真冬のひと

夏の太陽が、容赦なく照りつける。家と呼ぶには、あまりに粗末な板張りの小屋が立ち並ぶ道を、ゆっくりと歩く。

珍しいほどの強烈な暑さに、さらに精気を吸い取られ、うなだれる人々。むっとする臭気に耐えながら、目的の家を目指す。手の者に事前に調べさせていたから、迷うことはなかった。

あばら屋の前、半ば崩壊した玄関の階段に座る、男の正面に立つ。気配を察して、緩慢に上げた顔を確かめる。

「君が、ウィリアム・ハワードか」

不思議なものを眺めるように、ゆっくりと首が傾ぐ。酒で枯れた声が、耳障りな音を立てる。

「お前、誰だ?」

髪と瞳の色がよく見えるよう、深く被った頭覆いを少し上げる。青緑の双眸が、驚きに瞪る。

「あなたは……」

改まった口調に、軍の教育の堅固さを感じる。腐っても兵士なのだ。やはり使えると確信して、静かに口を開く。

「君の力が必要だ。私についてこい」

踵を返して歩き出す。

手にしていた酒瓶が転がる、硬い音。控えるように後ろをついてくる気配を感じながら、貧民街をあとにした。


ペクニア街の東端に位置する金融商店。その二階の執務室で、男を待つ。

木製の扉の叩く音がして、傍らに控えていた従僕が、引き開ける。

隣の街区の公衆浴場に向かわせて、身綺麗になった男が現れる。はっと息を呑み、流れる所作で跪いた。身分の高い者に対し、平伏ではなく、片膝をつくだけで事足りる違いに、心が微かにざらつく。

執務机を挟んで見下ろしながら、静かに口を開いた。

「私は、とある六貴族の従家の当主だ。ある目的のために、元兵士である君の力を借りたい。衣食住は全て保証し、当商店での警備兵の仕事も与えよう」

「畏れながら、ご当主様。目的とは何でしょうか」

先刻とはうってかわった、明瞭な声。まさか問われるとは思っていなかったので、いささか驚く。

しかし、確かに、共通の認識を持たなければ、数多ある部隊を統制することはできない。策謀に長けた己の家との価値観の差を感じながら、淡々と答える。

「それを知るにはまだ早い。これから、他の兵士達も出所する。その者達を束ね、兵士長として十分にやっていけると判断した時に教えよう」

青緑の双眸が、真っ直ぐに見つめてくる。そしてふと、従僕の顔に目を向けると、考えをまとめるように、視線を落とした。

「――わかりました。あなたを信じましょう」

感情が薄いながらに、青緑の双眸が、強い光を宿す。畏れず憚らない目を見つめ返すと、はっきりとした声が、言葉を紡ぐ。

「あなたの――そして、そちらの方の髪と瞳の色を見れば、嘘でないことはわかります」

満足に思って頷く。

〈暁の家人〉は、真夜の民にとって、混ざり物の瑕疵ある存在である。それゆえ、公にはされていない。

しかし、金銭の受領など、信用が重視される時の使者に、〈暁の家人〉を選ぶ従家は多い。下賜されてもなお、出自を誇りとしている者が多く、悪心を抱くことが稀であるためだ。

調べによれば、男の生家は、ペクニア街でも有数の金融商人だという。それゆえに、知っていると踏んでいた。

契約書を提示するよう、目顔で指示する。従僕が、執務机の前の低い卓に書類を置き、内容を確認して署名するよう、男に案内した。

「――失礼いたします」

男は断って立ち上がり、ソファに座った。

契約書を一読すると、筆記具を取って、署名する。迷いなく走る、目線と手蹟。教養の高さを察する。いい拾い物をしたと、内心で微笑んだ。

従僕から、自宅となる家の住所と鍵、そして、兵服を始めとする装備一式を受け取って、男が部屋を辞す。

扉の閉まる音が響き、静けさが、あたりを覆った。

「いよいよ始まりましたね」

控えて立つ従僕が、落ち着いた声で言う。普段、感情をほとんど動かさない男の、珍しく、微かに熱を帯びた声音。振り仰いで頷く。

「ああそうだ、クラウス。これからが、我らの本望を果たす時だ」

「姉の受けた恥辱を、片時も忘れたことはございません。あの男が死に、ご息女が御即位なされれば、姉の苦痛も、少しは晴れるでしょう」

濃青の双眸に、憎しみの炎が閃く。

下賜されて以来、姉弟ともに、本当によく尽くしてくれた。

特にクラウスは、父親の謀略が全ての元凶だと恥じ、コンシリウム家に忠誠を誓って、この計画に心血を注いでいる。ここまで滞りなく進んでいるのも、この頭の切れる男の献身があってこそだ。

