第21話  生死を分かつT字路

 その日は、寝付かれないまま夜半を迎えた。


 前日までにかけがえのない人を失い、肉片と化した最期が瞼に繰り返し浮かぶのだ。


 できれば綺麗な姿のまま、心のアルバムに納まって欲しかった。




 気持ちが昂ぶっているときは無為に過ごせ、と聞いたことがある。


 俺は明々と燃える空を眺めて安眠法を試すことにした。


 天幕のごときオーロラは人間を畏怖させるが、灘区の住民は誰でも簡単に天の奇跡を共有できる。


 六甲道(ろっこうみち)の南に神戸製鋼所があって、島をまるごと一つ占有している。


 そのど真ん中に溶鉱炉がそびえている。


 夜中であろうと明け方であろうと真っ赤な火の粉を空に吐きだして夕焼けのごとく染め上がる。




 この尋常ならざる光景を子どもの頃から見慣れていない者はいない。


 安定操業する高炉は平穏の象徴でもあった。


「あの煙突が倒れる時がこの世の終しまいや」


 大人たちは宇宙人の来襲ほどにあり得ない事として冗談交じりで語り聞かせていた。


 だから、俺は真夜中の茜雲を見ると安らぐのだ。


 震災後の空は、街の炎が照明係をつとめていたが、


「あれは神戸製鉄の火の粉や」と俺は自分に暗示をかけて寝ることにした。




「お前は、どんな環境でも横になったらすぐ寝てしまう。怠け者だ」


 まるで、のび太のように揶揄される俺であるが、真冬の路上で、どっかから盗んできたペラペラの寝袋一枚で過ごしてきた。






 俺は、いつの間にか大いびきをかいていたようだ。


「もしもし、風邪ひきますよ」


 お爺さん、と声をかけられ、俺は愕然とした。そう呼ばれる歳には程遠いのに。


 飛び起きると大丸の紙袋を持った老婆がいた。


 ありがたいことに毛布を持ってきてくれたのだが、俺の顔を見るなり驚いた。


「あら、まぁ、ごめんなさいね」


 老婆の謝罪が俺の耳には届かない。


「白髪?」


 俺はバケツの水面をながめた。


 しぼんだ風船のような顔に灰色の髪が乗っている。


 あまりにショックな事件の連続で一気に老けたのか、単に何日も頭を洗っていないため埃をかぶったのかはわからない。




 つやつやした三十男は、どこへ行ったのだ?


