出会い②

あとから考えても、なぜヴィクトリアが自分を婿に選び、結婚に踏み切ったのか、よくわからない。

あの真昼の業火に焼かれるような時間は、まだ十六歳の――成人もしていない少年の心を引き裂くには、十分すぎるほどだった。

旺盛だった欲は一滴もなくなり、周囲の話が聞こえてくるだけで動揺し、涙が溢れた。事情を知っている者達は気遣ってくれたものの、男所帯の騎士舎では避けようはずもない。職務や食事、入浴といった最低限の行動だけで、あとは部屋に引きこもることが多くなった。

鬱屈した日々の中、あのおぞましい記憶を忘れたい一心で職務に打ち込み、気がつけば、叙任して一年と半年ほど経った頃。父から縁談の打診があった。相手はなんと、フォルティス家直系当主の息女だという。

余った男子はフォルティス家に託す。そんな慣習が生まれるほど、男手を必要としている中で、当主には息女一人のみで、嫡子がいなかった。

家を継げず、官職も得られない六貴族の末の子息達にとっては、婿入りして家を継ぎ、総帥の地位を得る千載一遇の好機だ。一体誰が選ばれるのかと、未婚の連中は皆そわそわしていたのに、まさか自分とは。

そもそも、三男で官職にも就けたにもかかわらず、座学を放り出して走り回っているのを父が見かねて、騎士見習いとして兵舎に入ったのだ。これ幸いと励み、なかなか楽しんで、従騎士まで順調に進んでしまった。そんな大ざっぱな自分が、総帥など務まるはずがない。

そして、何より問題なのが、婿の務め――つまり、子を多く為すことが無理になっていたことだった。その行為をしようと考えただけで記憶が想起され、酷い吐き気を覚えた。

父も、事情は重々承知していたから、理解してくれると思ったが、とりあえず会ってみたらどうかと言う。

実は、当主には嫡子がいて、生まれつき身体が弱かったところ、状態が安定して家系登録したため、家を継ぐ必要はないらしい。王族の直系当主の息女の婿という高い身分ながら、重責は負わずに済む。

お前にはちょうどいいだろうと話す親心を、無下にはできなかった。


短い夏が訪れ、汗ばむ陽気の中、顔合わせが行われた。

フロス街では、結婚式は盛大に行われて、街中に披露される。それで、式や宴は何度か目にしたことがあったが、その前に家族だけで会う行事があるとは知らなかったから、物珍しくてわくわくした。

伯母の家から帰ってきたヴィクトリアと挨拶を交わし、応接用の食堂で待っていると、下男が、間もなく到着するとの知らせを持ってきた。クレメンスが席を立ち、出迎えるべく、玄関へと向かっていった。

