第7話 命の灯

ガータンを助けに行った少女の母親は、後に避難所で自殺した。


心からのご冥福をお祈り申し上げます。


誰もが健康で幸せでありたいと思う。贅沢に暮らさなくてもいい。衣食住が足りていればいい。


そんな最大公約数の願いを潰そうと活断層が動いた。人智では抗い難い暴力に希望が屈したかと思われたそのとき、被災者が動き出した。


わずかな物資を持ち寄り、生存本能を爆発させたのだ。


一月十七日十七時五分。気温摂氏二度。神戸市灘区の烏帽子(えぼし)公園。二百人近い人々が乾パンやミネラルウォーターを分かち合っていた。


しかし、厳寒の夜は体力を確実に奪っていく。暖を失い、孤立する被災者たち。形勢逆転を狙う冬将軍は幼い命を刈り取る。


人は、「明けぬ夜は無い」という真実に縋りたがるものだ。


されど、荒ぶる運命の前に、信じるという行為はあまりにもむなしく、そして儚い。






十七時半。「阪神新在家駅が崩壊している」


逃げ場を失った人々の嘆きに誘われるように、国道二号線を越えて夕映えに染まる烏帽子町に足を踏み入れた。


日没後の六甲おろしが氷の刃となって身に染みる。この時、既に被災者の間に格差が生じつつあった。


後に聞いた話では阪急六甲駅より北の六甲山の麓では、家具が倒れたり窓ガラスが割れる程度の被害で済んでいたそうだ。


水道や電気も通じており、風呂に入れて貰った被災者もいたという。


神戸市長田区から東灘区にかけて、震災の帯と呼ばれる範疇にいた人々は地獄に近づいていた。命のロウソクなんて無い。あるのは平等な死だ。




高齢者と母子家庭を中心に行く当てのない二百人ほどが、世帯ごとに分かれて、焚き火で暖を取っている。


混じっている成人男性は介護家族だろうか。大半がうずくまったり横になっている。


地面に向かって呟いている者もいた。静寂を破ったのは空腹を訴える子どもの大声だった。


母親らしき女が抑えきれずにおろおろしていると、見かねた隣のグループの男性がお菓子を差し出した。


すると、太った中年男性がお菓子を奪っていった。過酷な生存競争が芽生えていた。




食料をめぐんで貰える人は、まだ恵まれていた。そうでない者たちは冷えた地面に横たわるしかなかった。


公園の端の方で五、六人が一枚の毛布を巡って殴り合っていた。


「ドタマかち割ったろか!」背の高い男がどこからか乱入して、棒切れを乱闘中の一人めがけて打ち込んだ。鈍い音が響く。


「何するんじゃ!ワレ」殴られた方は、鼻血を吹き出しながら毛布にしがみ付く。




二人が倒れた隙に、他の男が棒を奪って、もみ合う二人の背中を滅多打ちにする。


「あんたら、ええもん持ってはるやん!」 


すかさず、漁夫の利を得た主婦が毛布を強奪していった。


「おばはん、えげつないなぁ。ええ歳こいて」 二十代ぐらいの青年がいさめるように言った。


「やかましいわ!ええ歳もへったくれも、こんな無茶苦茶な時に関係あらへんわ!」 


「言うたな!おばはん!いわしてもろたろか!(廃人にすること)」 


青年が毛布を奪い取りにかかる。


「わしの嫁に何してけつかんねん!」 夫らしき男が間に割って入る。


「その顔でよう結婚できたなー!」 青年は、夫の胸ぐらを掴んだ。その時、天を引き裂くような大声で主婦が喚いた。


「やっかましいわー!」 青年に体当たりする。




もう統制が取れなくなっていた。たった一枚の毛布が人間の理性を根こそぎ奪っていく。


青年の足を先ほどの棒切れが叩く。乱闘に乱闘が重なり、状況が把握できない。


「うちの子ども踏まんといてー!!」 大勢の怒号に母親の悲痛な叫びが呑み込まれていく。




奪い合いが自然消滅した時には、ぐったりした男の子を必死に揺り起こす母親しか残っていなかった。


男の子は踏み殺されていた。




一月一八日午前一時。




「だいたい、国は何をしているんでしょうかね? こんな無茶苦茶な状態で救助隊の一つも来ないなんて…これが先進国ですか?」


俺は、踏み殺された子どもを思い出しながら、ラジオを聞いているグループに尋ねた。


「ああ…いま、国会で自衛隊を出す、出さないで揉めているそうですよ」


信じられない言葉が返って来た。当時は今ほど自衛隊のイメージが良くなかった。






マイナス三度。痛いほど寒い。焚き火は期待するほど暖かくはない。体の芯まで温もらない。


「寒いよ~!ご飯まだ?!」 小さな子どもの叫びが聞こえてくる。


分かち合っていた食料も尽きてきたようだ。


「ごめんね。子どもが食べられるような柔らかい物が無くて」


「缶詰はあるけど、缶切りがあらへんのじゃ。気の毒にな」なぐさめで空腹を癒せる大人ほど、子どもに耐性はない。




こんな辛い声を聴くほど、俺はタフではない。耳を塞ぎながら焚き火の前で、俺は夜をやり過ごそうとした。


甘かった。




「救急車呼んでください、手分けして探してください。ねぇ、誰か」


「あんたも手伝ってくれへんかな?」




まどろみかけた頃、俺の肩を揺する人がいた。


「ええっ? 何かあったんですか?」


一気に目覚めた俺は、振り返って尋ねた。




「向こうの方のベンチで、発作を起こしはった子どもさんが、いるよって」


「うわ!それは大ごとや! せやかて、こんな道路が無茶苦茶になってて、救急車が来れるんですか?」


「灘消防署の方まで、徒歩で行けるそうですねん。何人か陳情に向かいました。あんたはあんたで、どこぞで運よく救急車を見つけたら、

