第20話
ヨミが語ったのは、旧約聖書の創世記に記される神話だった。
大昔、世界の人々は同じ言語を話す民族だった。人々はその団結力で以て天に届く塔を建てようとしたけれど、それによって神様の怒りを買い、神様は一つだった言語をバラバラにしてしまった。言葉が通じなくなって混乱した人々は、塔の建築を放棄する。そして世界に複数の言語が存在するようになった。
それが、「バベルの塔」の概要だという。
「私達は何世紀も憎しみ合い、殺し合った。数え切れない人達が、苦しみ悲しみ、死んでいった。私達があの神話のように、バラバラであったがために。それが今、やっと一つになろうとしている。誰も悲しまない世界が訪れる。神様に、許されようとしている」
ヨミの手は、遮っていたタクトの手を優しく包んだ。
「それでも、君にはこの糸が必要?」
タクトは、深呼吸をした。自分の内側にあるものを、ゆっくりと吐き出す。
「僕は、誰とも心を一つにしたくないです。それをしてしまったら、きっと人に優しくあろうとする心を忘れてしまうから。人はどうやっても他人を理解出来ないし、傷付けてしまう。だからこそ人は、他人に優しくしようと藻掻く事が出来る。ヨミさんも、ずっとヨミさんのままでいてほしいんです。あなただけの優しさがきっとあると思うから。あの日、あなたが僕の手を取ってくれたように。寒さと孤独に凍えていた僕に、温かいかぼちゃのスープを飲ませてくれたように⋯⋯」
部屋に沈黙が流れた。微かに聞こえるのは、二人の息遣い。暖炉の火が燃えて、薪が弾ける音。その火と共に揺れる影。それだけが、部屋を支配した。
全てを見通すような目をタクトに向けていたヨミは、この時初めて目を逸らし、俯いた。やがてヨミは、タクトの手を離し、マフラーを差し出した。
「いつか、こんな日が来ると思っていたの。この糸を引く誰かが、私に会いに来る日。それはきっと君なんだろうなって気がしてたんだ。そして、私はそれを止めるべきなのかと、考えていた。考えない日なんてなかった。それなのに、結局私には決断出来なかった。だから⋯⋯」
「ヨミさん。僕はこの世界で見た、美しいものの全てを忘れません。僕を救ってくれたあなたの事も、きっと忘れない」
ヨミの目は、微かに、だけど確かに潤み光った。それは糸で織り成す事の出来ない、燦然と輝く宝石に等しい光だった。
「⋯⋯出来ない約束なんて、したら駄目だよ」
ヨミはその光を頬に流す事はせず、タクトの手を取ったあの日のように、微笑んだ。タクトの視界は滲み、溢れるそれを、どうしても堪える事が出来ないのだった。
タクトはその糸を慎重に、丁寧に手繰り寄せ、ゆっくりとマフラーから引き抜いた。
手応えは無かった。完璧な筈の糸の世界は、するりと解けていく。それはどうしようもなく呆気なく、力なく、音も立てず、解けていく。窓の外の雪も、かぼちゃのスープも、暖かい部屋も、ヨミも、タクトも。
何もかもが優しい嘘だったかのように、解けていく。
夢みたいな世界と、その世界を創造した女神か、或いは悪魔に、さよならを告げる間もなく──。
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