真昼の王女①
騎士見習いとして仕官し、二年が経った頃。従騎士となる準備のために、久しぶりに帰省した。
そこで、伯父から、恩寵の証の捜索を打ち切ることを告げられた。これ以後はもう、王の溺愛する王女を利用して、譲位を迫るほかないという。
悔しさで男泣きに咽び泣く姿を哀れに思って、王がどれほど酷い人間であるかわかったと、つい口を滑らせてしまった。理解を受けて歪んだ喜色を浮かべ、苦痛と後悔に泣きながらまくし立てる伯父に、己の迂闊を強く後悔した。
火事の翌日、自分達を探していた理由を聞いてから、多くのことを学び、確かに夜と昼をひっくり返すような、とんでもない事件だと思った。
ただ、伯父が繰り返し語る中で、ひとつだけわからないことがあった。
王は、〈暁の家人〉のアグネスと、強引に夫婦になったという。それを語る時の伯父の形相は、まさに殺意そのもので、人はこれほどに誰かを憎めるのかと、心底驚いた。
その意味を、はっきりと理解できたのは、帰省するつい先日のことだ。
騎士見習いの少年達は、複数人の大部屋で寝泊まりする。仲間意識を養って、集団の秩序を学び、固い絆で連携して職務に当たる――という目的から、たとえフォルティス家直系の嫡子でも、個室は決して与えられなかった。
そんな中、同期達が車座になって、何かを見ていた。興奮して熱を帯びた声音で話している。覗いてみると、男女の情交を描いた図画だった。
騎士舎には、もちろん女はいない。食堂ですら、男が担う徹底ぶりだ。そんな女っ気の全くない男所帯で、猥雑な類いの話や図画は、密かに、だが当然のように出回っていた。先輩達の話を耳にすることもあったが、剣の稽古が楽しくて、あまり関心がなかった。
しかし、図画で実際の行為を目にした途端、感じたことのない感覚が、背筋をぞわりと駆けていった。そして、唐突に理解した。
たとえ偶然でも、仲間の股間を痛めつけることは、教官に震え上がるほど酷く叱られる。お前達は、家を繁栄させる気はないのか、と。
結婚した男女にしか、決して許されない行為を――子ができるような行為を、王は主人のいる身籠った女人に強いたのだ。考えただけで、吐き気がした。
しかし、狂い泣きながらまくし立てられた伯父の話は、遥かに想像を絶する、おぞましいものだった。
アグネスが、懐妊を理由に仕官を辞する日。
クレメンスは、翌週の王議の資料を届けるべく、王の居室に向かっていた。その道中で、アグネスを見かけて声をかけた。
聞けば、王に呼び出されたのだという。それならばと、出仕最終日の会話ついでに、ともに行くことにした。先代の王妹を母に持つ、この美しい従妹が、王に追い回されていることは、王宮中に知れ渡っていたから、心配する気持ちも当然あった。
そういう事情があり、アグネスについて居室に入ろうとすると、王は出ていくよう命じた。控えていたレクス隊の近衛騎士や侍従達にも、絶対に入ってくるなと、強く指示した。
まさか、アグネスを王と二人きりにするなどできず、反駁したが、凄まじい勢いで王が激怒したので、従わざるを得なかった。
少しして、アグネスの混乱した声と大きな物音がした。扉に手をかけると、入るな、と王の怒号が鋭く制す。
王家は、真夜の民の中で唯一、漆黒の神の寵愛を受けた一族だ。どんな王であれ、王は何においても絶対だった。ただ扉の前で、追い出された他の者達と同様、立ち尽くすほかなかった。
それからは、真昼の業火に焼かれるような時間だった。
悲鳴。争う物音。布を引き裂く音。扉に、手をかける音。
そして、両開きの扉が大きく揺れた。
王のいたぶるような言葉。拒絶し、助けを呼ぶ声。名を呼ぶ、声。
――クレメンスお
次の瞬間、扉が大きく揺れ、耳をつんざくような悲鳴が響いた。
規則的に揺れる扉。泣き叫び絶叫する声。ただ皆、声もなく、振動の速度が増していく扉を見ていた。
一際大きく揺れたあと、王の打ち震える声が聞こえた。そして、今までの狂乱が嘘のように、静まり返った。
