戦略的逃亡

麗らかな晩春の風が、穏やかに渡っていく。風上から、少女と年若い娘達の楽しげな声が、聞こえてくる。

刈り揃えられた、芝生の明るい緑。厚織りの絨毯を敷いた上に、折り畳み式の椅子を置いて、お喋りしながら刺繍をしている。華やかな光景を、少し離れたところから眺める。

一点に集中しないよう、意識を分散させながら、何か引っかかるものがないか、気を配る。従騎士の頃は、心があらぬ方向に飛んでいったものだが、叙任して一年半経った今では、さすがにそんなこともなくなった。

そして今、かつての自分と同じように、気が散っている従騎士が、隣にいた。意識の端で様子を見ながら、注意すべき点がないか確認する。

二週間前、指導役に加わるよう、命が下った。成人しているとはいえ、二十歳にもならない若輩者の自分が任ぜられたのは、フォルティス家直系の嫡子だからだ。

近衛騎士団配下の隊長や団長を歴任し、やがて総帥となる身分。そう遠くない未来に、レガリス隊を預かることになる。この采配は、部下を導き、指揮する力を養え、ということだ。驕らず、多くを学ばねばならない。

そんな真面目な気持ちでいるのに、この従騎士は、実に呑気に、アメリアと侍女達の様子を眺めている。

「楽しそうですね――」

「……アドルフ、職務中だぞ」

広げた意識はそのままに、抑えた声で注意する。

エルドウィンとよく似た顔の、しかし兄とは違う、気の緩んだ表情。

この春に後期課程に進み、今は側仕えの警護の基礎を学ぶ大切な時期だ。わかっているだろうに、心持ちが理解できなくて、苛立ちが募る。

見知った相手ならやりやすいのでは、という配慮だろうが、正直かなり扱いづらい。肩肘張らない気軽さが、完全に裏目に出てしまっている。個人的に好ましく思うのと、指導役として接するのとは、全く別物なのだと痛感する。

「でも、何か起こる気配もなさそうですし――お腹減りましたし」

思わず、心の中で苦笑する。

この年頃は、やたら眠いし腹が減る。心身が成長している証拠だが、正直、警護には向かない。男が、女よりも成人が二年遅い理由なのだろう。半端な心身では、足手まといなだけだ。

それでも、律すべきところは締めなければ、互いのためにならない。声は抑えながらも、少し怒気を含ませる。

「いい加減にしろ」

視界にアメリアを入れたまま、アドルフを見遣る。少し面倒臭そうな顔。完全に、公私が混ざってしまっている。どうしたら、うまく伝わるだろうかと、考えていると、何かが引っかかった。

