第20話  魔法の言葉が効かない

 本震が起きて五日が経った。余震はあるが小康状態になっていた。


 人々もだんだん落ち着いてきた。




 崩れた家は燻りつづけ、ある区画では火事が野放しになっていた。


 人間の適応能力は恐ろしい。建物の中には潰れた死体が残り、使い物にならなくなった家財道具がへし折れた電柱の隣にまとめて捨ててある。


 歩道には憔悴した人がしゃがみ込んでいる。


 その前を台車に弁当やミネラルウォーターを積んだ人が通り過ぎていく。


 さながらファンタジー映画のようだ。


 戦乱に明け暮れる中世ヨーロッパ風の城下町に蚤の市が立つ。


 あるいはイスラエル占領下のレバノン。ミサイル攻撃で穴だらけになったビル街で痩せ衰えた子どもがフランスパンを買っている。




 そんな退廃と生活臭が漂っていた。


 このまま退廃した毎日が続いていくのかなと俺は諦めていた。世界一の貿易港だった神戸は、二度と戻らない。




 震災の帯の外では「がんばろう神戸」とか復興を叫ぶ声もあったようだ。


 高度経済成長やバブルを経験した人々の中には、犬に噛まれた程度の感覚だったのだろう。




 その日、俺は、実家がやっていた商売のほうの建物跡に足を運んだ。


 めちゃくちゃに壊れた商売跡。


 この地獄の日常に、もっと堅実に生きる方法を思い出したかった。


 実家は総菜屋を営んでいた。売上金が埋もれているはずだ。


 俺が見殺しにした父親が汗水たらして稼いだ金。埋もれた金庫を掘り出す際に罪悪感を感じた。


 だが、人様の家から略奪するよりはるかに効率がいい。何をためらう理由があろう。俺は相続人だ。




 それでもスコップでガツガツと壊れた陳列ケースを除去していると、罪悪感と無念で胸が押し潰されそうになった。


 俺は引き出しの角で息子の頭を殴るような親父を憎んでいたが、親父の店は憎んでいない。


「嶋岡さんとこのおかず、おいしいわ。『また今日も嶋岡のおかずで済ますんかぁ。ズボラせんと一品ぐらい作れや』言(ゆ)うて、

主人と喧嘩になりますねん。あはは」


 そう言って、にこやかに紙幣を差し出す奥さん連中がいた。その売上金が納まっている場所。


 愛されていた店。


 常連客のほとんどは、俺の小中学校時代の保護者たち。土を掘るたびに顔が浮かんでくる。




 その中に厚木君(仮名)という病弱な男子がいた。


 よく風邪を引いては休んでいた。


 彼は成人しても虚弱体質のままで、しょっ ちゅう鼻を鳴らしていた。


 就職浪人と称して母親と同居。


 今で言うニートだ。




 そんな厚木がすっかり顔色を取り戻して店にやって来たのは正月が明けて最初の月曜日だった。




「誰やねん? お前。厚木のモノマネなんかしても何もおもろないぞ」


「アホ。俺やがな。嶋岡」


「はぁっ? 厚木、厚木か? どないしたんや。変なもんでも食うたんか? 元気良すぎるぞ」


「長谷川先生に診てもうたんや! 知ってるか? 六甲新道商店街のとこに出来た内科や。綺麗なとこやで。お前も診てもらえ」




 厚木のあまりな変貌ぶりに俺は長谷川内科のお世話になることにした。


 ちょうど、便秘と下痢が反復継続していたのだ。原因に思い当たらない。


 今なら過敏性大腸炎という病名がつく だろう。




 俺が医院の扉を叩いたとき、正月気分も明けやらぬおめでたい笑い声が響いてきた。


 長谷川先生は、見た目は三十代前半の若い男性で溌剌としていた。


 何より、目がキラキラと輝いていた。使命感と希望に満ち溢れたオーラを放出していた。






 看護師は美人で、大きなお腹をしている。どうやら先生の奥さんらしい。


 俺が腹の不調を訴えると懇切丁寧に診断し、わかりやすい言葉で説明してくれた。


「神経性のもんやね。薬と食事療法で良くなりますわ。ドンマイドンマイ」


 優しそうな目じりが眼鏡の弦つるを支えていた。


 こんなお気楽な診察でいいのか? 