「歪められた全てを正し、御夜の御意思を叶えようぞ」

「――御意の通りに」

恭しく応じる、落ち着いた低い声。

猛りすぎた夏の強烈な日差しが、栗色の短い髪を透かして、金茶色に輝かせる。同じように煌めく、愛するひとの長い髪の香りを思いながら、来るべき時に、胸が脈打つのを感じた。


晩夏の明るい日差しの降り注ぐ居室で、侍女の温かな声が響く。

「御誕生日おめでとうございます、殿下。ささやかながら、贈り物でございます」

「まあうれしい! 何かしら?」

膝をついて差し出す侍女の手から、包みを受け取る。低い卓の上に置いて、丁寧に開く。

油紙特有の乾いた音。抜けるように鮮やかな青が、目に飛び込んでくる。端を持って掲げると、銀糸の刺繍が美しい上衣だった。

「きれい……」

精緻な紋様に感嘆する。控えて微笑む侍女達を見上げる。

「これ、あなた達が?」

「はい。殿下付きの侍女の皆で、針を入れてございます」

改めて、じっくりと眺める。

刺繍だけでなく、切り返し部分の紫や橙が差し色になっていて、趣味がいい。どの内着と帯を合わせたら素敵かしらと、心が躍る。

幸福に満ちた気持ちで、一人一人を見つめる。藍や青、翠などの、様々な色の瞳。いつも慮り、気を配ってくれる優しい人達。

「ありがとう。大切に着るわ」

「もったいない御言葉、痛み入ります」

恭しくこうべを垂れる、優雅な所作。笑顔で頷きながら、紺青の瞳を思う。

(……フェリックスが、いてくれたらいいのに)

抱き締めて、頭を撫でてほしかった。あの心地よい低い声で、おめでとうと言ってほしかった。

しかし、今日は休日だ。当番は、身分や職能を鑑みて決定される。越権して我がままを言えば、皆に迷惑がかかってしまう。

何より、フェリックスには、直系嫡子としての務めがある。その上、先日レガリス隊隊長への昇任が内示されて、年明けに向けての準備で、通常よりさらに忙しいのだ。

休息がなければ、当然、職務に支障が出る。

近衛騎士として、疲労を見せるような稚拙な真似は決してしないが、本調子でないと感じることが、時折あった。そういう日にたっぷり甘えると、張り詰めた表情が、ほっと緩む。そして、いとおしむように、優しく穏やかに微笑むのだった。

他の人は気づかない、ほんのわずかな変化。差が大きい時ほど、無理をしているのだと知って、職務外で会いたいとねだることは、少なくなっていった。

明日着るからと、侍女に揃えの用意を指示して、上衣を渡しながら、淡い願いが浮かぶ。

(みんなに、抱きしめてと頼んだら……)

とても困るだろう。

ただでさえ、〈暁の家人〉は、真夜にも真昼にも属せない繊細な立場なのだ。危ない橋を渡らせるわけにはいかない。どんなに甘えたくても、主君と侍女という分厚い壁は、決して壊すことのできない厳然とした決まりだった。

生まれた時から仕えてきてくれた人達。優しくて、大好きな人達。

それでも、大きな手のぬくもりがほしかった。いとおしんで、慈しんでくれる笑顔が見たかった。

(フェリックス――離れないって、言ったのに……)

