出会い①

教師の低い声が、朗々と響く。耳に全神経を集中させながら、読み上げられた文章を書き綴っていく。

午後の綴り方の講義。単語の綴りや動詞などの格変化を学ぶための科目で、講義では、教師の読む文章を聴いて、紙に書き起こす作業を繰り返す。

作業自体は単純だが、正確に単語と文法を覚えていないと、あっという間に置いていかれてしまう。だから、実際に始めると、焦って間違いだらけになる。

フロス街の学舎でも、同じ科目はあったが、普段話す言葉と同じものを書くから、それほど苦ではなかった。

しかし、王宮の言葉は、真昼の民が生まれた頃に使われていた言葉の原形を留める、特別なものだった。フロス街の住民は、学舎で習う特権が与えられているが、高学年からの科目である。遣いでは、平民の言葉でやり取りしていたから、あまりの違いに驚いた。

修辞的な言い回しに、長い綴りの単語、複雑な格変化。難解さに、思わず泣きそうになる。今すぐにでも放り出したい気持ちを必死に堪えて、教師の声に食らいついていく。

クレメンスの過大な期待があるとはいえ、憧れの騎士になれるのは、素直に嬉しかった。

すぐになれるものだと胸を膨らませたが、騎士見習いとして、王宮にある兵舎に寄宿するのは、十歳になる年の春からだという。まずは、父となったクレメンスの屋敷で暮らしながら、言葉に慣れ、六貴族の子息として必要な教養や礼儀作法を学ぶ、ということだった。

教師が、書き終わった答案用紙に正誤をつけていく。

案の定、誤りばかりで、跳ねた印で埋め尽くされた答案に、泣きたい気持ちになる。学舎では、成績はいい方だったのに、ここでは完全に落第生だ。

それでも、頑張れば、一年後の春には騎士への第一歩を踏み出せる。フォルティス家とエクエス家の子弟達が完璧にこなす中、不出来な状態で仕官するのは格好悪いから、必死に日々の講義をこなした。


約半年の長い冬が、ようやく終わりを見せ始めた頃。

算術の講義が終わって、ハンナと居室に戻るべく歩いていると、クレメンスの書斎から、男の人が出てくるところに出くわした。

すらりと背の高いその人は、びっくりするほど綺麗で、苦手な科目で落ち込んでいた気持ちが、一気に吹き飛んだ。

(きっとエクエスさまだ……)

フロス街で見かけては、ずっと憧れてきた存在。礼をして扉を閉める所作でさえ、洗練されて流れるようだ。

見惚れていると、気づいて微笑みながら近づいてくる。そして、優美に頭を下げた。

「ご機嫌麗しゅうございます、次代様。ご無沙汰してしまい、申し訳ございません」

あれ、と思う。ここに引き取られてから顔を合わせたのは、クレメンスとハンナ、そして下働きの者達だけだ。こんなに綺麗な人と会っていたら、あまりの衝撃で、絶対に忘れない。

しかし、心の奥底で、ぽっかり欠けてしまったような不安を覚える。大切な何かを落としてしまったような、言いようのない恐怖。

それでも、挨拶されている以上、返さなければならない。遠慮がちに口を開く。

「あの……たぶん、はじめましてだと思うんですけど……」

真昼の民だから、形式的に身分は自分の方が上になる。しかし、見知らぬ年長者に言葉を崩すのは、かなり勇気がいった。結局、丁寧な口調で応じてしまう。

金色の長い睫毛に縁取られた明緑の瞳が、おもむろに瞬く。穏和な笑顔に、何かを考えるような色が閃いた。失礼なことを言ったかもしれないと、不安に駆られる。

しかし、綺麗な顔が苦笑に変わり、優しく告げた。

「いや、これは――私の記憶違いですね。ご無礼を申しました」

そして跪くと、柔らかく響く声で名乗った。

「エクエス家直系当主、ブラッツ・カーサ・エクエスでございます。来月から、基礎体術の講義を担当いたします。以後、何卒お見知りおきくださいませ」

「うん、よろしく」

微笑んで頷きながら、合っているかなと心配になる。

クレメンスに求められる王子の態度。フォルティス家直系嫡子としての立ち振舞い。そして、本来の自分。この二ヵ月余りで、急にたくさんの引き出しを持たされて、いつも混乱する。

