第10話  神は、いますか?

あなたは考えた事があるだろうか?


「人間の平常心を保っている物は何か」という事を。


起きて、一日の予定をこなし、合い間に食事をして、寝る。


三百六十五日、繰り返し、人は年老いていく。




暮らしのリズムが人間の心を支えている。


「何だ、当たり前じゃないか。暮らしの乱れは心の乱れだ。誰にでも多少はあるが立ち直る。精神を病むほどではない」


あなたは、そう答えるだろう。


阪神大震災で俺は真逆の生活サイクルを送った。


まともな睡眠も食事もしていない。その代わり、地面が不規則に揺れ、当たり前の様に人が死んでいく。


朝も夜も!




俺は悪魔の周期に毒され、遂に死体に食欲を抱いた。


そんな日々から逃れるために俺は阪神御影(みかげ)駅をめざした。


特急が停まる、バスターミナルもある大きな街である。四車線の道路もある。幸い、瓦礫や車の残骸で塞がれていない。


俺は道路沿いにひたすら進んだ。思い出したように腹の虫が鳴く。


「死体を焼いて食いたい」




俺は誘惑と戦い続けていた。


邪念を振り払うために俺は歩く事に集中した。


「右足の次は左、その次は右。頭を空っぽにして、足を交互に出すんや。御影(みかげ)まで歩いて三十分もかからへん」


時々、立ち止まっては景色と震災前の記憶を照合する。


「石屋川まで来た。あと一駅や」




俺と同じように御影をめざす被災者が増えてきた。


同時に、奇妙な人の流れがあった。御影からこちらに歩いてくる人がいる。


一人や二人ではない。六甲道(ろっこうみち)から脱出する人々のように厳しい表情でもない。


不満ではあるが、何かに妥協したような顔だ。どこか安堵すら感じさせる。


そして、俺の本能は「それ」を見逃さなかった。彼らは「心の拠り所」となる物を手にぶら下げていた。


白いビニール袋である。おにぎりやパンが詰まっている。どこかで配給が始まっているのだろうか?


そうに違いない!




俺は彼らの一人にたまらず声をかけた。


「あのう…それ…どうしはった…」


俺の質問は怒号で阻まれた。


「おんどれ! 一歩でも近づいたらブチ殺すど!」


ビニール袋を持った中年男性が棒を振り上げている。


「おい、これ持っとけ。死んでも離すな!盗られたら、おのれも殺すさかいに」


男は隣にいた背の低い青年にビニール袋を預けた。


「ええ根性しとるやんけ。人様が苦労して手に入れたモンをかすめ取んのやろ。


横から楽して盗るとは見上げたわ。お前の性格は死なんと治らんのう」


男は諭すように地面を棒でコンコンと打った。


「ああ?どういうつもりじゃコラ!」




どうもこうも、俺は食料を然るべき手段で手に入れたかっただけである。


食料の出どころを聞いただけじゃないか!奪うなんてとんでもない!


それとも、まだ略奪が続いているのだろうか?


俺が考えている間に男が棒を振り回して近づいてきた。


殺される!




俺は男の脇をすり抜けて逃げようとしたが、足がすくんで動かない。


俺は数々の奇跡を見せてくれた「生存本能」に呼びかけた。


どうした?炎上する実家から俺を連れ出してくれたじゃないか。なぜ力をくれないんだ?


