第16話 地獄の天使
俺は今、苦しんでいる。
怖い奥さん、登校拒否の息子、認知症の実母、人格障害の義母。
どん詰まりの閉塞感。
あの時と同じ。あの、震災の─────
神戸のルミナリエのように、柔らかく温かい煌めきを持った女性。
そうだ、教会のステンドグラスのように異国情緒豊かで温かい光。
アイリーンさん……
どうしていますか?
お久しぶりです。嶋岡です。
もし死後の世界という場所が存在するのなら、きっとこれをお読みになっていることでしょう。
あの震災からもうすぐ二十年になります。
あの日、産まれるはずだった娘さんは、あなたに似てさぞかし綺麗な姿に成長したことでしょうね。
平成二十七年一月十二日は、成人の日です。
この世で娘さんの艶姿(あですがた)を見られないのは残念なことですが、
せめてあの世で立派な成人式を迎えられるよう祈っております。
俺は、あなたたちから大切な役割を授かって、この世に生かされたのかもしれません。
お二人の事は、決して忘れません。一生……。
あれからインターネットという便利なものが普及しました。
あなたたちの事を伝えます。
だから、安心してください。
信じた日本人に裏切られ、故郷から離れた地で孤独な臨月を迎え、そして無残に押し潰されたフィリピン人女性……。
喉元過ぎれば熱さを忘れるという言葉がある。俺の大嫌いな格言だ。
過去を省みない人間は学習しない。関東大震災、阪神大震災、東日本大震災。
ああ……、関東大震災と阪神大震災の間に原子爆弾投下というのがある。
仏の顔も三度撫でれば腹立てるというではないか。
同じ過ちを繰り返す民族に未来はない。
そして、もう一つ嫌いな言葉がある。
「幸い、邦人の犠牲者は、いませんでした」
何が幸いなんだ?
禍福に国境などない。俺は日本人の安否報道を見聞きするたびに、アイリーンさんの事を思い出してテレビを蹴飛ばしたくなる。
震災から七十二時間以上が過ぎて、ようやく災害対策が軌道に乗り始めたようだ。
国道二号線を緊急車両が、のべつ幕無しに走っている。上下車線をあとからあとからサイレンの音が往復している。
ただ、JR六甲道(ろっこうみち)駅から阪神新在家(はんしんしんざいけ)駅へ向かう南北道路は、横たわるパンダ六甲ビルに塞がれていた。
その付近は、後に震災の帯といわれる被害が集中した地区で、俺は材木収集の狩場にしていた。
俺が冷え切った手を吐息で温めながら瓦礫を漁っていると、誰かに呼ばれたような気がした。
シマオカさん
「アイリーンさん?あなたですか?」
そうだ。はっきりと聞き覚えのある若い女性の声がした。
彼女は、フィリピンから国際結婚でやって来た。
その後、夫の女性問題が原因で離婚した。
パンダ六甲ビルと同じ並びにある「C」というラーメン屋で、彼女は住み込み店員をしていた。
ずぼらな性格を自覚して生涯独身を貫くつもりだった俺は、稼働所得の全てを外食と遊びに費やしていた。
「C」にも週に二、三度は通って、こってりした中華そばや酢豚を食べていた。
アイリーンさんが目当てだったわけではない。
そういう下心を持った常連もいたようだが、俺は女と一つ屋根の下で暮らす生活が面倒で、ましてや外国人となると願い下げだった。
彼女は俺に悪い感情は持っていなかったようで、店長が競馬新聞を読みふけったり店を放り投げて宝くじ売り場にいった隙に、
餃子や唐揚げをサービスしてくれた。
アイリーンさんの揚げる唐揚げは、塩コショウがほどよく効いて絶品だった。
彼女は俺が鶏の胸肉が大嫌いなことを知っていて、もも肉ばかり出してくれた。
震災前年の夏に彼女は、ぱったりと店に姿を見せなくなった。
この街は神戸という都会でありながら下町風情が残っていて、噂話のネットワークも完備している。
聞くところによれば、妊娠を機に旦那の女性問題が発覚して旦那に捨てられたという。
それから俺は、てっきり彼女が国へ帰ったと思っていた。
でっぷりとお腹が大きくなったアイリーンさんと出会ったのは暮れの事だ。
産婦人科の帰りで、お腹の子はエコー検査の結果、女の子だという。
彼女は思わせぶりな目線を送ってきたが、俺は当り障りのない賛辞を述べて退散した。
俺は甲斐性のないヘタレなので、子持ちの外国人女性と付き合う度量はなかった。
アイリーンさんは、どうしているだろうか。さすがに妊婦が異国で年越しをするとは思えなかった。
遠い日本の地震のニュースなど何処吹く風で幸せに暮らしている思っていた。
崩れ落ちた壁に薄暗い人影のような物を見た。
まさか?!