どうやら正しかったようで、ブラッツは頭を下げると、緩やかに立ち上がった。そして、後ろで控えていたハンナに告げる。

「顔合わせの件、あとで連絡する。頼んだよ」

「かしこまりました」

優美に礼をする姿を見て、不思議に思う。ハンナは、従家直系当主の妹だと言っていたから、この二人は兄妹なのだ。それなのに、家族というより、主従関係のようである。

つい、下女の髪覆いから覗く、結い上げた茶褐色を見てしまう。

漆黒の神が最初に生み出した姿のままの従家は皆、輝く金色だ。平民と同じ髪色のハンナが、どういう扱いを受けるのか。〈暁の家人〉の話を思い出して、心が沈む。

「それでは、王宮に戻らなくてはなりませんので、私はこれで。また近いうちに、お目にかかりましょう」

ブラッツが、おもむろに頭を下げる。そして、優しい微笑みを残して、去っていった。

歩き出して、次第に気持ちが落ち着いてくると、不意に疑問が湧いた。振り返って、ハンナに尋ねる。

「ねえ、きそたいじゅつって、何をするの?」

「剣を扱うための身体づくりをする講義です。腕や足腰を鍛えることで、剣に振り回されず、きちんと制御できるようになるのですよ」

剣と聞いて、色めき立つ。

ずっと座学で少し飽きていたから、身体を動かせるのは嬉しかった。しかも、エクエス家直系当主から、直々に教えを受けられるのだ。こんなに素敵なことはない。

「じゃあ、それがおわったら、剣もならうの?」

「剣術は、騎士見習いになってからです。幼いうちに無理をすると、かえって成長の妨げになりますから」

少し残念な気がしたが、背が伸びないのは困る。一年後の楽しみのために、しっかり励もうと思った。


会わせたい者がいるから、幾ばくか時間を頂戴したい――ブラッツの伝言を、ハンナから受け取ったのは、それから一週間ほど経った頃だった。

春の到来を感じる麗らかな午後。自室で待っていると、訪いを告げる声がした。ハンナが出向いて、扉を開ける。

仕立てのいい服を着たブラッツと、同い年くらいの男の子が、入ってきた。立ち上がって出迎える。男の子は、ブラッツによく似た顔立ちで、あまりの綺麗さに、目が落ちそうになるくらい見開く。

唖然としていると、少し腰をかがめて、ブラッツが男の子を紹介する。

「こちらは、長男のエルドウィンでございます。先日八歳になりまして、来月から次代様の補佐官として、ともに講義を受けさせていただきます」

「おはつにお目にかかります、次代さま。エクエス家直系当主が嫡子、エルドウィン・カーサ・エクエスともうします。誠心誠意、あなたさまのお力になれるよう尽くします」

小鳥のような可愛らしい声で挨拶すると、左胸に手を当て、腰を折って優雅に礼をした。その姿に、また唖然とする。

自分よりひとつ年下なのに、流れるような口上で、それだけでもびっくりだが、所作の綺麗さは、さすが六貴族の従家として生まれ育っただけはある。どうしても粗雑になってしまう自分とは、随分な違いだ。

「はじめまして、エルドウィン。よろしくね」

事前にハンナに尋ねて、教わった通りの物言いで返す。主家の次代当主が、従家に名乗る必要はない。それでも、偉そうにするのは嫌だったから、少し柔らかい口調にしてみる。

エルドウィンは顔を上げると、気遣わしげに少し眉根を寄せて言った。

「ご病気で、長らく休まれていたとうかがっております。もし、お体がおつらいなどございましたら、遠慮なくおもうしつけください」

そういえば、そんな設定になっていたなと思い出す。

クレメンスによると、生まれつき身体が弱いということは、漆黒の神が特に惜しんで、その元に還るよう吸い込んでいるしるしなのだという。

そのため、いつ還ってもいいように、出生届は出さないのが習わしだ。そして、基礎となる戸籍がなければ、家系登録はできない。おかげで不審に思われずに、手続きができたのだ。