視線を向けて、その違和感の正体に、顔が険しくなる。

回廊を歩く、痩躯の少年。遠くアメリアを一瞥し、不遜な態度で、こちらに向かってくる。

見下ろして、低く問う。

「何の用だ、ユリウス」

「おまえが、今ここにいるってことは、午後はたっぷり楽しめる――と思ってさ」

言い様に、怒りの炎が揺らめく。挑発に乗るまいと、心を保つ。

隣で動く気配。すかさず腕を掴んで、制止する。相手にするな、と目顔で示す。悔しそうな、もどかしそうな顔。ユリウスの笑みが深くなる。

「そうそう。真昼はそうやって、真夜に従っていればいいんだ。従家は、ちゃんとしつけないとね」

「このっ――」

アドルフが、一歩出ようとする。腕を強く引く。

今は警護中だ。優先すべきは自分達ではない。腹に力をこめて、重々しく警告する。

「用がないなら、さっさと失せろ」

馬鹿にしたように鼻を鳴らして、回廊に戻っていく。そしてふと、振り返った。

「そういえば――あの日のあと、面白いことを言ってたな。フェリックスは守るって誓ってくれた、だから助けてくれるもの――だったか」

息を呑む。せせら笑う群青の瞳。愉快に、ねぶるように、侮った声。

「だから、いつも教えてやるのさ。助けになんて、絶対に来ない。下賎な真昼の娘を守るやつなんて、いるわけがないってね」

鋭い痛みが胸を貫く。アメリアの気持ちを思うと、たまらなかった。言い返せずにいると、嘲って、けたけた嗤う。

「絶望に落ちていく、あの顔は最高だね。楽しみを増やしてくれるなんて、感謝しかないよ」

そして、手を軽く上げると、今度こそ去っていった。

アメリアの方に向き直る。完成したのか、掲げて侍女達に見せている。

溌剌とした笑顔。自分の手の届かないところで、欠け落ちていくもどかしさ。

己の無力を恨んでも、何の解決にもならない。従騎士の頃、ヘンリクスが諭した通り、日々努力するしかないのだ。

空を仰いで、太陽の位置を確認する。もうだいぶ高い。腰に提げた小さな革製の鞄から、時計を取り出そうとする。と、隣でぽつりと声が落ちた。

「……次代様は、悔しくないんですか」

一瞥するが、答えずに時計を見る。指導すべき従騎士に――親友の弟に、無力さに喘ぐ心の内など、吐露したくなかった。

「そろそろ時間だ。――行くぞ」

昼食時だと知らせに、歩き出す。不承不承ついてくる気配を感じながら、付長に報告しなければと思った。

それが、回り回って団長に届き、あんな珍事が起きるとは、その時は微塵も想像していなかった。


荒い吐息が混ざり合う。身体が、燃えるように熱い。汗が、とめどなく伝い落ちる。新緑の瞳と、視線が絡み合う。白い喉。馬乗りになり、木剣の丸い切っ先を突き立てて、静止している。

つい先刻までの激戦が、嘘のような無音。永遠のようで、一瞬の時が流れる。

「――そこまで!」

鋭い声を境に、膜が弾けたように、周囲のざわめきが一気に戻ってくる。

横にどいて立ち上がると、手を差し伸べ、しっかりと握り合って引き上げる。試合の時とはうってかわって、穏和な笑顔があった。

「あーあ、負けちゃった。せっかく、先月は勝ったのに」

「残念だったな。そう簡単に、連勝なんてさせるか」

勝ち誇って返す。片腕で抱き合って、背中を軽く叩き、互いの健闘を称えた。

近づいてくる副団長を認めて、並び立つ。

月に一度の評価試合。各期の成績優秀者のみで行われ、従家直系の当主から、直々に講評を受けられるのだ。おのずと緊張が走った。

明緑の瞳に、ひたと見つめられて、さらに姿勢を正す。静かだが、厳しい口調が語る。

「フェリックス。君は膂力に頼りすぎだ。だからそうやって、無駄に体力を消耗する。もっと、引くことを学びなさい」

はい、と声を張って答える。秀麗な顔が、隣に向く。親子の情は一切排除した、厳格な評価が下される。

「エルドウィン。力に目が眩んだ者は、力に溺れる。己の身体の特徴をよく把握しなさい」

同じように返事をする。頭をきっちり下げ、礼を述べる。副団長は頷くと、次の試合のために戻っていった。

顔を上げて見合わせる。気が緩んで、自然と笑みがこぼれた。

二階の張り出した回廊の下、影干し台に、革製の防具を置く。それから水場に行くと、井戸の柄を押し下げた。何度か上げ下げを繰り返すと、しばらくして、太い蛇口から、勢いよく水が出始める。木桶にたっぷりと溜め、たらいに移して、エルドウィンに渡す。

固く叩いた綿を裏打ちして縫い合わせた稽古服と、長袖の綿の肌着を脱いで、井戸の柄にかける。

汗ばんだ素肌に、晩春の滑らかな風が心地いい。男しかいない騎士舎だ。咎める者は誰もいない。エルドウィンも同じように脱いで、濡らした手ぬぐいで、身体を拭いている。

自分とは、性質の異なる体躯。副団長の言葉を思い出す。

フォルティス家を剛とするなら、エクエス家はまさに柔である。頑健で筋骨逞しい者の多い前者に比べると細身だが、しなやかで引き締まった体躯をしている。戦い方は、優美で華麗だ。少しでも気を抜くと、俊敏で隙のない鋭い動きに翻弄される。

