エピローグ
店を開けてすぐに、その少女はやって来た。店内をうろうろと歩き、やがて一輪の花の前に座り込んだ。私は声をかけてみた。
「白い花が好きなの?」
「はい。私の部屋を飾るのなら、白が良いです」
黒く長い艷やかな髪に、白のセーターと黒いロングスカート。そして、藍色の瞳。とても可愛らしい女の子だった。少女は目の前の花をずっと見つめていた。
「それは、スズランだね」
もしも、目に映る全てが美しい世界なんてものがあったなら。その世界で花という存在は、人の心に残らなかったのかも知れない。そんな想像をしてしまう程、私の目の前にいる少女の表情は暗く、何かを見失っているように見えた。
「スズランの花言葉は、“再び幸せが訪れる”。素敵でしょう?」
少女は、私の方を見た。思わず息を呑んだ。その目は、少女の年齢からは考えられない程に、深く沈む何かを感じさせた。
「私、踊り疲れたんです。毎日毎日、望まないレッスンの日々。ママの言う通りに、一生懸命頑張ってるのに、ママはそれが当たり前だと言って、私の事を褒めてくれないんです」
私は少女が踊る姿を想像してみた。自分だったら、こんな可愛い女の子が可憐に踊ってくれたら嬉しいのに。
「⋯⋯スズランは、私に幸せを運んで来てくれるのかな」
「そうだね。花言葉には、不思議な力があると思うの。だからきっと、あなたを幸せにしてくれるよ」
少女は、初めて笑った。不思議なくらいに、魅力のある笑顔だった。
「お姉さん。これ、買います」
一束のスズランを手に、少女は店を出ようとした。私は彼女を呼び止めた。
「スズランには、毒があるからね。袋の中に注意書きがあるから、よく読んでね」
少女は頷くと、足取り軽く、店を後にした。
私は先程作った店の会員カードを、少女が忘れて出て行ってしまった事に気付いた。少女は既に、何処かへ行ってしまった。
私は自分の間抜けさに呆れつつ、少女がまた来てくれる事を願った。カードをどこに保管しようかと考えていると、ふと、カードに書かれた名前に釘付けになる。
「⋯⋯“夜美”ちゃん、か。良い名前だな」
少女の会員カードを大切に仕舞った後、私はレジに置いてあるパイプ椅子に腰掛けた。今日はこの後、ずっと暇だ。妙な話だけれど、こういう変な勘はよく当たる。
大きく伸びをして、深く深呼吸をする。こうして暇を持て余している時に、いつも思う事がある。
花を見ていると、心の奥の方にある固く結ばれた何かが解けていくように感じる。眠りにつく時のように、安らかな気持ちになる。これは不思議な感覚で、誰かが私の心に手を添えて、優しく結び目を解してくれているかのように感じるのだ。
そして更に不思議な事に、その手の主を、私は知っている気がしてならない。
「誰なんだろうね」
私はパイプ椅子から立ち上がり、レジ横に飾っている花を指先で撫でながら呟いた。
カルミアは、擽ったそうに花びらを揺らした。
バベルの糸 名波 路加 @mochin7
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