第11話 色々な人
…そこには、苦しみしか無かった。
どこまでが現実で、どこまでが悪夢かわからない。
気付いた時、身体の感覚はなかった。地獄の様な痛みと熱を感じた。
俺は焼けた石の上に転がされていた。鬼がミイラの列から容赦なく税金を取立てていた。
鬼たちは金を持っていない俺を遠くから嘲笑していた。
やがて、俺の意識は遠のいた。
次に感じたのは、背中の一点を針で突かれたような痛みだった。
その周囲に強烈なかゆみが湧いた。四、五匹の蚊に同時多発的に刺されたみたいな……それが体のあらゆる関節に発生したのだからたまらない。
反射的に掻こうとして、腕から先が燃えるように痛んだ。まるで蜂の大群が身体の中を刺して回っているようだ。
腹の底からえぐる様な別の痛みがこみあげて来た。
「げぇっ!」
俺が吐く間にも、背中がハンマーで殴られたように何度も痛んだ。
咳を繰り返すうちに、何かが喉の奥に詰まった。
同時に、猛烈な恐怖が襲って来た。俺はパニックに陥った。
押しつぶされるような圧迫感と吸い込まれるような感覚。
呼吸困難に陥った俺は、あるはずのない蟻地獄から逃れたい一心で、大声を出しながら、のたうち回った。
先ほどまでの痛みを上回る気持ち悪さだ。
指を喉に突っ込んで、ゲーゲーと唸ると、異物が取れた。
折れた歯の破片が出て来た。
この事で俺はトラウマを抱えてしまった。今でも夢に出てくる。夜中に飛び起きて絶叫する事がある。
どれくらい経ったのだろう。呼吸が整って、周囲を把握する余裕が出来た。
すでにあたりは真っ暗だった。
闇市を仕切っていたヤクザも、群がっていた客も嘘のように消えていた。
ひどい打撲と関節痛が手足に残るものの、幸いな事に骨折は無いようだ。這うように俺は歩き始めた。
このまま寝ていると、余震で崩れた家の下敷きになる。
俺はセンベイになった人々を見て来た。
しかし、俺には行き場が無かった。
俺は、≪御影(みかげ)駅まで来れば生き地獄から逃れられる≫という希望にすがって、ここまで来た。
だが、救いの手は差し伸べられなかった。
かわりに、ヤクザが被災者を食いものにして、いち早く地獄から脱するという、容赦ない生存競争を見せられた。
ああ…神様。「隣人を愛せよ」というのは、利用する事が前提なのですか?
俺は小さな橋の上で嘔吐を繰り返した。燃えさかる街では被災者たちが救助活動をしていた。
俺は空腹で体力が残っていなかったので、消火活動に加勢する事もできなかった。
突っ立って、あたりを見回していると、ふいにガスに引火したような炸裂音が橋の上を走って、
俺のすぐそばにいた子どもが呻き声とともに欄干に倒れかかった。俺は他の住民たちとそちらへ駆けよった。
「担架!」と、誰かが叫んだ。
こんな状況に何で担架がある?
バリバリバリ。ヘリが頭上に迫って来た。
俺達は期待を込めて手を振った。助けてください!声を振り絞った。
ヘリは二、三度、旋回した後、小さくなって消えていった。
「何や?あいつ、自衛隊とちゃうんか?」
「救難物資を落としに来たのと違うんか?」
勝手な期待を裏切られた被災者達が怒鳴っている。
「あの人らカメラ構えてましたよ」
誰かが余計な一言を呟いた。
「何じゃコラ!ここはイラクちゃうど!」
案の定、余計な一言を言った者は、マスコミの代わりにボコボコに殴られた。
俺は子どもの頃に見たベトナム戦争のニュースを思い出した
ここは戦場だ。第二次大戦の首都ワルシャワそっくりだった。
廃墟と化したビル群、旋回するヘリ、火災。
不幸があふれている。足りないのは銃弾だけだった。
湾岸戦争の時も俺達は傍観者でしかなかった。むしろ、状況を愉しんでいた。
因果応報だ。
四名が倒れた子どもを抱えて、抱き上げようとした。
「痛いいいいい!あかん!」と子どもはうめいた。
子どもは顔をそむけて、親を探しもとめるように、遠くを、煙の流れを、空を、月を眺めはじめた。俺もついそちらを見た。
赤く染まった空のなんと美しく見えたことか。なんと淡く沈んで静かで、そして深い月だろう。
そしてもっともっと美しかったのは夕焼けに染まる六甲の山脈、神秘的な稜線、梢まで薄雪におおわれた山林。
あちらには安らぎと幸福があった。
『ああ……ただ、あそこに行きさえできたら』と俺は思った。
あの月の下にはこんなにたくさんの幸福があるのに、ここには……呻きと、苦痛と、恐怖と狂気、そして死傷者たち、このあわただしさ……
そらまた誰か叫んでいる。