王は扉を開くと、クレメンスを呼びつけた。不思議そうに、泣いていることを指摘される。
怒りと悲しみと屈辱に震えながら、それでも従うと、扉の傍らで、アグネスが倒れていた。上衣は大きく裂かれて、胸と腹が露になり、引き裾が捲れ上がって、腰から下が全て白日に晒されていた。
――その、心が壊れた、虚無の顔。
吐き気にえづく。しかし、王は平然と衣服を整えながら、王議を招集するよう指示した。
その王議で、王は、アグネスと夫婦になったことを宣言し、結婚を承認するよう、六貴族の当主達に迫ったのだった。
「あの王を! あの非情で鬼畜な男を、真昼の業火に突き落としてやりたいッ! あの下衆が、王でさえなければ――!」
足首に縋りつき、絶叫する伯父をただ見下ろす。少しずつ、冷たく腑に落ちていく。
「どうかッ! どうか真昼の娘を殺してください! あの恥ずべき王が溺愛する娘を! 我が子が真夜であるという幻想を打ち砕き、王を絶望の虚無へと突き落としてくださいッ!」
初めて伯父を心から哀れんだ。そして、自分は復讐の道具なのだと、冷ややかな思いが、心を覆った。
結局、首飾りの――父の大切な形見の話はせず、時が過ぎた。
*
麗らかな春の日差しが、薄い絹を通して、柔らかに降り注いでいる。床まで大きく切られた窓辺で、一人の婦人が、安楽椅子に座って外を眺めていた。
緩やかにひとつに編んで束ねた、栗色の真っ直ぐで豊かな髪。宵の口の空のような青色の瞳。雪のように白い肌と聡明な顔立ち。かなり痩せてはいたが、名匠の絵画から抜け出てきたような美しい貴婦人だった。
ただ、青色の瞳には、何も感情が宿っていなかった。硝子玉のように、そこにある景色を映しているだけだった。
訪いを告げる声とともに扉が開き、幼い女の子が、婦人に駆け寄っていく。
「おかあさまっ!」
「……アメリア……」
首を緩慢に巡らせて、母と呼ばれた婦人が、膝元ではしゃぐ女の子を見る。硝子玉の瞳が、ただその光景を映す。
「きょうね、おとうさまにおあいできたのよ! おいそがしいのに、アメリアのためならって」
「そう……ご主人様は、お元気にされていた……?」
間近にいなければ聞こえぬほど、微かな声。女の子の満面の笑みが、息を呑んだように一瞬揺れる。しかし、すぐに笑顔に戻ると、柔らかい声で言った。
「おげんきだったわ。おかあさまのこと、しんぱいされてた。おからだのぐあいは、どうかって」
女の子は嘘をついた。母の言う主人とは、父ではないことを知っていた。
たとえ嘘をつく悪い子になっても、もう二度と、母が狂って泣き叫び、侍女達に押さえられながら薬を飲まされる姿など、見たくなかった。
「……ワルター様……」
柔らかく、微かに笑む顔。母は、父ではなく、かつて主人であった従家の当主を愛していた。
「ああ、アメリア……いとしい子……ワルター様と私の、愛の雫……」
鏡のように目の前のものを映す青色の瞳を、ただ声もなく見つめた。
王宮のフォルティス家の執務館に隣接する、騎士舎の宿舎は、まさに王宮や王家を守る騎士達にふさわしい荘厳さを呈していた。
騎士見習いは、平民から募る一般兵士と同じ階級で、騎士とは扱われない。訓練場も宿舎も、その敷地内にあったから、騎士舎を目にしたのは、これが初めてだった。
一般兵士に比べ、設備などに多少の色がつけてあるとはいえ、見習い程度を厚遇する理由もない。入舎の時、高級品に慣れた子息達が、あまりの簡素な造りに驚くのが恒例だった。だから、従騎士になって騎士舎に移動する時は、むしろ実家に戻ったような感慨を覚えるのである。
「早く行かないと、遅れちゃうよ」
親友の声に、はっとして顔を下げる。
大きな鞄を手に提げたエルドウィンが、少し先で、振り返って待っている。平民の家のような宿舎に慣れきっていたせいで、思わず呆気に取られてしまったのだ。
軽く謝って追いつくと、連れ立って歩き出した。
宿舎の正面玄関口にある管理室の窓口で、鍵を受け取り、部屋の連なる長い廊下を、番号を確認しながら歩く。