誓いなんて、約束なんて嘘だと、けたけた嗤う声が、頭の中で響く。

視界がおもむろに滲んできて、慌てて目の前の菓子をつまんで、茶に口をつける。

蜂蜜入りの焼菓子の甘みが、こくのある茶に乗って、喉を滑り落ちていく。心が平らかになるよう集中して、茶器で揺らめく濃褐色を眺める。

落ち着いたところを見計らって、二人の侍女に声をかける。他愛ない話題で談笑しながら、心の渇きを、虚ろな気持ちで見つめた。


腰が、背中が、痛い。激しい打撃ひとつひとつに悲鳴を上げ、謝罪し、許しを乞う。

喜悦に高揚した嗤い声が、こだまする。せめて腹だけは死守しなければと、きつく背を丸めて、腕を抱える。

しかし、背骨に強い衝撃が走って、反射的にのけ反ってしまう。待ってましたとばかりに、腹に容赦なく蹴りが入る。

激しく咳き込み、堅い石の床を転がる。髪を掴まれ、引き上げられて呻く。爛々と光る、群青の眼。

「お前みたいな下賎な真昼の娘に、御夜の雫が垂らされるとでも思ってるのか? 穢れた腹から生まれてきたくせに!」

「ご、ごめんなさい……」

混乱した頭で、ようやく絞り出す。途端、さらに頭に強い痛みが走る。間近に、凄まじい形相の顔が迫る。

「ああ? 口の利き方を忘れたのか?」

がたがたと震えながら喘ぐ。あまりの苦痛に、思わず目についた布を掴んでしまう。

「汚い手で触るなッ!」

視界が大きく横に振れる。腰と肩を、したたかに床に打ちつける。腹を押さえながら、必死に乞う。

「申し訳、ありまっせん……! おっしゃる通りでございますっ……下賎なわたしを、どうかお許しください!」

群青の瞳をひたすら見つめる。強烈な侮蔑の色。察して力を振り絞り、戦慄きながらぬかづく。

ぎりと、頭に靴底の硬い感触。愉快げに嘲笑う声。

「今日のところは、これで許してやる。また自分が誰か忘れたら、どうなるかわかってるよな?」

「……はい……ありがたく、ご指導を頂きます……」

頭から重さが消える。最後の気力を吐き出す。

「本日は、卑しいこの身にしつけを授けていただき、心から……感謝、いたします」

鼻で嗤う声がしたあと、靴音が遠ざかっていく。耳を澄ませて、完全に消えるのを待つ。

しばらくして、ようやく上体を起こす。へたり込んだまま、ぼんやりと、回廊の屋根に切り取られた、晩夏の薄い空を眺める。

遠く、駆ける靴音と呼びかける声が、聞こえてくる。緩慢に首を巡らせて見遣ると、近衛騎士と従騎士が現れた。

――陽光に輝く、金色の髪。

(ねえ、どうしていないの、フェリックス――どうして……)

跪いて謝罪する二人に頷く。ゆっくりと立ち上がって、衣服の汚れと髪の乱れを確認してもらう。

背を向けて待っている間に、埃を払って整え、手で撫でつけて誤魔化す。

こんな子供騙しなどと、虚しく思う。侍女頭や侍女達は、何かあったと察しているだろうが、こちらから発しない限り、行動してはいけない立場だ。

父を恐れての配慮。仲のよい妹の子息を告発して、逆鱗に触れれば、それこそ王宮を揺るがす大騒動が起きる。

状況を共有できれば、確かに心強いが、カンチェラリウス家は、〈暁の家人〉を一族の恥だと排他的に見る。そんな苦境にある人達を、巻き込みたくはなかった。

最後に自分でも確認して、二人に声をかける。

「……さあ、済んだわ」

向き直って、そっと促される。後ろに控えて歩く、ふたつの気配。

振り返ったところで、そこにはいないのだ。滲んだ涙を拭って、居室までの長く遠い道のりを歩いた。


        *


晩秋の柔らかな光が、大きく切られた窓から降り注ぐ。

直接日の当たらない場所に座って、黙々と針を動かす。一気に真っ直ぐ糸を引き、最後は、盛り上がりが出るように緩やかにする。

木枠を嵌めて張った布には、色とりどりの絹糸が隙間なく縫われ、美しい景色を浮かび上がらせていた。贈る相手を思い浮かべながら、丁寧に一目一目、針を刺していく。

この冬、フェリックスは二十歳になる。そして今月の初め、年明けの昇任が、正式に発表された。

喜ばしい門出に、祝いの品を贈りたい。そう思って、手作りすることにしたのだ。小物類だと気を遣わせてしまうので、部屋に飾れる小さな絵にした。

冴えた満月が、雪降る真冬の木立を照らす図案。

漆黒の神が命を吸いきって満ちた月は、生命力や力強さの象徴だ。そして、真冬の深い夜空は紺青で、まさに優しく見つめてくれる瞳の色そのものだった。

王女の務めとして、様々な分野の講義を受ける合間の作業だったから、遅々として進まず、気が急いたが、だいぶ形が見えてきた。年明けまであと二ヵ月余り。この調子なら、問題なく完成するだろう。

(喜んでくれるかしら……)

