真昼の王女②

 長い冬が終わりを迎え、春のぬくもりを感じ始める頃。従騎士になってから三年が経ち、前期課程を終えた。

 四年目の後期課程から、随行の配置が、当番として回ってくる。これまでの鍛練の成果が試される時だ。

 当番表を見た時、ようやく本格的な任務が始まると、気持ちが弾んだ。


 きゃらきゃらと、王女の遊ぶ愛らしい声が、背後で聞こえる。

 王殿の、居室近くの中庭。指導役の近衛騎士団団長ヘンリクスとともに、立ち並ぶ柱の影で、警護に当たる。

 今年の夏に八歳になるとはいえ、まだ不測の事態が起こりやすい年頃だ。きちんと様子を見ている方が安全ではと思ったが、たとえ従姉婿でも、近衛騎士団最高位の団長に、わざわざ尋ねるのは気が引けた。

 直系嫡子の指導役だからという理由らしいが、むしろ職位が高すぎて、妙に緊張してしまう。しかも、一緒に暮らしていた時は、冷たくあしらわれていたからなおさらだ。初めてついてもらった日は、さすがにぐったりした。

 小鳥が遠くで鳴いている。ただひたすらに、対岸の柱と奥に続く呑気な景色を見ていると、どうしても気がそれてしまう。

(お腹空いた……)

 昼はたらふく食べたというのに、もう腹が減ってきた。影の向きから、だいぶ日が傾いてきたと知って、少しほっとする。

 ふと、背後で、王女のものではない声がした。嘲笑う声のあと、火がついたように泣く声が響いた。

 何事かと振り返る。王女より少し年上くらいの、見知らぬ子供。大きなぬいぐるみを掲げて、振り回している。王女が、必死に取り返そうと追い縋っていた。

 走り出そうとして、がくっと腕が引っ張られる。

 驚いて振り返れば、団長が掴んでいた。関わるなと、目顔で示される。声もなく見上げていると、王女の甲高い声が聞こえてきた。

「やあぁっ、ヌーヌーかえしてえぇっ……」

「ヌーヌーって! 赤ん坊かよ! ほら、返してほしければ取ってみろ」

「かえしてっ……かえしてよぉ……!」

 耳に刺さる悲泣の声。頭の中で、怨嗟の声が、歪んだ喜びに震えて嗤う。

(いい気味だ。卑しい真昼の娘め。もっと泣け! 叫べ! 苦しみが、お前にふさわしい場所だ!)

 子供の嘲笑う声。一心不乱に返してと泣き叫ぶ、絹を裂くような甲高い声。怨嗟の声が、愉快そうに身悶える。

(ああ嬉しいッ! なんと素晴らしいことか!)

 呼吸が震える。苦しさに、身体が戦慄く。視界が明滅する。どうしてと、ヘンリクスを責めるように見つめる。

 感情のない目で、静かに告げられた。

「宰相の嫡子――ユリウス・クラン・カンチェラリウスだ。……わかるな?」

 名を聞いて、はっとする。王の実妹の子息で、つまりは王の甥だ。

 正統な血筋を引く王族。殿下と呼ぶ声が、遠く聞こえる。怨嗟の声が、ぶれて重なる。

 ――これは、不相応な地位に対する正義の鉄槌だ!

 はっきりと、伯父の声に変化する。視界が弾けて、明瞭になる。

 哀れむように見下ろしてくる、薄青の双眸。本意ではないのだと知る。

 意を決して、説得しようとした、その時。

「そんなに返してほしいなら、服をぬげよ」

 信じられない言葉に、目を見合わせる。きょとんとした無垢な声が、聞こえてくる。

「……ぬいだら、ヌーヌーかえしてくれる……?」

「もちろんさ。ぼくは、約束は守るからな。ちゃんと、全部ぬぐんだぞ」

 ユリウスの声色に、ぞっとする。

 声変わりもしていない子供の声なのに、それは、明らかに欲情した男のものだった。女が男の前で服を脱ぐ意味を、わかって言っているのだ。そして、アメリアはそのことを知らない。

