守る力②
石組みの壁を、ぼんやりと眺める。
早起きの眠気が、まだ覚めない時間。だいぶ春めいてきたとはいえ、まだ肌寒い朝の空気が、しんと流れている。
両開きの扉を挟んで隣には、指導役の先輩騎士が、微動だにせず立っている。
眠気など一切感じさせない、彫像のような姿。意識が飛ばないよう、石壁に目を凝らして耐える。
今日は、居室前の当番だった。
アメリアは今、カンチェラリウス家の執務館で、宰相から講義を受けている。不在を守る大切な職務だが、主君のいないところで緊張感を保つのは、なかなかに難しい。しかも、いまだに背が伸びているらしく、脚の激痛で、寝つけないこともしばしばあった。
そんな中での早い起床だから、眠気は、雨雲のように抗いようもなくやってくるのだった。
うっかり身体が傾ぎそうになる中、高い天井に反響して、駆ける足音が聞こえる。
何事かと廊下を遠く眺めると、同期の従騎士が、息せききって、こちらにやってくるのが見えた。
近づくなり、先輩騎士の名を呼ぶ。
「どうした。何があった?」
「殿下がっ……殿下が、いなくなられて……こちらに、お戻りになっていませんか?」
肩で荒く呼吸しながら、同期が尋ねる。先輩騎士の苦々しい声。
「またか!」
いなくなった――つまり、警護をまいて、どこかへ行ってしまったのだ。
もう常習といっても差し支えないほどの頻度で、レガリス隊王女付きの悩みの種だった。
しかも、アメリアにとって王宮は、生まれ育った我が家だ。抜け道や隠れ場所を熟知している。小さな身体で行方を眩まされてしまうと、捜索は困難を極めた。
もしユリウスに発見されれば、つらい仕打ちが待っている。
ただでさえ、日頃の外面のよさを活かして侍女達を騙したり、同格の自分のいない時を狙ったり、様々な機会を利用しては、連れ去って、影で暴力を振るっているのだ。
わかっているはずなのに、突発的にいなくなってしまう。無事に戻ってくる時もあったが、暴行の現場を押さえたり、泣き腫らした顔で帰ってきたりする時もあった。
決して責めず、名を呼んで、腕に収まる小さな王女。従騎士と嫡子の両方の務めを果たしながら、誓いを守ることの難しさ。無力な自分への怒りが、身の内をねぶる。
気づけば、言葉が口をついていた。
「お願いです! 俺に行かせてください!」
しかし、すかさず先輩騎士から命が下る。
「だめだ。持ち場を離れるな」
職務中は、身分に関係なく、序列は絶対だ。わかっていても、つい苛立ちで睨んでしまう。
軽い溜め息。深緑の双眸が、つっと歪む。
「お前を甘やかしたら、総帥にも団長にも申し訳が立たない。それに俺は、目先にばかり囚われるような奴の下に、つきたくないな」
従家傍系という、決して昇任することのない身分。
視線を感じて振り見れば、同期と目が合う。気遣うような、しかし先輩騎士に同調するような、複雑な青色の瞳。
この立場だからこそ、できること――できないこと。悔しさが、鋭く胸を刺す。
それでも、今取るべき行動はひとつだった。頭を下げて言う。
「……申し訳ありません。出過ぎたことを言いました」
先輩騎士は頷くと、居室に隣接する控え室に、応援を要請するよう、同期に指示した。
目顔で配置に戻れと告げられて、扉の傍らに立つ。目の前の冷たい石組みを、じっと睨んだ。
色艶よく焼かれた大ぶりの肉。立ち上る、香ばしい匂い。
普段なら、食欲を刺激してやまない大好物が、今は味気ないものに思える。それでも、きちんと食べなければ、職務に支障が出る。食器を動かして切り分けながら、黙々と口に運んだ。
結局、アメリアは無事に戻ってきた。
息を弾ませながら、駆け寄ってくる姿。上気した頬に、きらきらと輝く碧色の瞳。