 俺は自分の姿を受け入れがたく、積み重なった心労もあって、毛布の上に倒れ込んだ。次第に瞼が重くなる。


「それ、亡くなった主人のんですわ」


 老婆は睡魔に押し潰されつつある俺を見て満足している。


 御主人の形見を奪っては申し訳ない。


 俺は老婆に毛布を畳んで返そうとしたが、深い眠りに落ちてしまった。




 次に気が付いた時は、ゴロンゴロンと身体を転がされていた。


 ずいぶんと乱暴な起こし方をすると思ったら、激しい縦揺れが来た。


 ガツンと何かが潰れる音がして、道路の向かい側の軒先が崩れた。


「うわーっ!」


 俺と一緒に仮眠をしていた人が騒ぎ出した。震災から何日か過ぎて、余震なんて慣れっこであろうはずだった。


 それなのに肝を冷やしてしまうほどの激しい揺れである。半壊した家屋がガタンガタンと崩れていく。


 自然は忘れた頃にこうやって人間を刺激するのか、と俺は改めて畏怖し自分の甘さを罵った。


「もっと広いとこに逃げよう!死んでしまう!」


 ある人の叫びをきっかけに全員が一斉に同じ方向に走り出す。




 集団心理である。今夜は、これがのちのち命取りになった。




 人間の適応能力は怖ろしい。人々は救援活動が捗らない現状を諦めて、北斗の拳のような退廃未来が続くと思っていたから、

ぬるま湯体質になっていた。


 揺れは鈍麻した甘えを剥落するほど激しく、実際、ブロック塀の近くで寝ていた人が下敷きになった。


「中西さん、なかにっつぁん!」


 隣人と思しき老人が助けようと駆け寄る。


「あんた、何してるんや!」


 作業着姿の男が老人の腰元を引っ張って咎める。




 ガーッツと四角い建物が菱餅のように畳み崩れて行く手を塞ぐ。


「あかん、あかん、こっちはイカれている」


 引き返してきた集団が後続と鉢合わせになる。普段何気なく通り過ごしている路地が凶器になると誰が想定できよう。


 我先を争う人々は同じ方向に逃げようという発想を共有できない。


「どきんかい!」


「何じゃ、お前」


「行き止まりなんじゃ」


「じゃかましいわ!お前がどけや!」


「何やねん?」


「やるんか、コラ」


 殴り合いが始まる。


 俺は、ごった返す人々を掻き分け、行き倒れを踏みつけ、安全地帯へ泳ぎ出た。




 どれだけ走ったのかはわからない。ようや く、普通乗用車が四台は停められそうな空き地に出た。


 振り返ると六甲道の空が真っ赤に燃えている。


 あれは安堵の輝きではない。地獄の釜の蓋が開いているのだ。


 人間は、おそろしく怠惰な生き物だ。緩慢が隙あらば、つけ入ろうと虎視眈々としている。


 アンテナは常に高くしておかねばならない。俺は自分を戒めた。




 そうこうしている内にめいめいが寝具を敷き詰めて、スペースを埋めていく。


 俺は既に敷いてあった他人のシートを放り投げて、自分の寝袋を置いた。


 人間、とことん下衆でないと生きていけない。場所取りなんぞ甘えの極みだ。


 持ち場を奪われない保証を誰がしてくれるというのか。


 うとうとしていると、二言三言抗議する声が聞こえたが、「じゃかましいわ」と一喝して黙らせた。




 夜中の三時を回っていたと思う。


「ここはアカン!」


 消防団員という男が空き地にやって来た。


「みんな、聴いてや! 御影(みかげ)の乙女塚(おとめづか)んトコのガソリンスタンドが爆発しそうなんや!」


 あまりに突拍子もない内容に俺は耳を疑った。


 何度も質問を繰り返して話の内容がやっと理解できた。


 おりからの強風で大火があちこちに類焼し、ついにスタンド間際まで迫っているらしい。


「このままでは大爆発するそうや。避難命令が出た」


「それは確かか?」


 消防団員の話を鵜呑みにはできず、誰かがツッコミを入れた。


「灘区と東灘区に避難命令が出てる。出てるんは確かや。アマチュア無線で聞いた」




 インターネットがない時代。そう言われれば信じるしかない。


 しかし、逃げろと言われて、どこに逃げればいい?




 俺たちにはモーゼはいない。自分で自分を導くしかなかった。


「逃げるっちゅうても、どこへ逃げるんや? 六甲山か? 山火事になったらアウトやな」


「南か? 海やで?」


 人々は冷静さを欠いたまま、深刻に悩んだ。




 普通に考えれば、ガソリンスタンドの一軒ごときが爆発しても街が丸ごと吹き飛ぶことはない。


 被災者のほとんどは高齢者や中高年だった。義務教育を受けてはいるが専門家でないので、正確な被害状況を想像できない。


「何やらよう知らんけが、ガソリンが大爆発して神戸が火の海になる」ぐらいのイメージしか湧いてこないのだろう。


 橋下徹大阪市長が言っていた「ふわっとした民意」というやつだ。


 これから防災対策を練る人は、正確な情報伝達を真剣に考えて欲しい。




「とにかく、逃げやなアカン!」


「うわあぁぁ」


 人々は、あてどなく走り出した。大人も子どもも走る、走る。


 想像できるだろうか?