「じゃあ、ぬぐ……ちゃんと、かえしてね……?」

 喜悦に笑う声。息が詰まる。腕を掴んでいた手が外れる。一気に駆け出した。

 留め具に手をかけるアメリアの姿。させるものかと滑り込むように、二人の間に割って入る。

 突然の闖入者にユリウスの顔が固まる。アメリアを後ろに庇いながら、手を差し出した。

「今すぐそれを返せ」

「――は? おまえ何だよ。ぼくをだれだと思って、そんな口利いてるわけ」

 子供とは思えない邪悪な凄みで、ユリウスが睨む。その群青の瞳を真っ直ぐに受け止めて、挑むように告げる。

「俺は、フェリックス・クラン・フォルティス――つまり、お前と同格だ。それに、俺の方が五歳も上だ。年長者に利く口がなってないのは、お前だろ」

 ユリウスが、ぐっと言葉に詰まる。何かを言おうと口を開くが、代わりに手にしていたものを投げつけてくる。苦もなく受け止めると、歯噛みしながら呻いた。

「フェリックス――覚えたぞ。真夜のくせに、真昼の味方なんかしやがって! ぼくのじゃまをしたこと、後悔させてやるっ……!」

 言うだけ言いきって、一目散に駆け去っていく。その背中を思いきり睨みつけてから、ゆっくりと振り返った。

「殿下、お返しいたします」

「ヌーヌー!」

 ふわふわの長い茶色の毛に覆われた、熊のぬいぐるみ。身の丈の半分ほどもあるそれを、アメリアが、ぎゅっと抱き締める。大きな碧色の瞳が、笑んで柔らかく形を変える。

「ありがとう……」

 愛くるしい笑顔に、思わず破顔する。立ち入ってよかったと、心から思った。

 そして、噛んで含めるように、優しく語りかける。

「殿下、お願いがございます。もし、誰かに服を脱げと言われても、決して応じないでください」

「……どうして……?」

 瞳を瞬かせて、きょとんと首を傾げる。本当のことを言うわけにはいかなかった。伝われと願いながら、真剣な口調で続ける。

「どうしても、です。私の申し上げたことの意味が理解できるまで、絶対に応じてはいけません」

「でも、ヌーヌーをたすけられない……お友だちだもの、わたしがたすけてあげなきゃ……」

 ぎゅうと、ぬいぐるみを抱き締める。

 泣き叫ぶほど必死になって助けようとする〈友達〉が、ぬいぐるみであることに、アメリアの深い孤独を垣間見る。切ない気持ちで言葉を継ぐ。

「お友達は、我々がお助けいたしますから……」

 途端、ぶんぶんと、アメリアが頭を強く振る。愛らしい顔が、涙に歪む。

「だめ……だれも、たすけてくれないもの……」

 鋭い痛みが胸を突き刺す。今までどんな扱いを受けてきたのか、それだけで十分すぎるほどに察せられた。

 真っ直ぐに、碧色の瞳を見つめる。柔らかく微笑んで、優しく宣言する。

「それでは殿下。〈私〉が必ず、お守り申し上げます」

「あなたが……?」

 頷いて居住まいを正す。主君に対する最敬礼をとる。

「申し遅れました――総帥フォルティス家直系が嫡子、フェリックス・クラン・フォルティスと申します。従騎士の身で、甚だ僭越ではございますが、殿下と御友人の御身を、誠心誠意お守り申し上げます」

「フェリックス――」

 噛み締めるように呟く声。

 仰ぎ見ると、頬を上気させて、穏やかに微笑む顔があった。

「〈幸運〉――すてきな名前ね」

「ありがとうございます」

 先程までとはうってかわった聡明な表情に、心が融ける。歳のわりに幼いと感じていたが、その深い孤独を思えば、無理もないのかもしれない。

(こうして……俺が守ってあげられれば――)