優しく穏やかに微笑む、端正な顔を思い浮かべる。世辞ではなく、きっと心から嬉しく受け取ってくれるだろう。

誓いを立ててくれたあの日から、五年半。

狂った父と病んだ母。真昼の娘と蔑む、周りの視線。寄る辺なく孤独だった自分に、惜しみなくぬくもりを与えて、慈しんでくれた。

その人が、初めて長となって部下を持ち、一人前の近衛騎士として、職務に当たるのだ。我が事のように嬉しかった。

しかし、一方で、心に巣食う悪意が、不安を掻き立てる。

(……わたしを心から思って、守ってくれる人なんて……だれもいない……)

けたけたと嘲笑う声。容赦なく振り下ろされる脚。どんなに待っても来ない警護。

骨を食むような虚ろの中で、紺青の瞳を思う。どうしてと縋りながら、やはりまやかしなのかもしれないと、絶望に沈む。

それでも、あの優しい笑顔を見ると、温かな安心が欲しくなって、また広い胸に飛び込むのだ。まるで、抜け出せない迷路のように、日々を繰り返している。

(頼っていては、だめなのに……)

軍事や警護の講義で、統率が取れてこそ、組織の力が発揮できるのだと学んだ。規律は絶対で、たとえフォルティス家直系の嫡子といえども、遵守が求められる。

そして、実力がなければ、指揮は執れない。身分上、昇任が早い分、より厳しく容赦なく鍛えられる。剣術の試合で、同期において一二を争い、年長者にも引けを取らない成績を誇るのは、そうした背景があるからだ。

さらに、部下を導き指揮するには、様々な経験が必要である。多くを学ばなければならない従騎士の時を、叙任してからの大切な数年を、棒に振るわけにはいかない。重要な人材を、一時の感傷で失うわけにはいかないのだ。

それでも、ヘンリクスが接触の許可を交渉してくれたおかげで、主従という立場からは非常識といえるほど、密接な関係を築いている。

真っ直ぐな気質のフェリックスのことだ。きっと、誓いを守りきれないことを苦しんでいるにちがいない。

それとも――懐く自分を見て、身の程を知らない真昼の娘だと、蔑んでいるのだろうか。

図案が滲む。手を止めて、浮かんだ涙を指先で拭う。

(ばかなこと……きっと、他人の空似よ)

空想は所詮、空想だ。そうは思っても、疑念は悪意に縫い留められて、離れない。

なぜ名乗り出ないのか、どんな事情が、思惑があるのか――自分はいつ、不要なものとして殺されるのか。

(もういっそ死にたい……御夜の御元にかえりたい……)

憎悪され続けてきたこの身が、火葬されずに済むとは思えなかったが、たとえ無になるとしても、生まれる前から、ずっと必要とされなかったのだ。むしろ、似つかわしくさえ思えた。

そして、空想が真実なら、手を下すのは、神の寵愛を受けた王家の嫡子だ。

二階から身を乗り出して、夢中で観戦した評価試合。芯に鉄を仕込んだ重い木剣を、軽々と扱う膂力。鋭い斬撃。鋼のように唸り閃く。

――あれが、真剣だとしたら。

(あの剣で死ねるなら――もう、それでいい……)

優しく呼びかける声。蔑み嘲笑う声。穏やかに微笑む顔。喜悦に歪む顔。紺青が霞み、群青が、悪意を連れてやってくる。死を希求する思いが、胸を食む。

いつの間にか、手元が見えづらくなってきた。侍女達が、壁に備えつけられた灯りをつけて回っている。

硝子越しの炎に光る絹糸。真冬の夜空の、美しいその色。

頭をひとつ振ると、無心に針を刺していった。


        *


雪のちらつく日が増えていき、本格的な冬の訪れを感じる頃。王宮のみならず、王都中が、浮かれた気分に湧き立ち始める。

漆黒の神の長座を祝う冬至祭りは、一年の中で、最も大切な行事だ。冬至を最終日として、一ヵ月間行われる。

秋が終わり、寒さが一段と進むと、商店では、祭りの飾りと食料品が売られ出し、人々は、きたる祝いの時のために、準備を始める。

月の満ち欠けを象った吊り飾りや、銀糸の刺繍の壁掛け、期間中の食卓を彩る保存食と菓子づくり、などなど――階級により質と量の差はあれど、家庭を取り仕切る妻達は、大忙しになる。