しかも、エルドウィンは、エクエス家次代当主として、父親の技をしっかりと受け継いでいる。同期において、他に勝てる者はいなかった。だから、常々不思議だった。

「何も、俺の戦い方を真似しなくてもいいのに」

「そうなんだけど……やっぱり憧れるよ。強さの象徴のようなものだから」

苦笑する秀麗な顔。身体に注がれる、羨望の眼差し。ほんの一瞬、違う感情が閃く。

「……そういうものか」

その意味に思い至りかけて、何気なさを装うように、腰をかがめて、木桶の水をひっ被る。

爽快な、井戸水の冷たさ。用意していた大判の手ぬぐいで、そのまま乱雑に髪を拭く。

と、駆け寄ってくる、軽やかな足音。怪訝に思って身を起こす。そして、

「フェリックス!」

決しているはずのない、愛らしい少女の姿にぎょっとする。あまりに予想外の事態に、固まってしまった。

防ぎようもなく、そのままいつものように、胸に軽い衝撃が来る。それから、いつもとは違う、胸に柔らかい頬の当たる感触と、背中に触れる手の感触。昼日中の生々しさに、頭が真っ白になる。

しかし、肌が触れ合うのは閨事の時であることを、アメリアは知らない。いつもの調子で――むしろ、直に触れられたのが単純に嬉しいのか、きらきらした瞳で見上げてくる。

「試合を見たのよ! 本当にすごかったわ! あなたが勝つと思ってたけれど、それでもはらはらするものね」

相手は子供だ。何の情念も湧かないが、意味をわかっているだけに、子供相手だからこそ、この状況は嫌だった。かといって、拒めば、事情を知らないアメリアは、酷く傷つく。午前中の出来事が頭を過って、躊躇いが生じた。

黙っていると、徐々に輝いていた顔が曇り始める。不安そうに揺れる、碧色の瞳。我に返って服を着たエルドウィンに、稽古服を渡されて、せめてと羽織る。

「……フェリックス……?」

不安を埋めるように、細い腕に力がこもる。言葉が見つからない。そもそも、なぜ騎士舎にいるのか――。

背後で足音がする。振り向けば、副団長の姿があった。次の試合は、早々に決着がついたらしい。困り果てて秀麗な顔を見ると、微苦笑して頷く。そして、膝に両手をつき、目線をアメリアの高さに合わせて、優しく諭した。

「殿下、フェリックスを離してやっていただけませんか。断りなく肌に触れられるのは、相手が誰であれ、決して好ましいことではございません。御自身が嫌なのではなく、そのことに困っているのです。――おわかりいただけますね?」