「ありがとう。でも、もうだいじょうぶだから」

「それは、よろしゅうございました」

心から安堵した表情。本当に気遣ってくれたのだと知って、純粋に好きだなと思う。

「ねえ、そんなしゃべり方しないでよ。ぼく、きみと友だちになりたいな」

引き取られてからついぞ、同じ年頃の子を見かけなかった。これから一緒に学ぶのだから、毎日会うことになる。エルドウィンと、対等な関係で仲よくなりたかった。

ところが、綺麗な顔が、とても困ったように曇った。戸惑った様子で呟く。

「……友だち……」

その表情に、やっぱり難しいかな、と残念な気持ちになる。

主家と従家は、その名称の通り、主従の関係だ。しかも、神の負託を受けて昼の世界を治める真夜の民と、その下で補佐を担う役割を与えられた真昼の民である。そこには、決して越えられない厳然とした壁があった。

子供二人、微妙な空気で固まっていると、ブラッツの柔らかな声が降ってきた。

「エルド、次代様のたってのご希望だ。叶えて差し上げなさい」

父親を振り仰いで頷くと、エルドウィンが尋ねる。

「なんて、よべばいいかな?」

「フェリックスでいいよ。おれも、エルドってよんでいい?」

久しぶりの、肩肘張らない会話に心が躍る。柔らかい口調に、やっぱり気持ちの優しい子なんだな、と嬉しくなった。

少し驚いた顔。そして、緩やかに笑みに変わっていく。

「うん、いいよ」

心から嬉しそうな、愛らしく優しい笑顔。あまりの綺麗さに、鼓動が跳ねる。とくとくと、徐々に速くなっていく。

(あれ……? おれ、どきどきしてる?)

本当に綺麗なものには、男も女も関係なく胸が高鳴るのだなあ、と新しい大発見のように思った。


        *


春の麗らかな陽光に、通りに並ぶ屋敷が輝いている。荘厳で重厚な佇まいのフォルティス家の街並み。引き取られて以来、出かけるのは初めてだったから、馬車の小さな窓の景色を、食い入るように眺める。

時折、曲がり角の向こうに見えるエクエス家の区画。華麗で優美な雰囲気は、綺麗な従家の三人そのものだった。エルドウィンの家はどこだろうと想像しながら、いつか遊びに行けたらいいなと思う。

今日の目的地は、クレメンスの長姉の屋敷だ。伯母一家に家系登録を済ませた挨拶と、従姉のヴィクトリアに会うためだった。

クレメンスの一人娘であるヴィクトリアは、六貴族の息女が寄宿する女子学舎にずっといて、先日卒業したばかりだ。引き取られたのは、冬の休暇が終わったあとだから、入れ違いになっていた。

そして卒業後は、母親がいないため、何かと不便だろうということで、縁談が決まるまで、伯母の家で暮らしているのである。だから、会うのは今日が初めてだった。

しかし、表向きは、冬と夏の長期休暇の度に、王都郊外の療養地に見舞いに来ていることになっている。直近では、年末年始の冬季休暇で会った、という設定だった。

家系登録上は、六歳上の実姉になる。一人っ子で、憧れていたことが実現する嬉しさと、クレメンスと同じように、王子として期待されるのではという不安で、昨夜はなかなか眠れなかった。

