第二章

騎士叙任①

近衛騎士叙任式の一週間前。騎士舎の多目的室に、叙任を控えた少年達が、整列して集まっていた。壮麗な装飾の儀礼服を纏い、希望に満ちて、弾んだ様子で談笑している。

「動きづらいけど、やっぱり格好いいよなあ」

ふくらはぎの半ばほどまである、丈の長いマントを翻しながら、くまなく眺める。

普段、職務で着用する騎士服は、機動性を重視して、背中が隠れるくらいの丈しかない。布地をたっぷり取ってあるだけでも、豪華さが断然違った。

「あんまり動くと、しわになっちゃうよ」

指摘しながらも、エルドウィンも嬉しそうに、上衣の装飾に目を奪われている。

もちろん、何度か見たことはあるが、実際に袖を通すとなると、感動もひとしおだった。互いに見せ合って、同じ形なのに、すごいと言い合って笑った。ついに成人し、大人の仲間入りをするのだという興奮が、心を躍らせた。

この冬に先駆けて十七歳になり、エルドウィンは、年をまたいだ晩冬に、十七歳を迎える。ともに成人し、近衛騎士として、新たな一歩を踏み出すのだ。騎士見習いの時も、従騎士の時も一緒だったが、騎士叙任はまた特別だった。

定刻通り、儀礼服を着た近衛騎士団団長と副団長が現れる。途端に静まり返り、従騎士達は姿勢を正した。

団長が中央に立ち、斜め後方に副団長が控える。よく通る、深みのある低い声が、室内に響いた。

「これから、叙任式の予行練習を始める。いいか、きっちり頭に叩き込めよ!」

一同一斉に返答し、敬礼する。副団長の休めの号令のあと、手順の説明と実演が始まった。

剣を主君に渡し、主君が剣の腹で三度肩を打って、近衛騎士となった者に返すのが、主な流れだ。マントの捌き方など、細かい所作もしっかり記憶しながら、ふと心配になる。

儀礼用の剣は、軽量化を計りつつ、強度を保つために、木板を網目状に組んで、隙間に綿を詰め、薄い板金を貼って磨いた、模造品である。真剣よりずっと軽い。

とはいえ、やっと子供から少女の域に入り始めたアメリアに、扱いきれるのか――あのか細い腕に負担がかからないか、気がかりで仕方なかった。

質疑応答の時間になって、つい、その懸念を尋ねたら、案の定、お前は自分の心配をしろ、と叱られた。

レクス隊とレガリス隊王妃付きの従騎士達の白い目。接触許可に関する通達はされているものの、実態を知らないのだと思い出した時には、遅かった。

解散後、王女付きの同期連中には、気持ちはわかるけどさ、と散々からかわれた。

「でも、もしルチナなら、僕も同じ質問をすると思うよ」

援護なのか揶揄なのか、穏和に笑う親友の言葉が、一番の深手だった。


漆黒の神の支配が、最も長く及ぶ冬至の日。しんと静まり返った謁見の間に、近衛騎士団団長の声が、朗々と響く。

「これより、成人の儀及び近衛騎士叙任式を執り行う!」

壮麗な儀礼服を纏った従騎士達。深い濃紺のマントが川のように広がり、銀糸の刺繍が、午後の陽光に晒されて、月明かりのように煌めく様は圧巻だ。毎年のことながら、この景色は美しく、感動するものだった。

整列して跪き、こうべを垂れる中で、一人の従騎士を見つめる。

レガリス隊王女付きの、フェリックス・クラン・フォルティス。俯いたその顔は、まさにあの肖像画その人だった。

(どうして、名乗り出ないのかしら……)

レクス隊の従騎士達を叙任する、父の声を聞きながら、朧気に思う。

二年前、初めて間近で顔を見た時、憧れの人とそっくりな人が助けに来てくれたと、素直に喜んだ。

苦難を生き残り、その子息が、母方の実家に引き取られて、仕官している。まるで物語のような楽しい空想は、やがて、じわじわと心を苛んだ。

もし空想が真実だったら、真昼の民を実父に持つ自分は、無用の長物である。名乗り出れば、すぐにでも、正統な血筋の王子として家系登録できるはずなのに、わざわざフォルティス家直系の嫡子として、仕官している。その意図が、わからなかった。