飛び込んできた小さな身体を抱き締めて、心から安堵した。どこに行っているのか、尋ねても頑として答えないので、もう問うことはしなかった。ただただ、その無事を喜んだ。
しかし、今回は運がよかっただけだ。
昨秋にユリウスは十歳になり、仕官見習いとして、本格的に出仕を始めた。それで頻度はかなり減ったものの、回数の問題ではない。
何が気に食わなかったのか、辱しめる要求をしなくなったことが唯一の救いだが、まだ子供のアメリアからしたら、差異のないことである。つらく苦しい仕打ちには変わりない。
しかも、目立たないよう、腹や腰を狙って蹴るのだ。悪辣な
つきっきりで傍にいたいのに、大人達は皆、甘えだと言う。
しかし、取れる対策を為さない方が、甘えなのではないか。沸々と、苛立ちと反発心が、頭をもたげる。
今日は、午後に剣術の稽古があるから、準備のために昼休みが長い。ずっとためらっていたが、ヘンリクスに掛け合ってみようと決意する。同時に、強い不安が胸を刺す。
約束を
団長の前では、決して気を緩めるべからず――そう、従騎士達に囁かれるほど、職務に関しては厳格だった。同期が叱られる光景を思い出して、さらに食欲が萎える。
ふと、対面の席に盆が置かれた。顔を上げると、親友の姿に出会う。そういえば、並んでいた魚の定食が、目前で品切れになり、先に食べているよう言われたのだった。
席につくなり、エルドウィンが心配そうな顔で尋ねる。
「大丈夫?」
「何が?」
「今日の献立は牛肉なのに、あまり嬉しくなさそうだから……」
思わず手を止めて俯く。切り口から肉汁が溢れ出して、ソ―スと混ざり合っている。いつもなら、パンで拭って綺麗にするくらい好きなのに、今はただの模様にしか見えない。
「もっと、随行の当番が増えたらなって……そうしたら、ずっと傍にいられるのに……」
「殿下のこと?」
頷く。エルドウィンには詳しく話しているから、わかってもらえると思った。しかし、親友が言ったことは、予想とは違った。
「仕方ないよ。僕達、まだ従騎士なんだから」
信じられなくて顔を上げる。いつもの、心から気遣う表情。妙に腹が立って、とげとげしい言い方になる。
「お前がそんな薄情なこと、言うなんてな」
息を呑む声。見開いた目の瞳孔が小さくなり、秀麗な顔が青ざめて固まる。酷く傷つけたと激しく後悔しながら、それでも、言葉を止めることができなかった。
「もういい。お前には話さない」
視線を落として、食事に戻る。ごめん、と言う、消え入りそうに微かな声。
ただ黙々と食器を動かし、栄養を腹に入れた。
誰何の声に、明瞭に所属と氏名を答え、許可を得て中に入る。
執務机の前に据えられたソファに、ヘンリクスとブラッツが、向かい合って座っていた。低い卓の上に、大きな紙や書類が広がっている。裏返されていて、内容はわからなかった。
敬礼し、姿勢を正す。意を決して口を開く。
「あの、団長――」
「だめだ」
しかし、すかさず遮られる。厳しい表情。刺すような薄青の双眸。
言葉に詰まるのを見て取って、淡々と話す。
「お前の言いたいことはわかっている。当番を変えることはできん」
どうして、と怒りが揺らめく。
ヘンリクスは、アメリアのことをずっと気に病んでいた。それなのに、手を打たないなんて、あまりに酷い。苛立ちに任せて考えていたら、つい、口をついた。
「でも、
「甘えるなッ!」
腹から響く、太く低い怒号。思わず身体が、びくっと跳ねる。憤りに轟く声が、刃のように心を突き刺してくる。
「何様のつもりだ。接触を許可されたから、特別だとでも思っているのか。近衛は殿下の希望を叶えるのが仕事だ。お前が特別なのではない。それともなんだ、女を知って、一人前の男にでもなったつもりか」