 あちこちの路地で東京国際マラソンが開かれているように、人混みが流れていく。




 俺も押されるように阪神御影(はんしんみかげ)駅前にやって来た。


 ぼろぼろに焼け崩れた家屋が並んでいる。


 あのヤクザが経営する闇市が懐かしい。そう思えるほど、現状は酷かった。


 血走った目をした親子連れや青息吐息の半病人が無理やり走らされたり、尻込みする子どもを叩いて促す親がいたり、めちゃくちゃだ。




「とにかく東灘区から出たらええんやな?」


「芦屋か西宮まで行ったらさすがに爆風も来ないやろ」




 そういう内容を真剣に会話する集団がいた。俺は彼らを神の使者と信じて付いていくことにした。


 今にして思えば、彼らの話は核爆弾でも落とされない限りあり得ない。


 それでも切羽詰まった状況で真剣に考えたのだ。


 馬鹿にしたり失笑したりしてはいけない。


 俺は言いたい。


 精一杯考えて、もがく。


 それが生きるという事だ。






 俺は心臓を堅く絞られるような痛みを我慢して走った。そうこうする内に誰かが新しい情報を仕入れたらしい。


「ガソリンスタンドやなくて、ガスタンクやて」


「阪神工業地帯が連鎖爆発する危険があるって」


「そりゃホンマかいな?」


「七万人に避難勧告やて。ラジオで言うててんて」




 そのような会話が先頭から聞こえてきた。


 いよいよ真実味が帯びてきた。




「ガスタンク? 車もないのにどうすんの? どうしよう、リサ」




 小学校四年生ぐらいの女の子と母親がヘタヘタと座り込んでしまった。


 六甲おろしは、いよいよ激しくなり、街を焼く煙が勢いづく。




「どこでもええから、逃げなアカン」




 俺は手を差し伸べようとした。リサちゃんの母親は、まるで俺を下心ある変態のように蔑んだ目でジロっと睨んだ。


 そして、すっくと立ち上がった。


 無言で娘を引っ張り立たせて、走り出した。




 御影(みかげ)の街は、あちこちで路上の瓦礫に引火し、避難路が炎に阻まれていった。




 さっきまで見通しが良かった場所に、シューっと足元から舞台演出のように煙がたちこめてくる。




「あかん、こっちも火事や」


「こっちもや、引き返せ」


 避難民は総崩れになって、右往左往する。


 もうめちゃくちゃで誰に付いていけばいいのかわからない。




 俺はリサちゃん親子のグループに付いていくことにした。


 偶然の縁以上の何かを感じたのだ。


 神に御心(みこころ)があるのならば、この親子を殺すような非道はしないだろう。そう勝手に信じた。


 炎に追われて、がむしゃらに走った。


 気づけば、洗濯物が脱水槽を回るように同じコースを辿っていることもあった。




 そして、T字路に出た。正面は住吉川である。六甲おろしは左から吹いている。




「風上や、火事の時は風上に逃げるんや!」


「アホウ、風下やろ。風下に決まってる!」


「風上やろ」




 真っ二つに割れた。T字路につぎつぎと人だまりが出来た。後戻りできない。


 少数意見としては、引き返すか川に飛び込む案も出た。どっちも論外だ。


 真冬の午前三時に水泳する馬鹿はいないし、人混みを掻き分けて戻る間に煙に巻かれてしまう。


「どっちやねん」


「どっちでもええ!」




 人々は言い争う暇を惜しんで勝手な方向へ進んでいった。




「おかーさん、あっちや」


 リサちゃんは風上、つまり北へ向かってトコトコと駆けだした。


 しかしその方向には、うっすらと白いモヤがかかったようになっている。オレンジ色の光が透けて見え始めた。




「リサっ!」


 母親が一喝した。母親は風下に逃げようとしている。


「お母さんの言う事が聞かれへんのッ」




 少女は親の意見などまるで無視して北へ突き進む。


「いやや」


 母親は、リサの腕を強引に掴んだ。


「こっちや言うてるねん。あんたええ加減にし!」


「い やや」


「叩くよっ」


 バシッ!


「うわ~ん。お父さんが出ていった時も私を叩いた~」


「そうやっ! お母さんに付いて来たら間違いあらへんのっ」


「いやぁぁ」




 母親は、火が付いたように泣くリサを引きずって風下へ逃れていった。




 俺は、その様子を住吉川の土手に身を伏せてじっと眺めていた。


 神戸の街は、長年の洪水に悩まされ続け、護岸工事がしっかりしている。


 土手は頑丈なコンクリートで固めてあり、防火地域にもなっている。いざとなれば爆風を防ぐ楯にもなってくれるだろう。




 俺は、護岸の中腹に腰を掛けて親子の行く末を高みから観察していた。


 彼らの行く先は袋小路になっており、風上から火の手が迫っている。


 T字路には、もうもうと煙が噴き上げ、既に避難民の影はなかった。




 俺は老婆心を出して母子を土手に引っ張り上げればよかったのだろうか?


 それともリサちゃんだけでも強引に連れてくればよかったのだろうか?




 いいや、ゴタゴタに巻き込まれるだけだろう。


 仮に引き取って育てたとしても結果は火を見るより明らかだ。


 本当の親子でもこれほど難しいのに、他人同士となると奇跡に近い。




 汚らしい物でも見るかのような、あの母親の蔑んだ目。


 あの目だけは、震災から二十年経った今でも忘れられない。


 それにしても何の罪もない少女が死なねばならなかったとは、独善的な母親のせいで……。


 親子は適者生存に破れ、俺は生き残った。

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