俺は、嫌な予感がして「C」のあった場所へ急いだ。
そこには人だかりがして、ただならぬ気配が漂っている。
瓦礫は、あらかた片づけられ、励ます声が聞こえる。
「大丈夫か!」
「日本語は、わかるか? しっかりしいや!」
「がんばれ! 救急隊が来るからな」
上半身から下が埋もれ、ぐったりとした顔の女性がいた。ぐしゃぐしゃに乱れた髪が広がっている。
「誰か、この人の身元とかわからへんやろうか?」
「連絡しようにも意識があらへんのや」
困り果てた声が聞こえる。
俺は背筋に衝撃が走った。
「嘘やろ!」
人垣を割って俺は彼女の元に駆け付けた。
「アイリーンさん!」
変わり果てた彼女の顔があった。
『シマオカさん、本当に懲りないヒトね。昨日もスブタ、今日もスブタ♪』
『はい、ムナニク抜いといたヨ。店長にはシーッね』
『ニラ多目にしといたよ。野菜も取らなアカンよ』
いたずらっぽい目で口に人差し指を当て、唐揚げを出してくれたアイリーンさんの笑顔が泥んこになっていた。
神は、どうしてこのようなひどい仕打ちをするのだろう。
遠い日本でひとりぼっちで、俺たち日本人のために愛嬌を振りまいてくれた心優しいフィリピン女性。
いったい、彼女がどんな罪を犯したというんだ!
日本人の男に騙され、なお授かった命を産み落とす覚悟をした勇気ある女性に鉄槌を下す神など悪魔にも劣る。
「この人、知ってます!」
俺は駆け付けた救急隊員に彼女の本名を告げた。
その後、負傷者が若い女性という事で周囲にシートのような物がかけられ、俺たち部外者は追い払われた。
俺は彼女の無事を祈ったのだが、聞いた話では搬送時にすでに冷たくなっていたという。
母子ともに助からなかった。出産予定日は今月だったそうだ。
それから、俺はアイリーンさんの店の常連という事で、見舞いに訪れる人に辛い事実を告げる役目を担わされた。
神戸には在日外国人や留学生が多い。
「アイリーンさんは、どこに避難しているのか?」
「入院先は、どこか?」
ひっきりなしにやってくる肌や目の色が違う人々に日本語で尋ねられた。
俺は持って回ったような言い方は嫌いなので、はっきりと母子ともに亡くなったという事実を告げた。
何度も、何度もだ。母子ともに亡くなった。この冷酷な宣告を!
瓦礫の上にへなへなと崩れ落ちる女性。号泣する親子。信じられないという風に目を剥いて天を見上げる男性。
訪問者の中には日本人も多かった。
彼女の人柄と交友関係の広さをまざまざと思い知らされた。
身重の身体で翻訳ボランティアをしていたこと、熱心なクリスチャンだったこと。
お腹の子どもが日本人の血を引いているし、自分も日本が好きなので、この国で育てる決心をしたこと。
旦那の事を恨んでいないこと。
聞けば誰でも癒されるようなエピソードの数々に、死という残酷な通告で答えなければならなかった。
そして、俺は彼女の声を聞いた。
ワタシの事を語り継いでほしい
俺はこの時、語り部となる使命を天から授かった!
俺たちは忘れてはならない。日本に住んでいるのは日本人だけではない。
愚行の繰り返しで命を奪われるのは、日本人よりも日本人らしい、アイリーンさんのような天使だという事を民族の記憶に刻まなければならない。
慰霊碑よりも生きている人間の脳裏に。永遠に。
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