 医者という者は威厳と恐怖で患者の崇敬を得るものでないのか?


 あまりにイージーな診察に俺は却って心配になった。


「ほんまですか? CTで診てください!」


 俺は強い口調で頼んだ。本当に優秀な医者なら拒まず患者の不安を払拭してくれるはずだ。


「あ、CTは使わないんですよ」


 期待を裏切る返答に俺の不安は爆発した。


 それ見た事か。やっぱり藪医者だ。


 口には出さず内心で罵った。




 俺の不信を察したのか、長谷川先生は見たこともないような機械の前に案内してくれた。




「これ、MRIちゅうんですわ。ドイツから輸入した機械で、まだ日本で使っているところは少ないです」


 彼は、そう言った。


 清潔感の権化とも言えそうな真っ白でピカピカの装置にかけられ、俺の腸は徹底的にスキャンされた。


 話によるとMRIは、一億円かかったそうだ。


 長谷川先生はセレブだ。


 大切に育てられたのだ ろう 。「医は仁術なり」の体現者だった。




「あ、うん。ちょっと十二指腸に潰瘍ができてるね」


 画像を見て俺に説明してくれた。




「ええっ、潰瘍?」


 俺がびっくりして椅子から立とうとすると、先生は「どう、どう!」と馬をあやすように手をだした。


「嶋岡さんは心配性やな。それが原因ですわ。大丈夫、今は医学が発達して、ええお薬が何ぼでもあります。出しときましょ」


 そう言って俺の懸念を見事に粉砕した。




「北大東島(きただいとうじま)って知っていますか? 


 沖縄のずーっと沖合の島です。僕はね、そこの出身。


 高校があらへんから、島の子どもは義務教育が済んだら、みんな出ていく。戻らへんのです。


 高齢者ばっかりになって。僕は、そこに診療所を創りたい」


「せ~んせ、まず神戸で成功しやんとあかんね」


 いい意味で貪欲な野望に燃える先生に看護師がにっこりとほほ笑む。


「せや! 俺は、やったるでえ」


「わたしも応援しますぅー、お腹の子どもも応援~」


 なんだか、幸福の絶頂にある先生を見ているとこっちが恥ずかしくなった。


「も、もぉええですか?」


 俺は逃げるように待合室に戻った。




 よく、「他人から元気を貰えた」と言うが、この時の気迫は元気オーラの艦砲射撃とも言えるほどだった。


 それから二、三服ほど薬を飲んだだけで俺の腹具合は、てきめんに回復した。


「ええ先生やな!」


 俺が厚木君に報告すると、してやったりとばかりに彼が破顔した。

「せやろ? せやろ? 僕も長谷川先生のおかげで元気になりましてん。 もう『貧弱なボーイ』とは言わせへんで」


「ボーイちゅう顔か?」


「「わはははは」」




 そんな幸せな一時から数週間後……




 厚木は浴槽で溺れ死んだ。


 ちょうど、朝風呂を浴びている最中に被災したのだ。


 風呂場の天井が崩れて、カップ麺の蓋をするように彼を浴槽ごと潰した。




 そして、長谷川先生にとって希望の橋頭保(きょうとうほ)であった医院が、MRIごと大破した。




 そんな悲惨な状況とも知らず、俺は長谷川医院の前を通り過ぎていた。


「そういえば、長谷川先生は、どないしはったんですか? この震災やし、どっかの病院へ応援に行きはったんですか?」


 ある時、ふと思い出して、俺は先生の消息を知り合いに尋ねた。


「あっこにおりはるわ。毎日ぼーっと突っ立って、ブツブツぼやいてはるわ」




 そう聞いて俺が医院だった場所に駆けつけると……。




 焼け焦げたスクラップの前で、うなだれている男が一人いた。


 痩せ衰え、フケと垢で顔も服もドロドロになって、無精髭は、もじゃもじゃ、すえた臭いをプーンと放っている。


「人間の命は、儚いもんやね。俺の手でどうすることもできなんだ」


 先生は、ぶっ壊れたMRIを撫でながら弱々しく言った。


「先生、何を言うてはるんですか! また一からやり直したら、ええんですやん?


 震災で亡くなった人は、きっと寿命やったんです」




 俺は美辞麗句や詭弁を操る能力がないので、月並みな言葉でしか励ますことができない。


 しかし、震災で生き残った者は果報者だ。死んだ者と違って幾らでもやり直せる。




「そうか、運命……神様が決めたことか。そんなら、僕ら医者は何のためにおるのかなぁ」




 長谷川先生は、虚ろな表情で答えた。人生を達観しきったような恍惚がそこにあった。




 俺は、どうやらまずい方向のスイッチを押してしまったらしい。




「嶋岡さん。僕はずっと準備してきて、開業してちょうど二ヶ月目に、この地震や。これは、どういう意味かなあ」


「そりゃぁ、形ある物は、いつか壊れますよ。でも、生きていたら、どうとでもなるんですよ !」




 先生の目つきが、死んだ魚の眼から死人のそれに近づいてきた。


 両眼を開いたままの遺体そのものだ。


 なんだか、鹿児島堂の御主人が亡くなった時と同じ展開になってきた。


 あの時は、俺の励まし方が足りなかったのだろう。


 もっと、もっと、もっと、勇気づけなければ!




「先生、北大東島(きただいとうじま)のお年寄りたちが待ってますよ」


 俺は、診療所の開設を心待ちにしている人たちの事を引き合いに出したつもりだった。


 しかし、その言葉が悪いトリガーになったのだろう。


「……。そうか、『待ってる』ねんな。それでええんや」


 長谷川先生は、ふっと、穏やかな表情を取り戻した。


「そうですよ! 頑張りましょう」


「でもな、一億円や。この機械には一億円かかった。設備投資額は、もっともっと…」


「みんな待ってますよ。また俺のお腹、診てください」


「せなや。頑張らなあかんな」


 長谷川先生は、重苦しそうに答えた。


「それにしても、ひどい有り様ですね」


 気遣うように俺が崩れた内装を見回した。




「ああ、何ぼかかるんやろうか。 建て直すにしてもまた一からか。


 ナースも募集し直しやなあ。来てくれるんやろうか……」


 先生は自分を奮い立たせるようにつぶやいた。


「えっ、奥さん、どうしはったんですか? まさか?」


「家が倒壊してな……あっという間、あっという間に、うわぁぁぁ」


 俺の問いに医師は泣き出しながら走り去った。




 あっ、どこに行かはるんですか?と俺は思ったものの、追い駆けることもせず、そのままになった。


 何週間か経ったある日。


 風の噂で聞いたところでは、


 先生は地震で鉄筋が剥き出しになったブロック塀に、自身を思いっ切り叩き付けたそうだ。


 首のあたりに鉄筋が刺さって亡くなっていた。




 震災後、震災で障害を負った被災者が、支援を求めて神戸市役所を訪れたそうだ。


 大方の被災者に言い放った市職員の魔法の言葉というのがある。


『亡くなった者に比べたら、いいほうやないか』




 確かに亡くなった者に比べたらいいほう。それに異存はない。


 訪問者は、引き返すしかなかった。


 震災の傷跡が甚大で、復興にお金がいる。神戸市の経済事情では、


 充分な支援などできなかったという事実。それはわかる。


 俺も預金を引き出せたのは十万円だけで、残りはすべて神戸市に没収された。


 有事ではしかたがない。




 亡くなった人の分まで生きていく、命があっただけでも感謝しなければ、


 これからは人と人との絆を大切にして生きていきます、今までは、それができていなかったんです、


 神様がきっといい機会を与えてくれたんだと思います、


 そう思わなければ……


 たくさんの前向きな言葉が陳列されている震災関連の報道。


 魔法の言葉が効かない世界があった。


 あの若い医師のように自ら死ななければならなかった人は多い。




 俺は思う。


 言葉は無力だ。文章など何になる。


 それでも言い続けなければならないパラドックス。


 生き残った者の使命と思わなければ……何が残る。すべてが報われない。

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