第9話  生きたかった

陽は頭上に達していた。


が、温もりは冷え切った俺には届かず、胃袋も満たしてくれなかった。


サリー美容室で食事にありつこうとした俺は期待を裏切られ、あてもなくさまよっていた。


道は崩れた家や壊れた車で塞がれ、呼吸をしていない人々が横たわっている。


心が折れてしまった俺には、それらは何の影響も及ぼさなかった。


単なる背景でしかなかった。


単なる大の字をした肉塊が転がっている。それがどうした? ミートショップと同じではないか。


盛大に燃えたり、くすぶっている家も、まるで紀元前からそこに存在していると思えてきた。


「そうや、ここは原始時代と何ら変わらへん。食料は自分で探さなあかんし、火山が噴火している」


俺は空腹のあまり精神を病んでいた。


潰れた屋根の下から、何かふっくらした棒のような物が飛び出している。


瓦礫などの人工物ではない。あきらかに有機質である。


人間の足だ。


「あれ、ひょっとしたら、美味しいんちゃうか?」


自分でも驚くような言葉が飛び出した。


あの時と同じだ。俺が父親を見捨てて、燃え盛る実家から飛び出した時と同じように、本能が俺を操っている。


人間が人間に食欲を感じるなどフィクションの産物だと思っていた。


戦時中や遭難などの飢餓状態で死体を食べたという話は聞いたことがある。


だが、自分が同じ立場に置かれるとは夢想だにしていなかった。


鼻腔にジューシーな匂いが広がり、脳裏に肉汁がしたたるイメージが湧く。


口に唾液がたまり、腹が鳴った。


十m先に見える遺体にしゃぶりつきたくなった。


「食えるで!あれ!」


躊躇することもなく、俺はその物体に走り寄っていた。




その棒は焦げた靴下を履いていた…。


性別や年齢は、わからない。


やはり人間の膝から下の部分が丸ごと一本あった。


ただし、肌色をしていなかった。


真っ白であった。


ふくらはぎの部分からぱっくりと裂け、骨が見えていた。


傷口は鶏のササミのようになっている…。


「人間の体はタンパク質で出来ている。牛も鶏も人間も一緒なんやなぁ。燃えたら白身のようになるんや」


俺は、いよいよ狂気に拍車がかかっていた。


「あれ、もっと焼いたらおいしいんやろうなぁ。しゃぶりついてみたいなぁ」


常軌を逸した言葉が勝手に俺の口から出ていった。


「醤油…醤油は、ないかなぁ。アツアツのあれに醤油かけたら、たまらんやろうなぁ」


俺は本気で瓦礫の中から醤油を探そうとしていた。


瓦に埋もれて息絶えた老婆が横たわっている。


「台所やった場所は、どこや」


タンス預金であろうか、紙幣が散らばっていたが、俺は目もくれなかった。


こんな生きるか死ぬかの状況で金が何の役に立つというのか?


醤油だ!今の俺にとって最も価値のある存在は醤油だ!


誰か醤油を持っている奴がいたら、あの死体の足の半分をくれてやってもいい。


俺は完全にトチ狂っていた。


「何をしているんですか?!」


思いとどまったのは、突然、警官に声をかけられたためだ。


「うわっ!」


一気に俺は現実に引き戻された。


ご苦労なことである。ハンドルが曲がり、前輪がひしゃげた自転車を押しながら警官が近寄って来た。


「大丈夫ですかー?お怪我はありませんか」


四十代半ばであろうか。お腹がぷっくりたるんだ警官が俺を気づかってくれた。


「やばい!」


俺は全身の血が一気に凍りついた。もしかして、死体損壊の疑いをかけられるかもしれない!


空腹感が一気に吹き飛んだ!


逃げねば!


だが、泥まみれの制服を着た警官は、すでに俺の眼前にいた。


俺の脳裏に拘置所の鉄格子が浮かぶ。


『食料が無くて仕方なかったんです。許してください』と裁判官に土下座している情けない自分を想像した。


逮捕される!


俺はガクガクと震えた。




「何がやばいんですか? 大丈夫ですか?」


現行犯逮捕の可能性におびえる俺を、警官はきわめて職務的に判断した。震災の恐怖で震えていると思ったらしい。


当たり前である。どこの世界に死体を焼いて食おうと企む被災者がいるというのか。


「腹が減っていたんです」


正直な気持ちを述べた。ただし、遺体を食べようとした事は黙っていた。


「ああ、これは、あなたのお金ですか?」


タンス預金を拾い集めた警官が俺に尋ねた。


「いいえ」


「そうですか。では、このお金は拾得物として扱います」


俺は拾得物を正直に警官に話した。だから、神よ!人間を食おうと思った俺の罪を許してくれ!


身勝手な取引だと思う。神が免罪するかどうか判らない。


だが、にこやかにほほ笑むイエス・キリストを想像して自分を落ち着かせるしかなかった。


罪悪感は、まだ消えない。


「六甲道から逃げたいんですけど、どうにかなりませんか?」


俺は必死でアリバイ工作のような質問を警官にした。


「どうにもこうにも、所轄の署が地震でめちゃくちゃになってて混乱してます。

でも、まぁ私の見てきた限りでは、阪神御影(みかげ)駅の近くで通れる部分もありましたよ」


警官の話を総合すると、たった一人で徒歩で六甲道近辺をパトロールしているらしい。


神戸から、地獄から、やっと脱出できる!


路が開けた!神様は俺をお許しになられた。


俺は歓喜に包まれると同時に、死体に食欲を感じた感情をどうにか整理しようとした。


ある格言を思い出した。


『生存者とは強者でも賢者でもなく、環境に順応できた者である』 ダーウィン


俺は、やむなく死体に食欲を抱くような飢餓状態に順応したのだ。進化は自然の摂理、いわば神の意志である。


俺は悪くない!そう無理やりに結論を出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る