこっちゃ?」
「ほんま、これ、行政の怠慢やで」
「神戸市は何をしとるんじゃ、コラー!」
不満が一気に噴火した。傍観者が被災者に苛烈な自己責任を追及する現代と比べて、住民の権利が過剰だった時代である。
お役所に一から十までお膳立てを求めるが当然だった。
「だいたい、ここは学校やで?この非常時に先生の一人もおらんちゅうのは、どういうこっちゃ?」
今で言うモンスタークレーマーである。災害時の学校は、あくまで緊急避難場所であって、教師の管轄ではない。
民衆の怒りは空気を陽炎のように揺るがした。暴動の予兆である。
「責任者出てこいやコラ!」
「そうじゃ、責任者連れて来い!」
「誰や?探せ!」
「あ、わし、知ってるで」
行き場のない罵声が結実し、事態を動かす。俺には新鮮な発見だった。
膠着を打開するのは甘い希望ではなく、負の状況は負の感情で乗り越えるしかない。
やがて、人々は狂信者の眼とハイエナを凌ぐ嗅覚で、獲物を探し当てた。
ひょろ長い、今風の二枚目と言うのか、オタクめいた青年である。
病的な眼光をみなぎらせ、彼は躍り出た。
「私は教育委員会でも、防災担当でもありません!市役所のシステムエンジニアですよ。それやのに、校舎の様子を見てこいと言われたんです!」
弁の立つ彼は尋常ではなかった。言いがかりに近い苦情を論理的に受け流していた。
被災者は反論のチャンスを見失ったまま、怒鳴るのが精一杯だった。
「炊き出しぃ? そんなもんありませんよ! 市役所もメチャメチャに壊れて、道路も寸断されて、あなたなら、どうできますか?」
「そんなもん、どないかせえや」
「どうしろと? 私なんか、まだ家族と連絡がつかないんですよ」
押し問答にいつまでも堪えられる者はいない。釘の生えた棒が、青年の肩を掠めた。角材を振るった男が青年をたじろがせた。
「どうや、怖いか?」
ガツンと重い音を立てて、校舎のガラスが叩き割られた。
「お前は、自分の立場しか心配してない。みんな、怖い思いをしとるんや!」
死体が山積みになっているのに、何が怖いというのか? 青年は渋々、うなづいた。
「わかりました。手あたり次第、配給を依頼してみます。では!」
「待てやコラ!」
男は立ち去ろうとする青年から、人質代わりに財布を取り上げた。
「これは預かっとく。逃げるなよ!もしもの時は……わかっとるやろな?
お前の家族、生きとったら……探し出して……目玉えぐって……煮て、喰うてやる」
男は惚れ惚れするような啖呵を切った。
「……約束します」
青年が言い終わらぬうちに「おおっ」と芝居めいた歓喜が広がった。
被災者は、日常を取り戻す足がかりになればと、笑顔で青年を見送った。
校門の前に神戸市と書かれたワゴン車が止まった。数名の市職員とあの青年が憔悴しきった表情で青い番重(ばんじゅう)をいくつも降ろしている。
俺は不吉なオーラを感じた。何かがおかしい。救援物資で皆の空腹が癒されて、万々歳じゃないのか?
我慢できず、被災者達が校門へ走り出した。
≪落ち着いてください!!!≫
青年が拡声器で制した。こうなる事を想定していたのだろうか、耳がキンとなるほどの大音量だった。被災者は立ち止まった。
≪これから配給を開始します。三列で順序を守って下さい≫
従順な羊のようにフラフラと被災者が並び始めた。どこか腑抜けたような安心感が感じられた。
俺は人々のあまりの単細胞ぶりに失望した。先程までの殺し合いを始めそうなまでの、あの鬼面は何処へ行った?