叙任済みの近衛騎士の区画との境目に、割り当てられた部屋はあった。札の上側に自分の名が、下側にエルドウィンの名が、身分名とともに記してある。
鍵を差して開けると、こぢんまりとした空間が広がった。
丸い卓と二脚の椅子を中心に、左右対称の造りになっている。寝台や衣装棚に机と、最低限とはいえ、専用の家具があることに感動する。姿見はひとつだが、大勢で取り合いをしなくて済むのは便利だった。
手早く最小限の荷ほどきをすると、卓の上に衣装袋を置いて、取り出して眺めた。ずっと憧れていた騎士服に、心が躍る。
「うれしい?」
エルドウィンが、柔らかく微笑んで尋ねる。
もともと平民で憧れていたとは言えなかったが、病弱だったという設定を活かして、強い騎士になりたいと、散々語っていた。だから、
「ようやく、おれも騎士なんだなあ」
感慨深げに眺めていると、エルドウィンに、時間だからと急かされる。
机に置かれた時計を見ると、確かに集合時間が迫っていた。慌てて私服を脱いで畳み、棚に仕舞うと、真新しい騎士服に袖を通した。
「――これで合ってる?」
着終わった騎士服を、エルドウィンに見せて尋ねる。すると、首を軽く振って手を伸ばし、右肩のマントをめくって、首元の内側にある小さな留め具で固定した。
「裏地の色で、従騎士か騎士か――それと、団長と隊長、付長を見分けるから、ちゃんと見せないと」
そして、折り目を綺麗に整えると、できたよ、と軽く片腕を叩いた。礼を言って、少し唸る。
「やっぱり、こういうの覚えるのは苦手だな。エルドはすごいなあ」
「主家を支えるのが、従家の務めだから。でも、きみの役に立ててうれしいよ」
優しく柔らかな微笑み。主従以上に、親友として役割を果たしたいという気持ちが嬉しかった。微笑んで頷く。
横目で時計を見て、エルドウィンが促す。
「さあ、行こう。初日におくれたら、大目玉だ」
それは絶対に嫌だと笑いながら、連れ立って、新しい自室をあとにした。
騎士舎と執務館の間にある広場に集合すると、配属先の近衛騎士団レガリス隊隊長が待ち受けていた。がっしりとした体躯の大柄な男が、直立不動でいる様は圧巻だった。
点呼の後、隊長が朗々とした声で、これから謁見の間で任命式を行なう、と告げた。王と王女の御前であるから、決して失礼のないように、との厳命を受けて、一同敬礼する。
隊列を組んで歩き出し、館へと足を踏み入れた。
王宮は、北西東の三面に建っている。
太陽が昇らず月を仰ぐ北が、最も高貴な方角とされ、最北端には王墓が広がっていた。そして、豊かな森を越えて南下すると、王家の暮らす王殿がある。
その西東の両隣に、王家の親族であり、王族とも別称され、六貴族の中でも最高格の総帥フォルティス家と宰相カンチェラリウス家の執務館が並ぶ。そこから南に下っていくと、西には法務官シエンティア家と行政官コムニア家、東には財務官プロピエタス家と商務官ルスティクス家が連なっている。
各館は二階建てで、主家と従家に分かれ、王宮の外側に向かって、それぞれの専門分野に則した施設が併設されていた。
王宮全体の警備は、王宮騎士団が担っている。
ただし、王議にかける前段階の専門的な会議や、王家の子女のための講義は、執務館で行なう。そのため、王家の警護に当たる近衛騎士団所属でも、王宮全体の位置関係は、正確に把握しておかなければならなかった。
礼を失しない程度にあたりを眺めながら、しばらくは非番と休日返上で歩き回らないといけないな、と思う。地図は完璧に暗記しているが、紙面上と実際の空間では、感覚が異なる。
仕官服を着れば、職務外でもフォルティス家直系嫡子として出入りできるから、地道に探索していくしかない。伯父から課された使命もあるが、やるからには、きちんと務めを果たしたかった。
謁見の間の、背の高い大きな両開きの扉の前に着く。壮麗な木彫りの装飾。いよいよだという気持ちが湧く。