扉が閉まった途端、ヴィクトリアが、そっと小声で言った。

「大丈夫? こういう場は慣れないでしょう」

実際、かなり緊張していた。もし下手をしたらと考えると、頭が真っ白になっていく。うまく言葉が出ず、曖昧に笑う。

「挨拶して、あとはにこにこしていればいいから。ね?」

青藍の瞳が明るく光る。その優しさの意味を、つい疑ってしまう。

それでも頷くと、ヴィクトリアが少し身をかがめる。父親とは似ても似つかない愛らしい顔が間近になって、鼓動が緩やかに速くなる。囁き声が、鼓膜を打った。

「事情は、お父様から聞いているわ。お母様が亡くなった時、本当に悲しくてつらかった。だから、あなたに何かをしてほしいなんて言わないわ」

はっと目を見つめる。他意のない、真っ直ぐな色。快活な微笑みに形を変えて、明るく光る。

「ずっと、弟か妹がほしかったの。こんなに可愛い弟ができるなんて、本当に嬉しい。よかったら、仲よくしてね」

朗らかな輝きを湛える青藍の瞳。

強ばっていた心が、解けていく。自然と、笑みが広がった。

「はい、姉上」

「あら可愛い。そう、その笑顔よ。あなたがそうやって笑っているだけで、きっと場が和むわ」

真っ直ぐに褒められて、照れて恥ずかしくなる。ただでさえ、年上の女の人が目の前に来てどきどきしていたのに、一気に顔が熱くなる。

ヴィクトリアの楽しそうな声。俯いて、なるべく赤くなった顔が見えないように隠す。

と、扉を叩く音がして、立ち上がる。ヴィクトリアとともに出迎えの位置につくのを見計らって、下男が引き開けた。

クレメンスに続いて、男の人が三人入ってくる。並び立った人達に、ヴィクトリアが引き裾を広げて、優雅に腰を折る。

「ようこそお越しくださいました。総帥フォルティス家直系当主が息女、ヴィクトリア・フルメン・フォルティスでございます。この日を、心から待ち遠しく思っておりました」

ちらりと隣から視線を感じて、口上を述べる。褒められたので、微笑んでみる。

「同じく、直系当主が嫡子のフェリックス・クラン・フォルティスともうします」

雑にならないよう、頭をゆっくり下げる。そして、ヴィクトリアと一緒に顔を上げた。うまく言えて、少しほっとする。

彫りの深い顔立ちの男の人の中で、一番年上らしい人が、シエンティア家直系当主だと挨拶した。それから、次代当主の嫡子と、今回の顔合わせの相手である三男を順に紹介していく。

嫡子が口上を述べたあと、三男が礼をして言った。

「同じく直系当主が子息、ヘンリクス・フルメン・シエンティアと申します。私も、この日を心待ちにしておりました」

淡い微笑。柔らかい声音なのに、どこか冷たさを感じた。初冬に張る薄氷のような、触れたら壊れて、手を切ってしまいそうな危うい何か。薄青の瞳のせいだろうか。

それぞれ席につくと、給仕達が食事を運んでくる。

グラスに注がれる柑橘の果汁に、心が浮き立つ。引き取られて半年余り経つが、たくさんの水で薄めずに飲めるなんて、本当に感動ものだ。

薄い絹の窓掛けから透けた初夏の光に、きらきらと輝く橙色。眺めてから味わっていると、視線を感じた。グラスから口を離し、顔を向ける。青色の瞳と目が合う。当主は微笑むと、クレメンスに向いて話した。

「ご子息は本当に、美しい瞳をお持ちで。どうにも我が家系は、濃い色の者が生まれにくい。やはり、王族のご家系は違いますな」

「先代に、前王の御姉上を御降嫁いただけたことは僥倖でした。その血を色濃く受け継いだようで、喜ばしいことです」

滑らかに穏やかに答えるクレメンスを、そっと見る。愛想よく、淡い微笑みを浮かべた横顔。どうしても、奇妙な感じがする。

「ご息女は、美しく成長されて――奥方様も、御夜みよの御元で、さぞかしお喜びのことでしょう」

当主が気遣うように微笑んで、それからヴィクトリアに告げる。

「我が家は男子ばかりですから、娘ができると、妻も喜んでおります。どうぞ母と思って、接してやってください」

「なんて嬉しいことでしょう。お会いする日を、楽しみにしておりますわ」

明るく朗らかな笑顔。心から思っているのだとわかる表情で、見ているだけでほっとする。戸籍上、家族と呼べる人がクレメンスとヴィクトリアしかいない中で、安心できる人がいるのは、有難いことだった。

それから、大人達の会話を横で聞きながら、普段よりも豪華な食事を味わった。時折向けられる当主の視線に嫌なものを感じたが、主菜が大好物の牛肉で、その香ばしい匂いを嗅いだ途端、違和感はあっという間に吹き飛んだ。

次に会話に参加したのは、食後の菓子が供される頃で、騎士という単語が聞こえたからだ。

思わず割り込んで尋ねると、ヘンリクスは、近衛騎士団レクス隊所属の近衛騎士だということだった。憧れの騎士が目の前にいると知って、一気に心が浮き立つ。

「お……ぼく、りっぱな騎士になりたいんです! だから、来年の春が本当に楽しみで。近衛のお仕事って、どんなことをするんですか?」

一瞬、おれと言いそうになって詰まったが、大人達は気にならなかったようで、にこにこと微笑んでいる。

弾んだ気持ちで見つめていると、静かな低い声が返ってきた。

「私はレクス隊で、陛下の警護を担っています。……申し訳ありませんが、あまり話せないのです。それに、総帥であるお父上の前で、私の話など、御夜に世界の理を説くようなもの。期待に沿えるものではないかと」