救急隊員をここまで何とかして連れて来てください」




今みたいに携帯電話もインターネットも無い時代である。俺は、救急車を探す放浪の旅に出た。


やみくもに歩き回っても、体力を消耗するだけなので、俺は目ぼしを付けて探した。


街のあちこちで懸命に消火を試みている人たちがいる。地元の消防団に違いない。彼らのツテを頼れば何とかなるかもしれない。


俺達、救急車捜索班が打ち合わせをしていると、グェーっという悲鳴が聞こえてきた。ベンチの方向だ。


「どないしはったんです?」 俺が駆け寄るより早く、ある男性が、子どもに人工呼吸を施していた。


「…あきませんわ」 彼は、抜け殻のようにぐったりした子どもと茫然とした母親に冷たく言い放った。




「ナオトーーーーーーーー!」 母親は絶叫した。




翌朝、大勢の遺体が公園に運ばれてきた。中学校の校舎に仮安置するためである。俺も遺体の運搬を手伝った。


遺体の足の裏にマジックで通し番号が書いてあった。




途中で、ナオト君の母親に出会った。地面を転げまわって泣いていた。あるおばあさんが母親をいさめていた。


「そんな所で泣いてんと、あんたの息子さんに逢ってあげんと。安置所に行きや。

あんた、母親やろ」


「いやーーーーーーーー!」


「せめて、手を合わせてあげなさいよ。もう、帰ってこないんやから」


「いやーーーーー!ナオトは死んでないーーーー」


誰が何と言おうと、母親の回転は止まらなかった。




「救急車を、医者をどうにかせんといかん」口々に言い合っている。


被災者たちは願いが届くまで一昼夜を要するとは予想だにしなかった。


この時、国道二号線は、まだ自動車が通れる状態ではなかった。


救急車を見た者はいなかった。


そして、弱々しい冬の太陽は、今夜召される子ども達の余命を象徴していた。




この世界には、善意から生まれる悪意がある。悪意から生まれる善意がある。


追い詰められた者たちが起こした無謀は、果たしてどのようにして受け止められるべきものなのか。


裁きは世界の必然なのか。「慈愛」、この人間本来の力を使う者は、否応なく心に孤独をつくりだし、善意と悪意の狭間に落ち込んでいく。


されど、もし、そこから立ち上がる者がいるとするならば、そう、その者は確かなる未来を手にしているのだろう。




その夜、たくさんの子どもたちが低体温症で亡くなっていった。


その様は、筆舌に尽くしがたい……。


俺は、疲労と飢餓と寒さと、表現しようのないわけのわからない絶望感で、


おかしくなっていた。


おかしくなって、パジャマ姿で丸くなって寝ていた。




そんな俺に若い母親の声がBGMのように耳に入ってきた。


「サクラ…なんで…さっきまでこの子、温かかったのに……」


見ると、若い母親の腕にぐったりした女の子が抱かれていた。


「なんで…なんで…」




すると今度は反対方向から女性の声が耳に入ってきた。


ある中年女性が十二歳くらいの女の子を抱いている。


さっきまで元気だった女の子の容体が急に悪くなって呼吸困難に陥っている。


この子もじきに死神に……と、ぼんやりした頭で俺は思った。




太古の昔から、弱き者が率先して犠牲になっていった。


ある時は戦争であったり、ある時は災害であったり、


ある時は飢饉であったり。


率先して犠牲になるのは、小さな子ども達。


水が低きに流れるように、幼い命が摘まれていくのが自然の摂理であり、


それを手をこまねいて傍観するしかないのが凡人の通常の人生であるとするならば……


そんな人生などいらない!!!!!




俺の中で何かが壊れた。


この時の俺は、心の中で『これはリアルなんだ』と叫ぶ声と、


ハリウッド映画の中にいるような非現実の空間にいるような錯覚が併存していた。


まさにリアルとバーチャルがしのぎを削っていた。


そして、こうも思った。


何で俺が!? 俺は三十歳の一介のサラリーマンに過ぎない。


たまたまそこに居合わせただけだ。


ちっぽけな三十年の人生の中にも楽しかったこと、


つらかったことがそれなりに記念品のように走馬灯のように記憶のとばりにあった。


何で俺が赤の他人のために重大な決意をしなければならない?




小さな救急車らしき音が耳に感じられた。


それは次第に大きくなろうとする……これは救急車なんだ。


俺は絶叫した。


「その救急車を停めろ!! 轢き殺されてもかまわない!!」


この時、俺は何か大きな力に突き動かされていた。


すべてが反射的、何も考えていない。


俺は救急車の前に仁王立ちした。


救急車は、ヒステリックな急ブレーキ音を上げて、


俺の爪先を轢いて停止した。




「アホんだら!救急車停めるアホおるか!」


「おんどれ、一人運ぶも、二人運ぶも一緒やろう!子どもが死にかかってるんや!!」


「こっちも一刻を争うんや!後にしてくれ!」


「こっちも死にかかってるんや!!お前、救急隊員やめぃや!

この車、わしらが運転する。嫌や言うんやったら、お前を救急送りにしたろか!」




道路交通法違反、往来妨害、公務執行妨害、威力業務妨害、脅迫、そして暴行罪…


掻き消される命を救うために、あえて罪をこうむる人たちを、いったい誰が裁けるというのか?


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