少し泣きそうな顔。こくりと頷いて離れる。心底安堵して、手早く服を着た。

「ごめんなさい……」

申し訳なさでいっぱいの声。碧色の大きな瞳が、潤んで揺れている。さすがに大丈夫とは言えなくて、曖昧に微笑んだ。

「さて――」

その様子を見届けて、ブラッツが振り仰ぐ。吹きさらしの二階の回廊――手すりに寄りかかる、ヘンリクスがいた。

すーっと、秀麗な顔から、温度が引いていく。真冬の氷のように冷たい笑顔。これは恐ろしいことになると、直感する。

「どうして、あなたがここにいるんでしょうね? 未決裁の書類は、山のようにあったはずですが」

薄青の双眸が逸れる。反応が率直なのは、ヘンリクスにとっても、予想外の状況なのか、それとも凍てつく怒りが怖いのか。

「ああ……そんなものも、あったかなあ――」

歯切れの悪い返答。ブラッツの笑みが深まる。春も終わるというのに、見ているだけで寒々としてくる。

「そういえば、ご当主様から言いつかって、今夜屋敷を訪れる予定なんです」

何を話し出すのだろうと、怪訝な顔。明緑の瞳が、冷たい憤りで輝く。

「確か――奥方様が、ご出産で里帰りなさっているはず。お祝いのご挨拶に、行かなければなりませんね?」

そして、にっこりと微笑む。事態を把握して、落ちそうなくらい、身を乗り出す。

「わかった! ちゃんとやる! だから、ヴィクトリアには絶対に言うなっ!」

「純朴な若人達を困らせた分、しっかり働いてくださいね」

この上なく美しく麗しい笑顔に、優しく穏やかな声。しかし、吹雪に長らく晒されたように、心身が凍える。以前叱られた時の比ではなかった。自分に向けられたものでなくて、心底よかったと思う。

ヘンリクスが階段に向かったのを認めて、ブラッツが、アメリアを柔らかく促す。そして、団長の警護の下、王殿へと戻っていった。

一気に力が抜けて、溜め息をつく。同じく長々と息をついた親友と、顔を見合わせて笑う。

「ああ、びっくりした! まさか、殿下がいらっしゃるなんて!」

「それも本当に驚いたけれど、副団長が――」

横目で、再開した試合の講評をする、ブラッツを見遣る。厳格な表情だが、凍てつく色は、どこにもない。

「ブラッツが、すごく怖かった」

正直に吐露する。すると、エルドウィンがきょとんとする。そして、何でもないことのように言った。

「他の人からしたら、怖いみたいね。怒ってるなくらいにしか、僕は思わないけれど」

けろっとされて、凄まじさにおののく。

そういえば、この穏和な親友が怒るところを、ついぞ見たことがない。一番怒らせてはいけないかもしれないと、強く思った。


大浴場の湯浴室で、軽く汗を流し、さっぱりした気分で、夕方の隊議に臨む。もちろん団長の姿はなく、副団長が、代理で議長を務めた。

試合のために、早番の後半を振り替えてくれた先輩騎士から、警護の状況が報告される。

懸念していた事態は起こらず、ほっと胸を撫で下ろした。同時に、アメリアが騎士舎にいた理由に思い至る。

昼の休憩に入る前、付長に、ユリウスとのやり取りを報告した。きっとそこから、隊長、団長へと伝わったにちがいない。

アメリアが、上半身裸の自分に抱きつくとは、さすがに想定外だっただろうが、ブラッツに咎められる可能性は、承知していたはずだ。それでも連れ出して、危難を回避するあたりは、一度決めたことは、持てる全てで手を尽くす、ヘンリクスらしかった。

(これが終わったら、お礼を言いに行こう)

報告を聴きながら、温かな気持ちで思う。きっと知らぬ存ぜぬを通すだろうが、感謝はきちんと伝えたかった。

そして、予想通りの反応を見た職務明け前、アメリアを訪れた。

愛らしい顔が、明るい喜びに、ぱあっと輝き、駆け寄ろうとする。しかし、はたと止まって、沈んだ表情で俯く。上目遣いで、碧色が不安そうに見つめる。

「――どうぞ、殿下」

優しく微笑んで、腕を広げる。

途端、嬉しさに満ち溢れた笑顔で、飛び込んでくる。しっかりと抱き留めて、いとおしく頭を撫でる。

「ねえ、夕食までお話したいわ」

甘えた可愛らしい声。和んで、自然と顔が綻ぶ。

誓いを立ててから四年余り。もうずいぶん、背が伸びてきた。自分がそれ以上の勢いで成長しているから、小柄な印象は変わらないが、アメリアは今年の夏で十二歳になる。

初潮を迎えて成人の始まりに立てば、子供と扱われなくなり、触れ合うことは、固く禁じられる。いつまでこうしていられるだろうかと、淡い寂しさが心を過る。

「かしこまりました。着替えてまいりますので、少々お時間をいただけますでしょうか」

騎士服は、命令系統の混乱を避けるため、職務中のみ、着用が許される。職務の明けたあとに王宮を出歩くには、仕官服に着替える必要があった。

「もちろんよ。今日は、どのくらいでもどってくるかしら」

「我が家紋の黒狼に恥じない速さで、ひとっ飛びしてきますよ」

いつもの戯れに、おどけて返す。挑むように、楽しげに輝く碧色の瞳。受けて立つ、との意をこめて微笑み、おもむろに身を離して、部屋を辞した。

汗をかかないぎりぎりの速度で走り、騎士舎に戻る。道中、声をかけてくる先輩や同期達に、殿下の御用だから、と答えつつ、自室へと向かった。隣の扉の前で、同期と談笑する親友に挨拶し、部屋に入る。