 もっと違う表情も、見られるのだろうか。さっきのような、心底幸せになる愛くるしい笑顔も、また。

 不意に、背後で足音が聞こえる。振り返れば、団長の姿があった。

「いやあ、全く痛快だったな。――フェリックス、よくやった」

 にやりと笑う。主君の前だというのに、ぞんざいでざっくばらんな態度に唖然とし、思わず吹き出す。

 他家からの婿という立場で、王族には逆らえない分、よほど腹に据えかねていたのだろう。厳格で冷淡な人だと思っていたヘンリクスの、意外な一面を知る。

 団長は、アメリアの傍らに立つと笑いを収め、真顔になって跪いた。最敬礼をとって、重々しく告げる。

「殿下。これまでの数々の非礼、誠にお詫び申し上げます。御身をお守りする立場にありながら、おつらい目に遭わせてしまった。王族ではない我が身で成し得ることは限られておりますが、骨身粉砕お仕え申し上げます」

 碧色の瞳が瞬く。ぎゅっと、ぬいぐるみを抱き締めて、膨れっ面になる。

「……フェリックスがいい」

「おやおや、これは嫌われたものですな。悲しいことでございます」

 大仰な物言いに、また吹き出してしまう。

 堪えきれず、声を震わせて笑っていると、アメリアも幸せそうに笑顔になる。その可愛いらしい様に和む。心の奥で重く響いていた声が、遠のいていく気配がした。

 不意に、涼しい風が頬を撫でる。冬が終わったとはいえ、午後はまだ名残の冷気を帯びている。

 日がだいぶ傾いているのを認めて、緩やかに立ち上がった。軽く身をかがめて、そっと促す。

「さあ、ここは冷えます。御部屋に戻りましょう」

 頷くのを確認して、後ろに控えて歩こうとする。しかし、アメリアは、隣について前を行かない。怪訝に思って見下ろすと、そっと手を掴まれる。不安そうに、問いかけるように、見つめる碧色の瞳。

 しかし、主君と手を繋いで歩くなど、仕える身としてあるまじき行為だ。助けを求めるように、ヘンリクスを見遣る。にやにやと人の悪い笑みが、彫りの深い顔に浮かんだ。

「この御歳で男を困らせるとは。全く、将来が楽しみだな」

「なっ――」

 言葉を失う。顔が火を噴く。愉快そうに笑いながら、繋いでやれと、目顔で告げられる。悪い大人だと苦々しく思いながら、優しく手を握り返した。

 安堵した表情。そして、これ以上ないほど幸福に満ちた笑顔。自然と笑みがこぼれる。素直に可愛いと思った。

 小さな妹を持ったような気持ちで、手を繋いで歩いた。


 居室前の廊下に戻ると、扉の両側に立つ近衛騎士と従騎士が、ぎょっとした顔になる。当然の反応に、ヘンリクスがすかさず告げる。

「殿下の御希望だ。また、例のがあってな」

 騎士達の顔に緊張が走る。悔しさの混じる表情。

 助けないなんて、と不服に感じていたが、近衛騎士団の騎士達は、主家傍系と従家の出身だ。傍系は王族だが、格が一段落ちる。そして、直系の子息は、自分一人なのだ。どうにもできない状況だったのだと、思い至る。

「聞いて驚け。フェリックスが撃退したぞ」

 ヘンリクスが、にやにやと笑顔で大仰に言う。よほど嬉しいのか、普段よりもずっと砕けた口調だ。

「本当ですか、団長⁉」

 従騎士が思わず声を上げて、はっと手で口を押さえる。礼を失したと、アメリアの様子を窺う。

 すると、さっと後ろに隠れた。繋いだ手に力がこもる。呆気に取られる騎士達。

 落ち着いた聡明な笑顔を思い出す。おそらく普段は、これほど子供らしい態度を取らないのだろう。背後でじっと見上げる、大きな碧色の瞳。大丈夫ですよ、と微笑んで応えた。

 一連の様子に、ヘンリクスの口から苦笑が漏れる。

「――こういうわけだ。俺は、総帥と王宮の団長に、接触の許可を取ってくる」

 そして、控えで年次の一番高い近衛騎士の名を、交代要員として挙げる。威儀を正して騎士達が敬礼すると、影から覗くアメリアに挨拶して去っていった。

 その広い背中を見つめながら、強い不安に襲われる。伯父はきっと、企みが成功に近づくと喜ぶだろう。

(でも、俺は……)

