第1話


 朝目覚めた時にカーテンから射し込む光も、温めたスープも、出掛けようと手を触れた扉も、「行ってきます」という、その声も。

 全部糸で編めるのだと人が知った日から、全ては糸で、編み物のように創られるようになった。


 糸の汎用性は、世界を創れてしまうほどに優れていた。目に見えるもの、触れるもの、匂うもの、聞こえるもの。それらは複雑に絡み合った糸だった。少なくとも、タクトが生まれた時には、世界を構成する大部分は糸だった。だからタクトは本当の世界、現実を知らなかった。知らなくても困らなかった。糸で編まれた世界があまりにも美しく、居心地が良かったからだ。


 糸は寂しさを紛らわすのに最適だった。タクトが幼くして酒の味を知れたのも、糸のお陰だった。

 タクトの父は内戦の後、負った傷のせいで病気になり死んだ。施設の人がタクトにそう言った。母の事は、教えてくれなかった。よほど酷い死に方でもしたのか、単に捨てられたのか。どちらにせよ、父も母も覚えていないタクトにとってはどうでもよかった。ただ、父が遺した酒と、施設の玩具箱にあるあやとりの糸だけが、タクトの生きがいだった。

 その酒は、糸だった。多くの人が糸を信じているこの世界においても酒はまだ本物が多く存在したが、糸ならば、身体に負担をかけずに陶酔感だけを味わえる。大好きな誰かに酔えないタクトは、糸の酒に酔うしかなかった。


「お酒よりも、美味しいものがあるよ」


 ある日、タクトがいつものようにあやとりで遊んでいると、後ろから声がした。振り向くと、黒いロングスカートに白のセーター、腰まで届く長い黒髪に藍色の瞳をした美しい女性が立っていた。

 女性はタクトに目線を合わせるようにしゃがみ込むと、タクトの手にあったあやとりの糸を見つめた。


「それ、ダイヤモンドだよね」


 タクトがその手で形作っていたあやとりのダイヤモンドは、彼女が触れた瞬間に本物のダイヤモンドの形となって、タクトの掌に収まった。


「糸は、貴方が欲しいものを何でも編めるの。綺麗な宝石も、君が持っているお酒よりも美味しくて温かい飲み物もね」


 タクトは、彼女からの、次の言葉を待った。

 物心ついた頃から、タクトは一人だった。朧気に、父の影が心の片隅にあるだけだった。施設の大人達はタクトの世話をしてくれたが、誰も自分に心を開いてはいないと、幼いながらに感じていた。だからこの施設では大人しく過ごしていた。言うことを聞かない子を叱る大人達は、その子を嫌っているのがよく分かった。嫌われたら、きっと捨てられる。そう思って、毎日を大人しく過ごした。

 だから、タクトは次の言葉を待った。いつかきっと会いに来てくれると信じていた、自分を愛してくれる人の言葉を。


「さぁ、行こう。私と一緒に、世界を創ろう」


 差し出された手を掴んだ。タクトはその手の温もりを、生涯忘れる事はない。


 誰かと手を繋いで外を歩いたのは初めてだった。大人が自分の歩幅に合わせて歩いてくれるのも、初めてだった。

 タクトは頬に伝うものを感じた。それは寂しさのせいでもなく、糸の酒に酔っていたせいでもなかった。


「あの、お姉さん。お名前は?」


「ヨミ」


「⋯⋯ヨミさん。お酒よりも美味しいものって何?」


 ヨミは、辿々しい足取りで隣を歩くタクトを見て微笑んだ。


「うーん⋯⋯。沢山あるけど、私が好きなのは、かぼちゃのスープ。とっても美味しいよ。踊り出したくなるくらいにね」

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