洗濯から返ってきたあと、棚に仕舞わず、衣服掛けに吊るしたままだった仕官服に着替える。裾の長い上衣を被って、ベルトを締めながら、壁に貼った暦紙を確認する。

今日着ていた騎士服を、前回の洗濯に出してから、もう五日経つ。夕食後、風呂に入る前に出せば、明日分の締切に間に合う。

畳むのももどかしく、脱いだ騎士服を、そのまま洗濯袋に突っ込む。姿見で乱れがないか確認して、アメリアの元へと急いだ。


「ねえ、フェリックスは、恋をしたことがある?」

他愛のない話から、唐突に馴染みのない方向へと飛んで、目前の愛らしい顔を、思わず凝視してしまう。

隣に座り、腕にすり寄って見上げる、碧色の瞳。他意のない色に、相手は子供なのだと思い出す。

「さあ、どうでしょう――どうしてまた、そのようなことを?」

「ブラッツの長女が、この夏に、メクラトル家にとつぐでしょう。エクエス家から籍をぬくなんて、よほどのことだから」

そういうことかと、納得する。

現実が酷く厳しいせいか、アメリアは、小さな頃から、甘く夢想的な物語が好きだった。警護中に聞こえてくる、年若い侍女達との会話は、もっぱら恋の話題ばかりだ。

侍従の中で誰が素敵だの、こういう男が好みだの、諫める役の年嵩の侍女や侍女頭が現れるまで、飽かず喋っている。本当に、種が尽きないものだな、と感心していたが、まさか自分に水が向くとは。

話題が関連なく変わるのは、いつものことだから慣れていたものの、題目が恋となると、かなり弱い。せめて、自分からは興味を逸らそうと、切っ先をそっと変えていく。

「二人が恋仲で――それで、わざわざ嫁ぐことにしたと?」

「そうよ! 接点のない中で、どう出会ったのか、考えただけでわくわくするわ!」

頬を紅潮させて、声を高める愛らしい顔。微笑ましく思いながら、碧色の瞳が、完全には笑っていないことに気づく。

(もう、察しているんだ……)