騎士舎の食堂でも、祭りの間だけ供される献立に、様変わりする。飾りの銀色の冴える中で食事をしていると、尊い親のかいなに包まれているような心地になる。

騎士舎や兵舎では、過度な装飾は禁止されているから、一面銀色に染まるのは、食堂だけだ。その分、部屋の扉に吊るす飾りには皆、気合いが入る。個性豊かな銀色を眺めながら、宿舎の廊下を歩くのが、毎年の楽しみだった。

祭りの折り返しの日、誕生日を迎えて、二十歳になった。

共用の広間で、口々にかけられる祝いの言葉に応えつつ、親友と談笑していると、宿舎には珍しい人物が現れた。

年若い騎士達に、薄く緊張が走る。わざわざ人が悪いと、内心苦笑しながら、立って出迎える。

「――うえ。こんな時間に、どうされたんですか?」

「祝いの品をな。さすがに、これは職務中に渡せんから」

掲げると、たぷんと軽い水音が鳴る。

切子細工の色硝子の瓶。酒だと気づいて、納得する。

「おめでとう。これでお前も、一人前の仲間入りだな。期待しているぞ」

「ありがとうございます。励みます」

酒瓶を受け取って、明るく笑む。

ようやく、長い見習い期間が終わったのだ、という実感が湧く。

叙任して三年。ひたすらに、主家直系嫡子の立場に恥じない騎士になろうと、努めてきた。

騎士見習いから従騎士の下積みを経て、成人してもなお、力の及ばない歯痒さ。欠けてこぼれ落ちていくものを掻き集めて、必死に抱き締めて温めてきた。

年の明けた来月には、レガリス隊隊長に任ぜられる。書類仕事が増えるが、代わりに当番は、側仕えが主になる。

甘えて見上げる、碧色の瞳を思う。

(やっと、傍にいられる……)

職務なら、呼び出しがなくても、顔を合わせられる。存分に、我がままを叶えられる。成長して、気遣いを覚えてしまったいじらしさが、ずっと苦しかった。

肩に手が置かれて、我に返る。穏やかに微笑む薄青の双眸と、目が合う。

「今まで、つらかっただろう。隊長の職責は重い。だが、お前なら、きっとうまく両立できる」

「義兄上……」

導かれてきた道のりが、深い感慨となって、温かく胸に広がる。

いつもの軽妙な笑顔。手が伸び上がって、ぐしゃぐしゃと、髪を乱雑に撫でられる。

「全く、気がついたら、こんなに大きくなりやがって。図体に見合った働きをしろよ」

「気がついたらって――俺が従騎士の時にはもう、同じくらいでしたよ」

あえて得意げに笑う。すると、ぺしっとはたかれた。全く痛くないのだが、ふざけて大げさな動作で頭を押さえる。

「あんまり生意気を言うと、それ取り上げるぞ」

「嫌です、勘弁してください」

離すものかと、瓶をしっかり抱える。しかめた顔が、ふっと緩み、肩を軽く叩いた。

「まあ楽しめ。最初から飛ばして、醜態を晒すなよ」

微笑んで、もちろんと頷くと、ヘンリクスが踵を返す。数歩のあと、

「――ああ、それから」

振り返って、エルドウィンを指差した。

「お前は、まだだめだぞ」

「ええ、冬が終わるまで我慢します」

穏和に微笑む秀麗な顔。一連のやり取りが、笑いの琴線に触れたのだろう。目尻に涙が浮かんでいる。

ヘンリクスは、軽快な笑みを浮かべると、ひらひらと手を振って、去っていった。


夜中のうちに降った雪が音を吸って、しんと静まり返った真冬の朝。

食堂に向かうべく、寝巻きから私服に着替えて、衣装棚の上に置いた刺繍画を眺める。

銀糸で象られた満月が煌々と冴える、真冬の夜の森。誕生日おめでとう、と幸せいっぱいに笑う愛らしい顔が浮かぶ。いとおしさに、心が温まる。

まさか贈り物があるとは思っていなかったから、包みを差し出された時は、本当に驚いた。この上ない喜びに、思わず規律を忘れて、自分から触れそうになって慌てた。

察して寄ってきたアメリアを、目一杯抱き締めて、言葉では表し尽くせないほどの幸福を味わった。

濃茶色の額縁を、そっとなぞる。

朝食のあと、身支度を整えて騎士服に着替えたら、側仕えの当番だ。

今日はどんな話をするのだろう。午前は、行政官の講義があるから、その感想かもしれない。

和やかな気持ちで想像を巡らせながら、扉に手をかけて、自室をあとにした。

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