そして、自分を必死に守り、抱き締めて、慈しんでくれることも。

父の背中を見る。レガリス隊王妃付きの叙任が、始まっていた。

無知だった幼子の頃は、何の疑いもなく、愛されていると思っていた。たくさん抱き締めてくれたし、欲しいものは何でも与えてくれた。フェリックスが取り返してくれた熊のぬいぐるみも、そのひとつだ。

しかし、父の愛はまやかしだった。

それに気づいてからは、ねだるのをやめてしまった。王女としての品格が損なわれない、最低限の衣服や調度品、身の回りの品を選ぶようになった。

どうしても、可愛い服や小物が欲しくなった時は、侍女達に頼み込んで教えてもらった刺繍を足して、少しだけ華やかにした。

父は、もっと着飾ったらよいのに、と惜しんだ。

とはいえ、幻を褒めてもらっても嬉しくなかったし、質素にすることで、周囲の視線が少しでも和らげばと願った。

しかし、そんなささやかな望みも報われず、ある日悪意はやってきた。

脳裏で響く、喜悦に嗤う声。先日蹴られた脇腹が、鈍く痛む。

(わたしは下賎な真昼の娘――だから、だれにも愛されない。心から、わたしをだきしめてはくれない……)

レガリス隊王女付きの番になって、立ち上がる。しとやかに中央へと歩を進めて、静かに佇む。近衛騎士団副団長が、名を呼び上げる。

「近衛騎士団レガリス隊王女付き従騎士、フェリックス・クラン・フォルティス!」

「――は!」

短く答えたその声。いつも優しく呼びかけてくれる、耳に心地よく響く低い声。

丈の長いマントを捌いて進み出る、その姿。ぶれることなく抱き留めてくれる、広い胸。柔らかく包み込んでくれる、逞しい腕。

剣が差し出される。いつも頭を優しく撫でてくれる大きな手から、壮麗な剣を受け取る。鞘を持ち、すらりと抜く。磨き抜かれた剣身が、高い窓から降り注ぐ陽光を反射する。

広い肩に、剣の腹を添える。顔をうずめるには、まだ背が足りないその肩。心の中で、呼びかける。

(ねえ、フェリックス――)

よく響くように深呼吸し、高さを抑えた声で、厳かに宣言する。

「我、御夜の寵愛を受けし王家が嫡子、アメリア・レガリス・ノクサートラは、汝を成人と認め、ここに近衛騎士に叙任する」

そして、三度肩を軽く打ち、剣を鞘に収めて返した。恭しく仰ぐ、その紺青の瞳。

(どうして、そんなにやさしくしてくれるの?)

罵倒されながら、蹴られながら、どうして助けてくれないのかと詰った。

守ると誓ってくれたのに。どうして。

(まやかしだなんて、そんなのいや……)