そんな夢物語などないことを。

王女とはいえ、まだ子供のアメリアには、事情は知らされていない。しかし、もともと聡く怜悧な性質たちだ。何かしらの意図がある結婚だと、薄々勘づいているのだろう。

心の内は決して見せず、温かく微笑んで、優しく尋ねる。

「殿下は、どのように出会ったと思われますか?」

「そうね……ええと――」

大きな碧色が瞬く。一瞬、眉根を寄せて、ぱっと表情が華やぐ。弾んだ声が、楽しく鼓膜を震わす。

「きっと、武器の発注の時ね! 書類を受けわたす時にぐうぜん出会って、一目で恋に落ちたんだわ!」

肯定の意をこめて微笑む。

従家の息女が、王宮で働くことはないのだが、そんなことは百も承知だろう。

理不尽に傷つけられているその心が明るくなるのであれば、嘯いた虚構に目を瞑ることくらい、許されるというものだ。

「殿下は本当に、恋のお話がお好きでございますね」

「ええ、大好きよ! だって、だってね――」

おもむろに、愛らしい顔が不安に曇っていく。方向を間違えたと、臍を噛む。

王女である以上、相手を好きに選んでの結婚は許されない。しかも、許婚の候補に挙がっているのは、宰相の次男なのだ。

正式に決定すれば、アメリアは、ユリウスを義理の兄に持つことになる。その、ほぼ確定した、暗澹とした未来を思い出させてしまった。

沈んでいく表情が、少しでも晴れてほしくて、金褐色の長い髪を優しく撫でる。

「殿下、大丈夫ですよ。何があっても、私がお傍におりますから」

「……本当……?」

「ええ、本当です。誓いは、この命が尽きて、御夜の御元に還っても――あなたとともにあります」

不安に揺れる碧色の瞳を、真っ直ぐに見つめて告げる。そっと淡く触れてきた手を、しっかりと握り返す。

たとえ今は欠け落ちても、全てを果たせなくても、このぬくもりは、絆として伝えたかった。ひたすらに思い、守りたいと願っていることを、信じてほしかった。

「フェリックス――」

きゅっと、繋いだ手に力がこもる。碧色が滲んで潤む。

薄絹の窓掛けに透ける、晩春の夕陽。その光に煌めく、綺麗な様。

「ずっと、そばにいてね。わたしから、はなれないでね」

「はい。お約束申し上げます」

満ち足りた幸福に、笑顔が花開いていく。いとおしさが、温かく心を満たす。

金褐色の長い髪を、梳くように柔らかく撫でながら、あらん限りの力を尽くそうと、改めて決意した。


        *


その日は、朝から生憎の雨だった。盛夏だというのに肌寒く、参列した人々は、式場である御堂に入ると、皆一様に、ほっと息をついた。

「まさか、雨だなんてな。昨日は晴れていたのに」

雫の滴る窓を仰ぎながら言う。同じように、濃い灰色の空を見つめて、親友が応える。

「そうだね……でも、食事以外は、もともと屋内の予定だったから……」

常と変わらない平静な横顔。しかし、新緑の瞳の奥で、不安が揺れている。言いようのない不穏な気配を感じて、慶事だというのに、言葉少なだった。

親友の隣に佇む、アドルフを見遣る。いつもは明るく騒がしい少年が、今はただ、無表情でいる。

微かに赤く腫れた目。双子の妹との最後の日を、泣いて過ごしたのだと思うと、哀しく切なかった。

「……ルチナが――昨日の夜、言ったんです」

ぽつりと、小さく声が落ちる。声変わりして高さのなくなった、しかしどこか不安定な声。

「離れていても、一緒だって。お母様のお腹にいた時から、ずっと一緒だったんだから――御夜の御意志で、そう生まれてきたんだからって」

若緑の瞳に、強い光が灯る。今にも泣きそうな、決意のこもったその色。励ますように見つめる。

「……俺……もっともっと努力して、エクエス家の名に恥じない立派な騎士になります。ルチナの分まで、主家様のお側でお役に立てるように」

エルドウィンが、弟にそっと寄り添う。

頭を兄の肩に預け、涙ぐんで、腕にしがみつく哀しい姿。

犠牲を払ってまで務めを果たす兄弟を見つめながら、仕えるにふさわしい主でいようと、強く思った。


結婚を願い出る従家当主二人の声が、高い天井に反響する。雨のため、急遽火入れされた灯りに、金色の道具類が煌めいている。

子供の頃に参列した、ヘンリクスとヴィクトリアの、冴えた銀色の光に溢れた式とは異なる、陽光に晒されたような景色に、真昼の民のための式なのだと実感する。

承認を宣言する、伯父の重低音とルスティクス家当主のやや高い声。王都正面門の物見塔のようにそびえ立つ、伯父の巨躯と並ぶと、背の低い当主が、まるで子供に見える。

花婿の後ろに控えて、承認の礼を述べる、メクラトル家当主の横顔。

交渉事に長けた小狡い面差しを眺めながら、この小男が、嫡子の手綱を過たず握っていれば、ブラッツ達が苦しむことはなかったのだと、沸々と怒りが湧いてくる。

エアネストとルチナが、神の名の下で添い遂げる、との誓いを述べる。

叔母のハンナによく似た、美しく優しい顔立ち。静かな表情ながら、新緑の瞳には、強い光が灯っていた。

エクエス家の息女として、務めを果たそうと歩み出す姿に、その心のつよさを思う。

花婿と花嫁が、金糸の刺繍の施された絹布を、四角い金の盆から受け取る。花婿は花嫁に髪覆いを被せ、花嫁は花婿に頭帯を締める。そして、それぞれの主家の当主から、留め輪を戴いた。