そうだ、これがあれなのだ、死なのだ。俺の周りに……一瞬したら俺は、もはやあの月も、稜線も、二度と見ることが無くなってしまうのだ。
その時、月が雲の影に隠れはじめた。俺の前方に現実が映される。
子どもは安らな眠りを迎えていた。
「ほら、あなた。この子、あごに髭が一本、生えているわ」
我が子の亡骸を見て母親が呟いた。
「……そうか……せっかくここまで育てたのになぁ…もうちょっと生きてくれたら一緒に酒も呑めたのになぁ……悔しいなぁ」
父親がうつむいて嘆いた。
すると死と恐怖と月と親子の愛が、すべてが心を痛ましくおののかせる一つの印象に溶けあった。
小学校の校門にたどり着いた。既に校庭は被災者であふれていた。
俺は校舎に入ろうとして制止された。
それなりの秩序が確立されているようだ。
「何で入ったらあかんのや?」
俺の問いに大学生らしき門番が答えた。
「もう満員です。歩く元気のある人は外で寝てください」
俺はこいつを殴ってやろうと思った。
「俺も怪我しとるんじゃボケ!見てわからんのか?」
「でも、あなたはまだ歩けるでしょう!」
「俺に凍死しろっちゅうんか?!」
「あなたは、寝たきりの人に凍死しろと言えるんですか?」
「……」
俺は引き下がるしかなかった。完敗だ。
弱者を振りかざすのも生存競争。
最低賃金より生活保護費が高い自治体もあるという。
そして、俺は校庭の人々に加わった。あらゆる意味で負け組の吹きだまりだ。
飢えと寒さと疲労で会話する人はいない。ときどき子どもと母親の喧嘩が聞こえる。
無い物は無いのだ。
「キャー」
悲鳴があがった。
「美緒ちゃん!美緒ちゃん!」
若い母親が五歳くらいの娘を揺さぶっている。
「どうしましたか?」
たちまち、人が集まって来た。
「美緒が!美緒が!さっきまで返事していたのに、息をしてないんですぅー」
母親は号泣していた。
「……おかあさん……わたしも……しんどい」
美緒の隣で小学校低学年ぐらいの女の子がぐったりしている。
「綾香まで死んだら…わたしも手首切って死ぬー!」
半狂乱になった母親を男たちが羽交い絞めにして、どこかへ連れて行った。
「凄い熱や!こらあかん!すぐ医者に診せなあかん」
綾香ちゃんの額に手を当てた男性が叫ぶ。
「しかし……119もできひんしなぁ」
「救急車や!わし、見たで!国道二号線を救急車の軍団が走っとる」
「それ、どないせえっちゅうんですか?」
「どないかして、止めるんじゃ!」
男達の間から次々に暴論が湧き上がる。
またしても俺は、救急車妨害作戦の要員になっていた。
国道二号線。ハリウッド映画の追跡シーンのように地平線の向こうからサイレンと赤い光が襲来する。
違う点はパトカーでなく救急車であることだ。
しばらくすると、救急車が集まって来た。
「今回は特別に搬送します。ほんっとに例外ですよ!」
しぶしぶといった感じで救急隊員達が言う。
「みなさん聞いてください。条件があります。まず、意識のない人は搬送しません」
被災者達の間から驚きの声が上がった。急患を選別するというのだ。
まず重病人が優先されるべきではないのか?
命は平等ではないのか?
そうではないらしい。助かる見込みのない者に人員を割く余裕がないのだ。
俺は神を呪った。また、弱肉強食か!
「次に持病のある方、今日、薬を飲まないと命に関わるという方、臨月の妊婦や生命維持の必要な障害児、透析が必要な方に限ります」
切り捨てる条件が明示された。
「綾香、綾香を乗せてあげて」
母親がぐったりした娘を抱えて救急隊員に食い下がる。
その時だった。
「僕のかわりに先、乗ってください」
ある青年が救急車から降りて来た。
「僕、透析せなあかんのですけど。綾香ちゃんのお母さん、どうぞ。僕は後でもかまいません」
青年は、にっこり笑って席を譲った。そして母娘は搬送されていった。
俺は雷に撃たれた!
カルネアデスの板と言う説話がある。浮力が一人分しかない板を遭難者が互いに奪いあう際、相手を見殺しにしても罪に問われないという。
共倒れになるよりはマシという結論だが……
青年は犠牲になる方を選んだ。
貴方は出来るだろうか?持病の治療を投げ打って小さい女の子を助ける。
俺だって我が身が可愛い、できない。
翌日、彼は透析が間に合わずに亡くなってしまった。
神は弱肉強食の不条理を罵ってばかりいる俺に、「青年・逆カルネアデス」を遣わしたのだ。
ああ!俺が馬鹿だった!!逆カルネアデスよ!愚かな俺を許してくれ!!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます