第3話 世界が弱っていた。叩きのめされて、弱り切っていたのだ。

世界が弱っていた。叩きのめされて、弱り切っていたのだ。


避難所となるべき体育館からは、口にすることが許されない肉のジューシーな香りが漂ってきた。


避難所となるべき体育館は燃えていた。どうしろというのだ。


俺は豚まんが猛烈に食べたくなった。近所のパンダ六甲ビルに俺のお気に入りの店があったのだ。




食欲が湧いたのも無理はない。どこからともなく香ばしい匂いするのだ。あきらかに肉が焼ける匂いだ。


真冬の夜明け前に、怪獣の咆哮のごとく火炎を吐き出す体育館の玄関。むっとする熱風に乗って、焼け焦げた非常用持ち出し袋が飛んできた。




俺は中に避難していた人の事は極力考えないことにした。


タンパク質が焦げている。人も畜生も焼けてしまえば同じ匂いがする。




焼肉が食べたい!死体でもいいから食べたい!空に向かって火を噴き上げる家が食べたい!燃える街を丸ごと食べてしまいたい!


俺は空腹でおかしくなっていた。




自分が狂っている自覚はあった。おかしなことに、冷静なもう一人の自分がまるでハリウッド映画を観るように状況を楽しんでいた。


「危機に直面して俺の本能が目覚めた。今の俺は世界を支配できるかも知れない」


本気でそう思った。




気分が大きくなると、今まで見えてなかった世界が見えてくる。道端に横倒しになって壊れた自動販売機があった。


散らばった缶コーヒーを必死で拾い集めている人がいる。負けじと俺もかき集めた。霜焼けが出来るほどキンキンに冷えていた。


焚き木も火も無料で街にあふれている。




俺が焚火で温めた缶コーヒーの蓋を飲んでいると、誰かが俺に声をかけてきた。




「あーあー島岡さん。もうそれぐらいで盗るのはカンニンしといてや。それ実はウチの商品ですねん。もう売りモンにならへんから無料でさしあげますけど」


「げっ、あ。すいません。か、鹿児島堂の若旦那さんでしたか。いや、つい出来心で。すんません」




「いや、もう、うちの店もパン焼きの窯から火が出てしまいましてなぁ。もう何もかも終わりですわ」


「いったい何が起きてるんですか?戦争でも始まったんですか?」




「なんや、島岡さん。あんたも呑気なこっちゃな。ラジオ聞いてなかったんですか?地震ですがな」


「地震ってどこですか?世界最先端のおしゃれな神戸が壊れるほどの大地震って?もしかして日本が沈没するんですか?」


「今、ラジオつけますわ」




兵庫県南部に震度七強の地震。震源地は淡路島。死者は現在4名。詳しい情報はわかりません。


臨時ニュースは乏しい内容を繰り返していた。




「死者4人なんてもんやないぞ」


若旦那は全壊したパン屋を睨んで、吐き捨てるように言った。早朝出勤していた店員達は下敷きになったままらしい。


だが、俺は鹿児島堂の悲劇よりも大きなショックを受けていた。




核戦争でも起きて世界が滅んでいくのなら、まだ諦めもつくかもしれない。みんな平等に死ぬのだ。


なぜ、兵庫県なんだ?なぜ関西なんだ?大きな地震は起こらない筈じゃなかったのか?




東京に対する歪んだコンプレックスのあらわれだろうか。


関東は栄えているかわりに地震というリスクを持っていても仕方ない。


関西は関東に比べて田舎だが、大地震に襲われる心配もない。それが世の中のバランスというものだ。


俺はこう考えていた。いや、俺だけじゃないだろう。神戸人は少なからず似た意識を持っていたと思う。




なぜ、神戸が関東にボロ負けしているんだ!


俺は自然の不条理を呪った。




「おーい、マサ子ちゃん、生きてるかぁ?…ドヒャアー!」


蛙を踏みつぶした様な若旦那の悲鳴で俺は現実に戻った。




「ど、どないしはったんですか?」




俺はぐちゃぐちゃに潰れた鹿児島堂の残骸を踏み越えて、若旦那の所へ急いだ。




「島岡さん!足元、気ぃつけてやー」




俺は何かニュルっとした物を踏んで、派手に転んだ。




「マサ子ちゃん、腰から下があらへんねん」


「うわーっ」


「ヒロミちゃんも、タエコちゃんも、柱の下から腕だけ見えてるけど、たぶん」


「パートさんですか?」


「みんな、神戸大学の子や。朝も寒いうちから頑張ってくれてたのに、何でこうなるんやー」




若旦那はへたり込んで泣き出した。


「みんな別嬪さんやのに、なんでこうなるんやー」




「やっぱり、消費税還元セール、やめたから、ちゃいますか?」


俺はとんでもない事を口にした。今考えても、なぜこの様な鬼畜な発言をしたのかわからない。




「そうやなあ。そうかもしれへんなぁ」


若旦那は意外なことに、しんみりと、そう答えた。




世界が弱っていた。叩きのめされて、弱り切っていたのだ。

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