 狂い泣いて訴えてきた、あの日の手の感触が甦る。巨躯から伸びる大きく分厚い手が、重く冷たい枷となって絡みつく。

 血の気が、さーっと引いていく。視界が明滅した。

 不意に、そっと手が引っ張られる感覚がする。見下ろすと、不安そうな碧色の瞳に出会う。

「フェリックス……顔が青いわ。だいじょうぶ?」

 気遣わせてしまったと、申し訳なく思う。優しく微笑んで返す。

「失礼いたしました――大丈夫です。さあ、御部屋に入りましょう」

 頷いて、安心したように柔らかい笑みが広がる。無垢で愛らしい表情。強ばっていた心が、解けていく。

「ねえ、ふだあそびはできる?」

「できますよ。どちらにいたしましょう?」

 鈴を転がすような声で、種類が告げられる。人数が必要だが、侍女達もまじえるという。

 同期連中とはよくやっていたものの、最近は、当番がばらけて集まりにくくなっていたから、大人数では久しぶりだ。自然と気持ちが弾む。

 それから、交代した控えの先輩騎士に事情を話し、了承を得て、皆で大いに楽しんだ。


 職務明け前の終礼。レガリス隊王女付きの後期課程の従騎士達が集まり、一日の振り返りが行われた。

 一番後方に整列して、付長の話を聴いていると、アメリアたっての希望で、身体的な接触が許可された、との隊議の共有があった。しかも対象は、まだ前期課程を終えたばかりの従騎士である。

 前代未聞の話に騒然となったところを、付長が鋭い声で静める。そして、許可された理由を語った。

 解散が告げられた途端、先輩の従騎士達に、口々に礼を言われた。よくやった、さすが直系は違う、との言葉に、この立場だからこそできることがあるのだと、ひしひしと実感した。

 それから、騎士舎に帰る前に団長の執務室を訪れるよう、付長から指示があった。

 赴くと、先刻とはうってかわって、常の厳格な口調で告げられた。

「いいか、フェリックス。まだ従騎士のお前を特別扱いすることはできん。当番や鍛練、その他やるべきことを全てこなすことが前提だ。殿下の御希望である以上、勝手に放り出すことは許されん。そして、お前は直系の嫡子だ。相応の実力が要求される。うえから預かった大切な子を、腑抜けに育てるわけにはいかん。団長としても義兄としても、変わらず厳しく接する。――いいな?」

「――はい!」

 姿勢を正して、しっかりと返事をすると、厳しい面持ちがふっと緩んだ。冷たい印象だった薄青の双眸に、温かな笑みが灯る。

「子供の頃は、すまなかったな。いろいろあって余裕がなかったとはいえ、小さな子供に取る態度ではなかった」

「いえ……もう、昔のことですから」

 緩やかに首を振る。

 確かに怖い人だと思っていたが、十歳も上なのだ。明るく軽妙な人柄を知った今、まだ若輩の自分には想像のつかないほど、つらいことがあったのだと理解できる。

 ほっとしたように、ヘンリクスが息をつく。優しい微笑みが、彫りの深い顔に浮かぶ。

「どうだ。今度の休日、うちに来ないか。可愛い弟に会えるとなれば、ヴィクトリアも喜ぶ」

 願ってもない申し出だった。

 話好きで快活な従姉。ずっと会いたいと思いながら、ヘンリクスと顔を合わせるのが気まずくて、手紙だけになっていたのだ。久しぶりに会えると思うと、心が弾んだ。満面の笑みで答える。

「ぜひ! 楽しみにしてます――うえ

 薄青の瞳が少し見開き、おもむろに柔らかく微笑んだ。温かな気持ちが心を満たす。

 具体的な時間を決め、改めて許可の礼を言うと、執務室を辞した。

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