第8話 ある老人
救急車にかろうじて乗せてもらった十二歳くらいの少女は、一命をとりとめたと風の噂で聞いた。
その後どうなったか知る由もないが、亡くなった子どもたちの分まで強く生きていることを願っている。
震災二日目の朝を迎えた実感が乏しかった。
馴れとは恐ろしいもので、俺はパニック映画の世界に生きているのが当然だと錯覚しはじめた。
一昨日までの日常が嘘のようだ。
あちこちの家が燃え、校庭には行き場を失った人々がうずくまり、校舎に遺体を運び込む人たちが出入りしている。
そんな地獄絵図を平然と眺める俺がいた。
いい気なものだと非難する読者もいるだろうが、どんなフィクションも及ばない現実にどう反応しろというのか。
俺は生きている。そして腹が減った。そういえば地震発生からまともな食事をしていない。喉も乾いた。
食料を求めて街を歩いてみた。こじ開けられた自販機や略奪し尽くされた商店しかなかった。
「そうや!パーマ屋の谷口さんとこや」
突然、俺は母親が懇意にしていた美容室の事を思い出した。サリー美容室と言う震災の前の年に出来た店である。
新しい耐震基準に基づいて建ててあるので倒壊は免れたはずだ。
俺は谷口さん一家に頼ることにした。困った時はお互い様。
被災した街並みと記憶を照らし合わせてみたものの、サリー美容室の赤い屋根が見つからない。
「嘘やろ? 何で影も形もあらへんねん」
乾パンとミネラルウォーターぐらいにはありつけるだろうという俺の勝手な期待が不安に変わる。
「おじいさん何やってんねん!はよ降り」
その時、谷口さんの奥さんの声が聞こえて来た。俺は導かれるように変り果てた美容室と対面した。
どうりで見つからないわけだ。サリー美容室は赤い屋根が道路に向かって前のめりに崩れ、一階も見事に潰れていた。
その屋根の上に老人が仁王立ちしていた。背筋を伸ばして俺を睨みつけるように腕組みをしていた。
「島岡さんか!オヤジを降ろすの手伝ってくれへんか?」
店主の谷口さんが俺を呼んだ。彼はリストラされた弟夫婦を呼び寄せて店を共同経営している。
「ご主人、どないしはったんですか? 確か、おじいさんは寝たきりで、弟さん夫婦が面倒みてはったんでは?」
「二人は下で寝とった! オヤジだけ助かったんじゃ! しかもどういうこっちゃ? 震災のショックか知らんが、
自分で飛び起きてピンピンしとる」
「えーっ?!」
何という皮肉だ。八十歳の父親が奇跡的に要介護状態を脱して、次男夫婦が下敷きになるとは!
「お父さんより、弟さん夫婦の救出が先でしょう? 弟さんの部屋はどこです?」
俺は瓦礫を取り除こうとした。
「要らんことせんといて!」
奥さんの凄い剣幕から俺は察した。今までのケースから考えて、たぶん弟夫婦は肉塊になっているのだろう。
赤の他人に見せたくない気持ちはわかる。
老人は何を思っているのだろう? じっと空を見上げたまま微動だにしない。
「島岡さん、あんたの悪いとこや。人の話を聞かへん! 言われたことを黙ってしとりゃええんじゃ」
谷口さんは被災を免れた車庫から梯子を持ってきた。
「オヤジ、はよ降りや。風邪ひいてしまうがな」
「ワシは誰の世話にもならんのじゃ!」
老人は、ご主人が差し出した手を払いのけて、勝手に地面まで降りてしまった。そのまま立ち去ろうとした。
「おじいさん、どこ行くん?」
奥さんの呼びかけに老人は渾身の憎しみを込めて答えた。
「親の死を願うような息子とは一緒に暮らせん。ワシは一人で避難所に行く。あいつら夫婦はバチが当たったんじゃ!」
谷口夫妻は驚いた表情で、何か言い返そうとしたが、老人が追い討ちをかけた。
「ワシには聞こえとったんじゃ! 何が『地震か何かでオヤジがポックリ逝ったら、介護せんでええし、遺産を山分けできるのになぁ』じゃ!」
因果応報である。俺は、そう思いかけてハッと気がついた。
遺産欲しさに親の不幸を願った谷口兄弟。それを責める資格が俺にはあるのだろうか?
俺も空腹を満たすために谷口夫婦を利用しようとしたではないか!
震災の生死を分かつ基準を、神はどのように定めたのか?
老人は生き延び、弟夫婦は死んだ。ならば、この俺は、他人を平気で利用する、この島岡雄一という屑は、なぜ生き残ったのか?
俺は谷口親子が喧嘩している隙に逃げるように去った。
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