同時に、俺の観察眼は配給の列をあざ笑っているグループを見つけた。ガラスを割った、あの男も混じっている。狼に似た存在感があった。
「なぁ、あんた、頼まれてくれはらへんやろうか?」
傍観していた俺を老婆が小突いた。
「私とお爺さんの分も、おにぎり、もろうて来てくれはらへんか?」
俺は狼集団の意図が見えていたので、列に加わりたくなかった。
「お爺さんも、私も、ペコペコで…」
ああ、うるさい!気の毒だが、俺は虎の尾を踏むほどお人好しではない。
老婆は涙を浮かべる。
「私はね……尼崎で空襲に逢いましてん。それから、この人とずっと神戸に住んでてね……ああ、何でこんな目に……」
あまりのしつこさに俺はキレた。
「戦争を体験したなら、この不穏な空気がわからんのですか!」
戦中を生きた人も、老いると面白いように冷静さを欠く。国への忠誠心の深さが、そのまま故郷への執着として尾を引く。
青年の言葉に嘘は無かった。積み上がった番重の中には六個入りのおにぎりパックが詰まっていた。
だが、彼は狸だった。列の前半がスムーズに流れているうちは良かった。
物わかりのいい高齢者を優先したからだ。
食料を得られる安心感から人々は理性を少し取り戻していた。
「ぬんじゃあ、コリャ!」
いきなり、ドロドロに汚れたサラリーマンが狸に掴みかかった。
「こりゃ、詐欺やんけ!」
サラリーマンの絶叫に同調した人々が列を乱して狸を取り囲む。
≪聞こえなかったようですので、もう一度言います!!≫
狸が拡声器で反撃した。
≪おにぎりは、一世帯、一個です!!≫
ええっ、と待ち行列がどよめくも、狸は容赦なく畳みかけた。
≪おにぎり一つを家族で分け合ってください! 周囲にお腹を空かせたお年寄りや子どもがいたら、譲ってあげて下さい≫
狸は民衆を焚きつける天才だった。正論を言っているし、皆、窮状も理解しているが、無意識に他人を不快にさせるオーラの持ち主だった。
「追加の配給は、いつ来ますか?」
ある人は辛抱強く尋ねた。おにぎり一個とは言え、配給に光明が見えたからだ。
≪皆さん、落ち着いて、よく聞いてください!≫
人々は、イエス・キリストの説教を聞く弟子みたいに静まり返った。
≪食料は…≫
パンと葡萄酒を拝領する巡礼者達。
≪各自で調達してください!!!≫
狸は期待をみごとにを打ち砕いた。
事態が周知されるまで一分間の沈黙があった。
その間に、狼集団と列の参加者数名が何かうなづき合っていた。
俺は、今まで生きてきて、これほどまでに組織立った殺気を見たことがない。
「よっしゃ、よう言うたのう! 自分で調達したらぁ!」
狼集団の頭目の怒号を合図に、待ち行列がわっと狸に襲いかかった。
番重がなぎ倒され、こぼれ落ちる握り飯を人々が奪いあう。将棋倒しを踏み越える、人間の津波。
もはや、拡声器の魔法も通じなかった。というより、狸は大衆に羽交い絞めされ、背骨の折れるバキバキッという音がしたかと思うと、
口から血を吐いて倒れていた。
黒山の人だかりにおにぎりパックが舞う。そこへ、角材を振り回した狼集団がなだれ込む。
額を割られて、白目を剥く主婦。角材で足払いされ、倒れた瞬間におにぎりを奪われる老人。
狼集団は見事なチームワークだった。傍観者への攻撃も準備されていた。
争奪戦の勝利者が家族のもとへ帰って来た所を襲うのだ。
まず、座る場所が無くて立ちっぱなしの人々が狙われた。
足腰の弱った者の膝が蹴られたり、背中が角材で打ちのめされた。ごろりと転がる高齢者。
次に子連れが狙われた。
狼集団は幼児を地面に叩きつける、小学生の頸椎を角材で殴って気絶させるは序の口。
子どもを庇おうとする親の顔を滅多打ちにする。
子どもが小さな体で親の前に立ちはだかろうとすれば、蹴り倒して、母親の気力を削ぐ。
醜い争奪戦から奇跡的に逃れた配給ルートを潰していった。
そして俺は、人間が人間でなくなる瞬間を見た。
ある家族の父親がおにぎりパックを三つ抱えて帰って来た。満身創痍だった。
「パパ、お腹減った……」
息子の声を聴いた父親は、ギョロっと睨みつけると、おにぎりをパックごと噛み千切った。そして、ダラダラと口からご飯粒を垂らすほど頬張った。
「パパ……パパ……おにぎり、ちょうだい」
子どもが父親の足にしがみつく。
父親は両こぶしで息子の頭を何度も打ちすえた。それでも、子どもは泣きながら離れない。
明らかに殺意を込めた一撃の後……
くたっ。
子どもが大の字になって地面に落ちた。
父親の眼中には、おにぎりしか無い。仁王立ちでパックをしゃぶりつくしていた。
狼集団は、同士討ちを始めていた。
やがて、軽自動車が校庭にバックで侵入した。おにぎりを奪って積んで、どこかへ去った。高値で売ってもっと旨い物を喰うのだろう。
これが生存競争だ!
俺は崇高な真理を垣間見た。神の叡智に震えていた。
シマウマの群はライオンから逃れるために、足の遅い個体が進んで犠牲になるというが、不十分な理論だ。
「危機に瀕した集団は弱者を徹底排除し、子孫を残せる健康な雄を優遇する」
もう一つ、大切な真理がある。
「不十分な平和は戦争を招く」
今回の戦犯はあの狸青年だ。まやかしの食料で大勢の犠牲者が出た。
俺は言いたい。福祉なんか金持ちの道楽だ。
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