謙遜した柔らかな微苦笑。しかし、薄青の瞳は、冷たい氷のように凍てついていた。何がヘンリクスをそうさせるのかわからなかったが、あまり触れてはいけないと思って、謝って礼を言い、笑って誤魔化した。

それから、食後の喫茶が終わると、父親達は書斎に、ヴィクトリアとヘンリクスは中庭に散っていった。そして、嫡子と二人、残された。

同じ六貴族の次代当主同士で仲を深めろということらしいが、歳が離れすぎていて、何をすればいいかわからない。

困っていると、身体を動かすのは得意でないと言うので、札遊びを提案した。嫡子の了承を得てハンナも参加し、珍しく人数が揃って、いつもより楽しく遊べた。


「申し訳ありませんが――この縁談、お断りしたく思います」

中庭の東屋に着いて、座った途端に切り出す。さして驚きもせず、問いが返ってくる。

「……どうして?」

「私は、あの場にいました。……お父上と、同じように」

先刻まで明るく輝いていた青藍の瞳が、暗く沈む。

詳細な状況はさすがに秘されたが、王が結婚に至った経緯は、一連の騒動で王宮中に広まっていた。おぞましい光景が頭に過りそうになって、息を詰める。

ゆっくりと吐き出しながら、言葉を継いだ。

「あの記憶のせいで……私は、マニュルムに通えなくなりました」

〈仮初めの奥方〉すら受けつけない心身。不義理と思って、〈離縁〉した。最後に女を抱いたのは、いつだったか。

こんなことを、成人してまだ三ヵ月しか経っていない未婚の女人に伝えなければならないとは。自分の情けなさを恥じる。両手を腿につき、頭を深く下げた。

「……ですので、私は」

婿の務めを果たせません。

そう言おうとした時、そっと肩に触れる感触がした。はっとして顔を上げると、愛らしい少女の顔が、泣きそうに歪んでいた。

「どうか、自ら傷を抉るようなことをしないでください。私は、あなたがいいと思って、父に縁談をお願いしました。あなたに、来ていただきたいのです」

「……どうして……」

呆然として呟く。

会ったのは、今日が初めてだ。いつ、自分を選ぶきっかけがあったというのか。

「以前、父が、密かに騎士舎に連れていってくれたことがありました。父は、好きな男を選べと。その時にあなたを見て、あなたがいいと思ったのです」

一体いつだと記憶を巡らす。男しかいない騎士舎において、こんな可愛らしい少女が紛れていれば、かなり目立つはずだ。総帥は、どんな手段を使ったというのか。

「いや、しかし……そんな、一目見ただけでしょう」

「どうしてかしら――でも、あなたがいいの」

青藍の瞳に灯る、つよく明るい光。十五歳になったばかりの少女とは思えない、凛とした表情。

「お願い、ヘンリクスさん。私と、結婚してください」

これほど乞われて、断れるはずがなかった。

結局、父に承諾の意を伝え、騎士舎から総帥の屋敷に居を移して、晩秋に式が行われた。しかし、当然うまくいくはずもなく、恐慌を来して声を上げて泣くという醜態を晒して、初夜は終わった。

二十歳までの期限付きとはいえ、上官である義父と暮らしながら、婿の務めを果たせない日々は、鬱屈した心をさらに沈ませた。何より、書類だけの妻だということに頓着していない様子のヴィクトリアを見ていると、自分よりずっといい婿がいただろうにと、酷く苛まれた。

そんなどん底の状態で、小さな子供に優しくする余裕はなかった。フェリックスからしたら、相当冷淡な奴に映っただろう。

春に騎士見習いとして兵舎に入ったから、ともに暮らしたのは数ヵ月だったが、近衛騎士団団長と従騎士になって再会した時の緊張ぶりに、可哀想なことをしたと、心の内で苦笑した。打ち解けるきっかけがあったことは、思いがけない幸いだった。

結婚してから一年が経った頃、本当の意味で夫婦になれた。明るく朗らかなヴィクトリアとともに過ごすうちに、不思議と触れたいと思うようになったのだ。

嬉しいと泣きながら腕に収まる妻を見て、これ以上の幸福などないと涙した。

おぞましいあの記憶の呪縛が解けたか否か。そこで明暗が分かれるなど、その時は想像もしていなかった。

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