それでも、枯渇した心が、ぬくもりを求めてしまう。愛されているのだと、思い込もうとしてしまう。

鞘を剣帯に差して、戻っていく広い背中。揺れるマントの深い濃紺に浮かぶ、月影のような銀糸の刺繍を見つめる。

行かないで、と唐突に思いが閃く。

今すぐにでも抱き締めてほしい。甘えたくてたまらない。式が終わったら、隊議があるから会える。早く、その広い胸に飛び込みたかった。

威厳ある王女を装いながら、一人また一人と、式が進んでいくのを、心の内で喜んだ。


同期達と隊議室に向かっていると、背後から名を呼ぶ声がした。振り返って、駆けてくる少女を待ち受ける。走る勢いのままを受け止めて、緩やかに抱く。

ずっと我慢していたのだろう。一度腕に力をこめてから、満足したように、少しだけ身を離して、顔を上げる。

上気した薄紅色の頬。大きな碧色の瞳が、きらきらと輝く。

「儀礼服って、何度見てもいいわね! 特にフェリックスが着ると、ずっとすてきだわ!」

式で見せた、聡明で静かな表情とはうってかわった、愛らしい笑顔。親しんだ、しかしいつ見ても和む景色に、自然と頬が綻ぶ。

「ありがとうございます。殿下も、ご立派でしたよ」

「ほんとっ? がんばって、たくさん練習したのよ。今までは、お父様が代理でしてくださっていたから、うまくできたか心配だったの」

「凛として、まさに王女にふさわしい高貴な立ち振舞いでございました」

あえて少し大げさに言う。

褒める時は、思いきった方が、きちんと伝わるものだ。特にアメリアは、愛情を感じにくいのだろう。反応が平凡だと、不安に思うところがあった。

よくできたというふうに、頭を優しく撫でる。安心して、ふにゃりと笑う愛らしい顔。

この笑顔のためなら、どんな苦難も乗り越えられると思う。

叙任したとはいえ、近衛騎士としては、ひよっ子だ。アメリアにつらい思いをさせてしまうのは歯痒いが、一日でも早く、独り立ちできるよう努力しようと、決意を新たにした。

促して身を離し、待ってくれていた同期達と歩き出す。そっと、手を掴まれる。優しく握り返して、微笑み合う。

近衛騎士となり、初めて参加した隊議。アメリアの祝いの挨拶が、何よりの祝辞だった。


その日の夕方。成人の挨拶のため、特別に帰省が許可された。

伯父のことを考えると気が重かったが、宿舎に居残れば、怪訝に思われる。帰らないわけにはいかなかった。

馬車が停まり、馭者が恭しく扉を開ける。綺麗に雪かきされた玄関前に降り立ち、扉が開くのを待つ。

出迎えた使用人が、予想と違って少し驚く。重厚な木製の扉の傍らに立ち、下男がこうべを垂れて挨拶する。

「お帰りなさいませ、次代様」

「出迎えありがとう。ハンナは?」

「先日から、病を得まして……自室で臥せっております」

また驚き、今度は息を呑む。そんな話は、ブラッツからもエルドウィンからも聞いていない。

病状を尋ねるのももどかしく、下男に荷物を託して、ハンナの部屋へと向かった。


下働きの者が暮らす、小さな居室兼寝室。

布団をはぐって出ようとするハンナを、やんわりと制した。それでも、ゆっくりと起き上がる様子に、淡く苦笑が漏れる。

「もう、いいのに」

「ずっと寝ているのも、疲れますから」

枕に背を預けて微笑む、美しい顔。傍らに椅子を移動させて座る。気を遣わせてしまったと思いつつ、心配な気持ちで尋ねる。

「具合は? 先日から臥せってると聞いたけど……」

「ただの風邪ですわ。こう、冬が深まると――どうしても、寒さがこたえますね」

穏やかで、ゆったりとした口調。顔色は少しよくないが、いつもと変わらない様子に、ほっと息をつく。

「ああ、よかった! 何も聞いてなかったから、驚いたよ。もしかして、とても悪い病なのかと思って」

あえて大仰に言う。少しおかしそうに、くすりと笑う美しい顔。

「私も、エクエス家の端くれ。日々鍛えている当主様方にはかないませんが、そう簡単には、お側を離れるようなことはいたしませんよ」

柔和に話す声。子供の頃から親しんできた、心地よく安心する声。

ふと、こちらに身体を向け、姿勢を正す。ゆったりと頭を下げて、祝辞を述べた。

「ご成人された由、誠におめでとうございます。本当に、ご立派になられて……」

感慨深げな微笑。慈愛に満ちた表情は、まさしく母親のそれだった。温かな思いで、笑みながら返す。

「こうして無事に成人を迎えられたのも、ハンナのおかげだ。母のように見守り、ずっと傍にいてくれた。本当にありがとう。これからも、よろしく頼むよ」

「まあ、そんなもったいないお言葉。でも、嬉しゅうございます。今でも、ありありと思い出せますわ。まだ可愛らしいお子様でいらっしゃった頃――」

と、言葉が途切れ、軽く咳き込む。

吸い飲みを渡して、背中をさする。その小ささ。ただ自分が成長しただけなのだが、もはや守ってくれる人ではなく、守るべき人なのだと実感する。

落ち着いたところを見計らって、言葉をかけた。

「そろそろ、父上が帰ってこられる頃だから。温かくして、よく休んで」

本当はもっと一緒にいたかったが、主がいるだけで、仕える者は緊張する。ハンナに負担はかけたくなかった。

「ありがとうございます。次代様も、どうぞご自愛くださいませ」

微笑んで頷くと、部屋をあとにした。


給仕達の手前、おやという体裁で進んだ夕食は、とても静かなものだった。このあと二人きりになると思うと気が重く、騎士舎の賑やかな食堂が恋しくなった。

伯父の執務室に入ると、習慣通りには座らず、ソファの手前で立ったまま切り出す。

「――伯父上」

控えて、着席を待っていた伯父の顔が固まる。口を開く前に、早口で畳みかける。

「俺は成人しました。騎士としてはまだ駆け出しですが、もう保護が必要な子供ではありません。フォルティス家直系嫡子としての務めは果たします。ですからどうか、せめて伯父と甥として、接していただけませんか」