最後に、主家の当主二人が、柄のついた玉を金の器に浸して、強く振っていく。月光で清めた水の雫を浴びて祈りながら、ルチナの未来が、少しでも明るくあるよう願った。


「――次代様!」

併設された食堂で、伯父達と昼を摂った後の、喫茶の時間。菓子をつまみながら、親友と談笑していると、可愛らしい少女の声がかかる。

振り向けば、ルチナが花婿と並び立っていた。布巾で手を拭って、晴れやかに微笑む。

「二人ともおめでとう。末永く幸せにね」

「ありがとうございます。――お顔を合わせるのは、初めてでございますよね」

美しい顔が、柔和に笑む。隣に視線を向けると、花婿が、恭しくこうべを垂れて礼をする。

「お初にお目にかかります、総帥の次代様。商務官従家メクラトル家が子息、エアネスト・ラムス・メクラトルでございます。このご縁をもって、ご懇意を賜れましたら、幸甚にございます」

「もちろん。ルチナをよろしく頼むよ」

頷いて、挨拶を受ける。愛想のいい表情の中、緑色の瞳に敵意が閃く。気づかないふりをしつつ、恨むなら、金儲けに溺れた兄を恨め、と忌々しく思う。

身代わりに収監された上、幼馴染みの恋人が、見せしめに嫁いだことは、可哀想ではある。

しかし、こちらは罪もないのに、家族も同然の大切な人を〈送る〉はめになったのだ。全ての元凶は、向こうでのうのうとのさばっているメクラトル家の嫡子であって、自分達ではない。勘違いするな、と身の内で、怒りの炎が渦巻く。

「――僕からも。改めて、久しい付き合いをどうぞよろしく」

とんと、手が軽く触れて、親友を見遣る。一瞥した新緑の視線。しまったと思う。

和やかに対応する親友との会話で、エアネストの気が逸れている間に、心を閉じて平静を繕う。

正面から視線を感じて、顔を上げると、優しい微笑みに出会った。

「次代様。あちらで、少しお話ししませんか? 最後にお会いしたのは、ずいぶん前のことですし」

嬉しく頷くと、ルチナが、エルドウィン達に声をかける。

促されて、壁際に据えられた長椅子に座る。綿をたっぷりと詰めた、背当ての敷物が、ふかふかと心地いい。

精緻な金糸の刺繍が美しい引き裾を、器用に捌きながら、ルチナが隣に腰を下ろす。

優しく微笑む、新緑の瞳。エルドウィンと同じ、しかしアドルフによく似た、明るく快活な色。

穏やかで静かな声が、語り出す。

「十五年間――両親と二人の兄に見守られ、大切に育てられてきました。エクエス家の名は、私にとって、何よりも大切なかけがえのない誇りです」

雨音が、おもむろに遠ざかっていく。さあっと雲間から午後の光が差し、一瞬目が眩む。

「ですから、たとえこの先どんなことがあっても、我が身を憐れみはしないでしょう」

ゆっくりと、視界が元に戻る。花嫁衣装の、金糸と様々な緑の鮮やかさ。

「次代様。私は決して、私の幸せを諦めたわけではありません。エクエス家の息女として、メクラトル家の妻として――心に宿る騎士の剣をもって、道を切り拓いていきます」

希望に満ちた、明朗な声。強く輝く新緑の瞳。心からの言葉が、滑り出た。

「ありがとう。君の献身を、決して無駄にはしない。約束する」

美しい笑顔の花が、温かく咲き誇る。

明るく清廉な表情に、危難を恐れるのではなく、たとえ何があろうとも、全力を尽くして応えようと、固く心に誓った。

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