伯母の屋敷に着くと、下男が扉を引き開けた先で、女の人が二人立っていた。骨の太いしっかりした体格の左側が伯母で、華奢で丸みのある右側が従姉だろう。

クレメンスが、それぞれと抱擁して挨拶を交わす。家族だから当たり前なのだが、奇妙な光景を見たような気分になる。

普段、人目がある時は、必要最低限の事項を連絡し、二人きりの時は、王家を穢した王への怨恨と過大な期待を語るだけだったから、自然な姿は初めてかもしれなかった。

クレメンスに、姉上と呼ばれた左側の女の人が、こちらを向く。弟によく似た角張った顔が、にこにこと微笑む。

「あなたがフェリックスね。あらまあ、お祖母様の血が濃く出て、可愛らしいこと」

確か、祖母は先代の王――つまり、父方の祖父の長姉だったと思い出す。

まさか両親が従兄妹同士だったなんて、最初聞いた時はびっくりしたが、血筋を守る必要から、六貴族と従家では、一般的な慣習だという。

講義で習った作法を必死に頭に浮かべながら、ゆっくりとした所作で礼をする。

「はじめまして、伯母上。みじゅく者ではありますが、次代当主としてはげみますので、どうぞよろしくおねがいします」

挨拶を返しながら、おや、と伯母の顔が怪訝な色を宿す。まだ言葉に慣れなくて、発音と格変化が変なのは自覚していたから、曖昧に笑って誤魔化す。

すると、さりげなくヴィクトリアが割って入る。腕を広げて、明るく笑う。

「久しぶりね、フェリックス。さあ、姉上に、元気になったあなたを抱き締めさせて」

頷いて近寄る。華奢な手が、背中に優しく触れる。

頬に当たる、張りのある柔らかさ。ハンナの、母のような安心感のあるぬくもりとは違う感触。甘い花のいい匂いに、どきどきする。顔が赤くなっていくのがわかる。

どうしていいかわからず固まっていると、階段を駆け下りる足音が聞こえた。ヴィクトリアが振り返るのと同時に身体が離れて、ほっとする。

現れたのは、体格のいい男の子だった。講義で習った家系図を思い浮かべて、ハンナに教えてもらった伯母一家の事情を引っ張り出す。

三男以上は皆、兵舎や騎士舎に寄宿している。おそらく四男で同い年の、従兄のウィンケンスだ。

こちらに大股で近寄ってきて見下ろすと、ふんと鼻を鳴らした。

「なあんだ。叔父上のところに嫡子が入ったっていうから期待してたのに、こんなひょろひょろかよ」

「こら! 次代様になんてこと言うの!」

伯母が、ぺしっと頭をはたく。いてえ、と押さえながら、それでも口は止まらない。

「こんなのが次代様で同期なんて、おれ、ぜったいいやなんだけど」

おれだって、と言い返しかけて、はたと止まる。

肩に、大きく分厚い手の重み。恐る恐る仰ぐと、群青の双眸が、関わるなと語っていた。

今持っているのは、フォルティス家直系嫡子の引き出しだと思い出す。格の低い傍系の末弟が売った喧嘩を、真っ向から買ってはいけない。

微かに頷いて、一歩下がる。クレメンスの隣で、成り行きを見守る。重低音が、巨大な体躯から降り注ぐ。

「ウィンケンス。他者を侮れば、剣は鈍る。父や兄達の恥になるつもりか」

ぐっと詰まって、歯を食い縛る顔。結局、何も返さずに、階段の方へと駆けていった。

伯母が、ウィンケンスの去った方向を見つめて、溜め息をつく。そして、眉根を寄せて言った。

「ごめんなさいね。本当は、優しい子なのよ」

何か返すべきか迷ったが、とりあえず頷く。肩に、分厚い手の感触。曖昧に微笑んだ。

静かな重低音が告げる。

「それでは、姉上。そろそろ、行かなければなりませんので」

「あら、もう? せっかく来たのだから、お昼くらい食べていきなさいな」

てっきり長居を想定していたから、内心驚く。一方で、心底ほっとする。早く帰って、ハンナと話して落ち着きたかった。

「軍議がありますから」

伯母の藍色の瞳に、納得した色が浮かぶ。

確かにクレメンスは、普段この時間帯は、出仕して屋敷にはいない。だから、不思議に思っていたが、合間を縫って、時間を捻出したのだと知る。

それから、ヴィクトリアを見遣ると、静かに問いかけた。

「縁談の件、進めていいのだな」

「はい。よろしくお願いします」

微笑む明るい声。そっと見上げると、青藍の瞳が、いとおしむようにきらきらと輝く。先程の抱擁を思い出して、顔が熱くなる。慣れなければと、恥ずかしさが湧いた。

二人の見送りを受けて馬車に乗ると、ゆっくりと発進して、春の景色を帰っていった。

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