わざと猥雑な話を混ぜているのだとわかっていても、否定できなくて、腹が立つ。口を引き結んで睨むと、厳格で冷徹な声で返される。
「悔しいか。それなら鍛練しろ。日々の職務に励み、多くを学べ。お前にできることは、それだけだ」
言葉が途切れ、思わず言い募ろうとすると、不意に別方向から、名を呼ばれた。
ブラッツの、凍てついた明緑の瞳。いつもは穏和で優しい面立ちが、真冬の氷のように冷たい表情をしている。美しい造形が、より酷薄さを強調する。
「出て行きなさい。君は、身分を振りかざして、我を通すような子ではなかったはずだ。――失望したよ」
心に、鋭い刃が突き刺さる。
師と仰ぎ、父のように慕う人に見放された。心細さと悲痛が、胸に広がる。じわりと、視界が滲んだ。
「……申し訳ありません。失礼します」
深く頭を下げ、部屋を辞する。たまらず、廊下を駆け出した。
扉が閉まった途端、走り去る足音が聞こえる。確実に宿舎で泣くやつだなあ、と、のんびり思う。
二人には可哀想だが、フェリックスは伸び盛りの成長期だ。将来を思えば、大切なこの時期に、甘やかすわけにはいかなかった。
書類を表に戻している副団長に向き直る。
「……ブラッツ」
顔が上がる。先刻の冷酷な表情が、嘘のように穏やかだ。
「お前は、ほどほどにしておけ。その綺麗な顔が怒ると、死ぬほど怖い」
自分もずいぶん恐れられているが、もともとぞんざいだから、ある意味平常といえる。
しかし、普段温厚なブラッツが冷たくなると、落差で効果絶大だ。しかも、美しい顔が優しさという温度を失くせば、真冬の激しい吹雪のように、酷薄に凍てつく。端で見ているだけで、肝が冷えた。
ブラッツが、にっこりと笑む。書類を整理しながら、穏やかに言った。
「怒っていませんよ。ただ、せっかくの逸材を、こんな形で失うわけにはいきませんから。釘はしっかり打たないと」
「……そういうのが怖いと言っているんだ」
苦く返したのをさらりと流して、もう時間がありませんよ、と話し始める。
その説明を聞きながら、やっぱりエクエス家は、顔に騙されていけないな、としみじみ思った。
心がもう、ぐちゃぐちゃだった。
宿舎の自室。寝台の傍らで、膝を抱えてすすり泣く。
窓から差し込む影が移ろっている。だいぶ時間が経ってしまった。そろそろ戻らないと、午後の鍛練に遅刻する。そう思いながらも、立ち上がる気になれなかった。
ふと、廊下を駆ける靴音がする。扉が開き、親友の姿が現れた。
「――フェリックス! やっぱりここにいた!」
「エルド……」
顔を上げて、すぐにそむける。食堂でのことが思い出されて気まずい。何より、泣き顔なんて、情けないところを見られたくなかった。
そんな態度を気に留めず、近づいて、正面で膝をつく。優しい、安堵した声が話す。
「そろそろ時間なのに、鍛練場にいないから、探したんだよ。――あのあと、父上に当番のことを話したら、揃いも揃って甘えるな、諫めるのも補佐官たる従家の務めだって、怒られちゃった」
父上、すごく怖かったでしょ、と少しおどけた調子。凝り固まっていた意地が、溶けていく。
「ごめん、あんなこと言って……お前が平気に思ってるはず、ないのに」
「――ううん」
ふるふると首を振る。金色のうねる短い髪が、春の陽光に煌めく。申し訳なさそうに、眉根が寄る。
「僕も言い方が悪かったよ。ごめんね」
どこまでも優しい親友の心。押さえていた
「俺、悔しいっ――早く大人になりたい……! もっと強くなって、あの子を守ってあげたいのにっ!」
そっと優しく抱き返す、親友のしなやかな腕の感触。日溜まりのような朗らかな匂い。縋るように抱き締めて、ただひたすらに、声を上げて泣いた。
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