言いきって、無意識に気が緩む。

ずっと言おうと決めていた。解放されたいと願って、この時をひたすら待っていた。

「……それは――諦める、という意味でしょうか」

地の底から轟くような、重く低い声。直感的に、身を引こうとする。

しかし、巨大な体躯が崩れるようにひれ伏し、がっしりと足首を掴んだ。あまりの勢いに倒れかける。腹に力を入れ、すんでのところで踏みとどまった。

瞳孔が狭まって、血走った群青の双眸。人とは思えない恐ろしい形相に、息が止まる。

「幼少のみぎりからずっとお育て申し上げたのは、あの穢れたおやを廃し、正統な真夜の王として殿下に御即位いただくためッ! 卑しい真昼の娘に明け渡すためではございません! なぜ諦めると仰るのですか⁉ 我がフォルティス家の屈辱を、最もご理解いただいていたのは、殿下ではないのですかッ!」

猛り狂って絶叫し、意味をなさない言葉でまくし立てる。怒声が耳をつんざく。

呼吸が浅く速くなる。涙が滲んでいるのに明瞭な視界。

筆舌しがたい恐ろしい生き物が、足を掴んでいる。早く逃げなくてはと思うのに、身体が竦んで動かない。混乱する頭の中で、必死に考える。

と、不意に、講義室の風景が閃く。まだ騎士見習いだった頃の、座学の時間。

(――そうだ……呼吸を深くして、心を落ち着ける……)

目を閉じる。意識を、腹の底に沈めるように深く吸う。ゆっくりと、緩やかに吐き出す。

轟く声が、遠ざかる。何度も、何度も、よしと思えるまで、繰り返す。

やるべきことが心に浮ぶ。冷え冷えとした思いが、胸に広がった。

低く、重々しく、口を開いた。

「……クレメンス。黙れ」

はたと絶叫がやむ。怒りの形相が、みるみる畏怖に萎縮する。その様を無感動に見つめながら、淡々と続ける。

「戯れを言っただけだ。真に受けるな。愚か者め」

「……も、申し訳ございません……っ!」

手が外れる。床にぬかづき平伏する、縮こまった巨躯。

様子を観察しつつ、少しずつ下がる。後ろ手に扉を開けると、閉める時間も惜しく、一目散に自室へと駆け出した。


居室から寝室へと続く扉を、力任せに開けて閉める。

ベルトを外し、丈の長い上衣を脱いで、その下の綿入りの衣も脱ぐ。歩いた軌跡に、点々と投げつけた衣服が散らばる。

長袖の綿の肌着と下衣だけになって、短靴を放り投げると、寝台に飛び込んだ。すかさず、分厚い布団の中に潜る。

(もう嫌だ……)

どうして伯父は、ああなのだろう。もどかしさとも悔しさとも言えない苦しさが、胸を食む。

子供の頃から散々語り聞かされてきたから、事情はよく理解している。おぞましい体験をしたことも、多少は同情する。神の負託のない真昼の民が即位するなんて、確かに神に悖る、とんでもないことだ。

それでも、ルキウス前王太子の嫡子だという証拠は、どこにもない。

神眼石のことが、常に頭にちらついたが、王家直系の嫡子しか、その姿形も、真贋を確かめる方法も知らない。

六貴族に伝わるのは、創世神話から、おそらく眼に似た宝玉で、漆黒の宝剣の縛めを解くのに必要らしい、ということのみだ。そんな状況で、大切な父の形見を、他人の目に晒したくはなかった。

それに、仮に真実だとして、その先にあるのは、決して明るい未来ではない。具体的なことを考えそうになって、慌てて思考を止める。

布団が暖まってきた。気力を振り絞ったせいか、眠気が急激にやってくる。うとうとしながら、朧気に思う。

(明日の朝早くに発って、帰ろう……)

どうせ伯父は職務でいないのだ。ハンナが元気なら、札遊びなどもできたが、それも無理だ。義伯母は、引き取られる前に還っている。この屋敷に話すべき人は、誰もいなかった。