重々しく開く扉を見つめながら、取り乱したことを平身低頭詫びつつ、伯父から切々と頼まれたことを思い出す。
――恩寵の証を持たないとはいえ、御夜の御寵愛を受けたノクサートラ家の者を弑することは、決してできません。
しかし、あの鬼畜で傍若無人な男を、王として戴き続けることには、もう耐えられません。ただ、一連の騒動から、六貴族には、もはや王に進言も諌言もする力は残っていないのです。
王は、真昼の娘を溺愛し、娘の言うことは、どのようなことでも叶えています。立太子すれば、王への発言権が与えられます。甚だ遺憾ではございますが、真昼の娘を懐柔して利用し、王に譲位を迫るよう、差し向けるほかございません。
そして王は、娘は真夜の民だという幻想を見て、卑しい真昼の娘であるとは、決して認めません。殿下が御即位されたのち、娘を殺し、その骸を王に突きつけて、真昼だと認めさせてやりたいのです。
王の言う〈夫婦になった〉行為でできた子ではなく、従家当主ワルターの子であると。狂い慕ったアグネスとは、何の絆もないのだと。
あの卑劣な男の幻想を壊し、真昼の業火に焼かれるに等しい苦しみを、味わわせてやりたいのです。
本来ならば、私が担うべきことと、重々承知しております。しかしながら、総帥という立場上、王家の子女と直接言葉を交わす機会は、成人するまでは、講義の時間のみとなります。
一方、近衛騎士であれば、側近くに仕え、個人的な信頼を得ることも可能でございます。
フォルティス家直系の子息や婿は、近衛騎士団団長を始め、配下の隊に任命されるのが慣例。殿下は、直系当主の嫡子として家系登録されていますから、レガリス隊王女付きに配属となっても、誰も不審に思いません。
卑しい真昼の娘に仕えるなど、正統な王家直系であられる殿下には、大変御不快かと存じます。しかしながら、全ては将来の御即位のため。何卒、御力添え賜りたく――。
扉が開くと、奥に王と王女が座っていた。王妃の席は、空席だった。
病のため欠席すると、広場での説明で聞いていたし、伯父の語った話から無理もないと、特に驚きはしなかった。
前に進み出ながら、隊列が三組に分かれる。王の警護を担うレクス隊、王妃や王の子女を担うレガリス隊――その中でも、王妃付きと王女付きに並んでいく。
全員が配置につくと、王の側で控えていた近衛騎士団団長が、号令をかける。一糸乱れぬ動作で一斉に跪く。
団長の深みのある声が、広大な謁見の間に朗々と響き、従騎士任命式の開始を宣言した。
レクス隊に始まり、レガリス隊王妃付きと続いて、王女付きの番が回ってくる。身分の順だったから、真っ先に呼ばれた。短く答えて、中央に立つ王女の前に進み出る。
跪くと、小さく愛らしい顔に出会う。碧色の大きな瞳と目が合った。ふにゃりと、あどけない笑顔。
王女は今年五歳。フロス街で暮らしていた頃、一緒に遊んだ近所の年下の子達を思い出す。
混血の――様々な色の瞳を持つ、真昼の子供達。可愛いな、と温かい気持ちになる。同時に、遠くで、怨嗟の声が聞こえてくる。轟く声が心を覆い、思考する言葉と重なっていく。
(――幼い頃から接していれば、御しやすい。利用するには、うってつけだな)
後方に控える近衛騎士団副団長が、幼い王女に代わって名を呼び、従騎士に任命する旨を告げた。
「総帥フォルティス家直系が嫡子、フェリックス・クラン・フォルティス。誠心誠意、殿下にお仕えいたします」
口上が終わると、副隊長に促されて、王女が小さな木箱を差し出す。
銀色に輝く徽章。騎士服の立ち襟の左右にひとつずつつけて、所属の隊を示すのだ。王家を表す四つ翼の烏の羽と、王女を表す高貴な青紫の花を象っている。小さな手から、箱を受け取った。
その後、主家傍系の子息達が続き、エルドウィンを始め、従家の子息達が任命されると、王の挨拶をもって、式は終了した。
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