腹が減っていたからだ。


悩んでいると、いきなり頭痛がした。俺は背後から棒で殴られたのだ。


俺は地面に倒れこんだ。




「やっぱり盗む気か?おんどれ!今、逃げようとしたのう?」


男は俺を略奪者だと確信したようだ。


「おい、このボケが逃げんように見張っとけ!もし逃がしたら、お前も殺すぞ」


男は、さっきの背の低い男に監視を命じた。


「何も殺さんでもええんちゃいますか?」


「地震で大勢死んどるんや!いまさら一人二人殺そうがわかるかい!こういうクズは殺しておかんと、あとで皆が迷惑するんじゃ!」






男は、うずくまっている俺の腕を棒で叩いた。


俺が思わず地面に転がると、今度は俺の背中を角材で力任せに突いた。


全身が感電したような感覚が走った。


男は角材で何度も俺の頭を叩いた。俺の膝や踵を滅多打ちにした。


全身がしびれて動けない。






「何とか言うたらどないじゃ!」


男は角材で何度も俺の口を突いた。俺の唇が熱くなった。腫れているみたいだ。


口の中に鉄の味がひろがる。咳き込んで血を吐いた。


背の低い男が怯えたように言った。


「もうそのくらいでコイツ、許したったらええんちゃいますか?大勢の人が見てまっせ」


「せやな」






男は俺の髪の毛をつかんで引っ張り上げた。


「おんどれ!よう見とけ!物が欲しかったら、あの人らみたいにきちんと並んで、自分の金で買うたらんかい!」


道端で商売をしている男がいた。交差点の向こうまで客が列をつくっていた。


「何でも現金で売ったるがな!兄ちゃん」


暴力団員風の男が食料を法外な値段で売っていた。被災者は文句ひとつ言わず買い物を済ませて、スムーズに列が流れていく。


「買い物の仕方もわからんのか?見たらわかるやろうが!!」


棒で俺を殴った男は勝ち誇ったように言った。






暴力団員と客の間で常識では考えられない金額がやり取りされていく。


「いらっしゃい!菓子パン三つで千円!カップラーメンは三千円からや。缶詰?…時価や。ああ、缶切りもあるで!別料金や」


棒の男が俺を暴力団員の前に引きずって行った。


何となくニュアンスでわかった。何かを買って、自分が泥棒でない事を証明しろというのだろう。


もちろん現金など持っていないが、俺は殺されたくないので買うそぶりをした。


「あの…おにぎりありますか?」


「ああ、握り飯は『旬のもん』やさかいのう。五千円でどないや」


俺は驚いて余計な一言を言ってしまった。


「まさか、おにぎり一個が五千円?そんなことないでしょう?」


「はぁ?お前、頭おかしいんちゃうか? 今はその『まさか』やで?」


「ボッタクリ(暴利)やん!」


俺がつい、本音を言うと、棒の男が俺を突き飛ばした。


「何ぬかしとるんじゃこのボケが!おい、誰かこいつ、シバいとけ!」




暴力団員が怒鳴った。


「お前、猪口さんが苦労して、この寒い中、食べもんを運んでくれはったのに、何がボッタクリじゃボケ」


暴力団員猪口の仲間らしきギョロ目の男が俺の襟をつかんだ。


俺は足払いをかけられた。倒れる瞬間に股間を蹴られた。


俺の眼前に無数の靴の裏が見えた。ぼこぼこに蹴られた。


生臭いゴムと足の裏特有の悪臭がした。同時にワサビに似たツンとした感覚がした。


鼻を蹴られた衝撃だった。鼻腔がムズムズして、クシャミと鼻血が出た。






それから後は、意識が朦朧として断片的な記憶しかない。


「列を乱さないように!余震もありますんで。転ぶと危険です。商品は、まだまだ持ってきますので、焦らないでください!」


遠くから暴力団員の威勢のいい声が聞こえる。


ギョロ目の男が待ち行列を仕切っている。客も目をむき出しにしている。






猪口達は金を持っている者には優しかった。


狂った世界で、狂った常識が、狂った人々を動かしていた。自動改札のようにスムーズに客が流れていく。


狂った者同士が噛み合って、独自の秩序が生まれていた。


「常識で考えればわかる」と声高に叫ぶ人は狭い世界のルールを振りかざしているだけだ。




そして、俺の視界も狂っていた。


角材で頭をボコボコに殴られた人ならわかると思うが、世界が「@」マークで埋め尽くされるのだ。


体を支えようと手元を見ると、その部分だけグニャっと@状に歪む。


右足に力を入れようとすると、感覚がグニャっと曲がって肘が動く。




俺は蛇になった気分だった。


視線を集中した先に無数の渦が湧き上った。


そして、記憶が途切れた。




激痛で目が覚めた。


歯茎が痛い、痒い。頭が熱い。


ぐらぐらになった臼歯を舌でまさぐると、歯茎が千切れかかっているようだ。


俺は口の中に溜まった血を吐いた。


俺の手足が小刻みに震えていた。


全身に針が刺さったような痛みがある。


起き上がろうとしても、体が麻痺して動かない。






力が入りそうな部分を動かそうと試みた。


筋肉の中を無数の針が流れてきて、関節に集中する。


激痛がドカンと背骨を貫く。




「うっ」と呻くと、胃液がこみ上げてくる。吐いている最中は喉の奥が焼け付く。


そして、視界がまた回りだした。






俺を助け起こそうとしてくれる客など一人もいない。ぎらついた目で紙幣を払い、ひったくるように食べ物を持っていく。


列を乱したり、店主に文句を言う者など一人もいない。皆が生きる事に精一杯だった。






ここでは俺みたいに流れを妨げる奴が悪人なのだ。


俺は何が正義で何が悪かわからなくなってきた。


「困った時は、お互い様とか、人助けとか言うけど、結局、何やったんや?」






俺は神をののしった。


「誰も助けてくれへんやないか!福祉って何や?結局、余裕がある金持ちの道楽か!」


天は俺にこう言いたいようだ。


『勝ち組が被災地の外から物資を調達し、被災者に高値で売りさばいている。

何も悪いことをしていない。資本主義のルールに従っているだけ。淘汰されるお前が悪い。自己責任だ!』


俺は痛みが癒えるまで、じっと横になっていた。


日が暮れる頃、ようやく起き上がれるようになった。


そして、俺は、あの青年に出会った。


先ほどの神への罵倒を命がけで否定してみせたような、人工透析患者の青年。


彼は、瀕死の子どもたちを救うために、救急車の順番を譲り、逝ってしまった。

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