家族のいない広い屋敷でただ一人きり、狂い壊れていった伯父。そして、それを父と仰ぎ、その身分に縋るしか、誓いを守れない自分。

名を呼ぶ声が、心に響く。鈴を転がすような、愛らしい声。いとおしい声。

その弾ける笑顔を最後に、眠りへと落ちていった。


宿舎の外に出ると、真冬の冴えた冷気が肌を刺す。身震いして、下ろしていた外套の覆いを頭に被せると、総帥正門に向かって歩き出した。

(全く――なんだって、あんなに書類ばっかりなんだ……)

毎日のように、大量に積まれる紙の束。存在するだけで、即刻放り出して帰りたい気持ちに駆られる。なんとかこなせているのは、ブラッツの凍てつく怒りを避けたい一心で、必死に励むからだ。

自宅には、愛する妻と可愛い子供達が待っている。できれば帰りたかったが、昨夜はあまりにも遅くなってしまったから、騎士舎の宿舎に泊まることにしたのだ。

午後からまた勤務だが、子供達と遊びたかったし、妻の温かな肌を感じたかった。

命を生み出す神の支配の及ばない朝に行為をすることは、神に悖るとされている。しかし、夜勤のある職務では、無理な話である。当然、我慢などできるはずもなく、そのおかげか、子宝には恵まれた。

雪かきされた石畳の道を歩いていると、門番に騎士証を見せている少年の姿があった。

フェリックスだ。帰舎時間は今日の夕方なのに、どうしたことだろう。

門番が確認して返したのを受け取って、こちらを振り返る。一瞬、顔に気まずそうな色が閃く。しかしすぐに、微笑んで挨拶した。

「おはようございます、うえ。これから帰られるんですか?」

並ぶと、目線が同じ高さになる。あと数年したら、追い越してしまうだろう。

研究を務めとするシエンティア家出身で、軍事を担うフォルティス家にかなうはずもないが、中身はまだ子供なのになあ、と大人げないことをつい考えてしまう。

何かあったかと尋ねると、一気に表情が曇る。俯いて、小さな声が返ってきた。

「父上は今日、職務でいらっしゃらないので……ハンナも風邪をひいて、臥せっていますから」

義父は、今夜も帰るはずだが、折り合いがよくないことは、薄々察していたから、納得する。

しかし、それ以外の理由もあるのだろうと思うと、哀れでならなかった。

逸れて揺れる、紺青の瞳。かつての主君に、年々似てくる顔立ち。心中で溜め息をつく。

うえは、この子をどうするつもりなんだろうな……)

年嵩の者が、フェリックスを見れば、おそらく同じ人物を思い浮かべる。気づいている六貴族もいるだろうが、義父の手中にあり、意図が見えない。

真昼の民が即位することは、神の負託に悖る。かといって、真偽の定かでないものに手を出して、万が一王の不興を買えば、それこそまたひと騒ぎ起きる。そういう心情が、静観させているのだろう。

本当は、この直情的だが気持ちの優しい少年の力になりたかったが、他家出身の婿の立場では、婿入り先の事情に、気軽に立ち入ることはできない。ただ見守りながら、義兄として上官として、導いてやるしかなかった。

「なら、俺の家に来い」

予想外だったのか、戸惑ったように口ごもる。にやりと笑い、あえて含みをたっぷり持たせて話す。

「ちょうど、子守りを探していたところだ。ヴィクトリアと二人きりで、温まりたくてな」

一瞬、顔に疑問符が浮かび、それから真っ赤になって絶句する。娼館に通い始めて二年経つはずなのに、初々しい反応で何よりだ。

歩き出し、ついてこないので振り返る。

「ほら、さっさとしないと置いていくぞ」

「……っ本当に、義兄上は、馬鹿なことばっかり……!」

すぐに言い返せなくて、悔しかったのだろう。駆け出して追いつこうとする。下を見ればいいものを、わざわざ鉄扉の敷居を踏んで滑り――鮮やかに受け身を取った。

近づいて、見下ろしてやる。

「鍛練の成果が活かされたな」

「姉上にっ……言いつけますから!」

羞恥と寒さで顔を真っ赤にしながら、苦々しく吐き出す様。

できるものならな、と鼻で笑って返すと、ぐっと言葉に詰まる。

そこにはもう、先刻までの暗い表情はなかった。安堵した心中は一切見せず、歩き出す。フェリックスが追いついて、隣に並ぶ。

よく晴れた冬の朝の空が、高く冴え渡っていた。

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