縛めの言葉②
短い夏の始まる頃。開け放した窓から、昼前の爽やかな風が渡っていく。薄絹の窓掛けが翻り、明るい初夏の日差しが、緩やかに陰影を形づくる。
頬杖をついて、文字がびっしりと敷き詰められた紙面を眺める。
軍の罰則をまとめた規則書。直系嫡子として、ゆくゆくは総帥になる身だ。一年に一度は、軍規や団規等の規則書に、目を通すことにしていた。
特に、処罰の決定は、主家の専権事項である。エルドウィンに頼るわけにもいかず、重要な項目は諳んじられるよう、頭に叩き込まなければならなかった。
堅苦しい単語の羅列。説明を尽くした、まわりくどい文体。だいぶ飽きてきたところで、目が止まる。
――第一一七条。男と性的な行為に及んだ者について。
少し前までは、気色悪いと読み飛ばしていた条文。親友の思いに応えられないかと突っ走って一気に読み、打ちのめされたのだった。
改めて通読し、努力すらできないことがあるのだと、鋭い痛みが心を刺す。そっと、扉を挟んだ隣で、机に向かう親友の横顔を見遣る。
筆記具の走る、軽やかな音に合わせて紡がれる鼻歌。天板についた肘の傍らには、解き終えた答案用紙。昨日出された課題に、早々に音を上げた自分のために、解説を作ってくれているのだ。
いつもと変わらない、平凡な日常。一方で、晩冬に〈仮初めの奥方〉をもらった親友の、極端に少ない外泊。互いに状況を察していて、それでもエルドウィンは何も言わない。
ただ変わらず傍にいること。それが、親友の望むことなのだと、切なく実感していた。
はたと、新緑の瞳と視線が合う。目顔で問われて、おどけた口調で苦笑する。
「なんかもう、さすがに飽きてきてさ。せっかく晴れてるし、外に出ようよ」
「それ、今週中に読まないと、間に合わないんじゃなかったの?」
仕方ないなあ、といった声音。困ったように、眉根を寄せながら微笑む、秀麗な顔。紙面にさっと視線を走らせ、机に向き直って答える。
「ちょっと待ってて。あと少しだから」
頷いて、礼を言う。
最後の数行だったらしく、さして待たずに、終わったと声がかかった。
「何する?」
「体術の手合わせしようよ。久しぶりにさ」
本当は剣術がよかったが、稽古以外で防具や木剣を借りるには、申請が必要だ。
エルドウィンの言う通り、規則書の通読の目標が未達成だし、明日は早番だから、課題の解説も、今日中に聴いておかなければならない。
体術なら、身ひとつあればできる。手早く気分転換するには、ちょうどよかった。
「いいよ。――あ、負けた方はどうする?」
「購買で、飲み物かお菓子ひとつ!」
威勢よく断言すると、楽しげな笑みが広がる。初夏の明るい陽光に輝く、新緑の瞳。
大切な親友との平凡な日常が、いつまでも続くようにと、そっと願って、連れ立って部屋をあとにした。
「え、ちょっと待って!」
「だめ。はい、終わり」
黒い駒が、白い駒に弾かれる。倒れた駒が盤面に叩きつけられ、堅い木の音が、軽やかに響く。無情にも転がる駒。悔しさが湧いてきて、卓に突っ伏す。
励まされて、顔だけ上げ、感想戦をする穏和な声を聴く。
「やっぱりそこかあ……」
「途中まではよかったのにね。こうされてたら、結構危なかったかも」
思いつきもしなかった一手。がっくりと、肩を落とす。
せっかく連勝していたというのに、優秀な親友は、あっという間に一歩先を行ってしまう。
従家として、補佐官の務めを果たすためとはいえ、その並々ならぬ才覚と努力に、全く頭が上がらない。助けられてばかりで、何もできない自分が歯痒かった。
様々な手を解説する声を、唸りながら聴いていると、甲高い鐘の音が二回鳴った。そろそろ消灯の時間だ。
はっとして、親友が立ち上がる。首を傾げると、少し困ったような表情に出会う。
「……ご長姉の嫡子様に呼ばれたから、ちょっと行ってくるね」
意外な言葉に、訝しく思う。こんな消灯間際の時間に、一体何だというのだろう。
「でも、鐘が鳴ったのに。わざわざ付き合わなくても、俺が明日聞いておくよ」
相手の母親は、伯父の姉だ。傍系だから、直系の自分が対応すれば、エルドウィンに文句は言えない。
この前、自分のせいで、懲罰に巻き込んでしまった。今はなるべく目立たないようにしなければいけないのに、消灯後に厠以外で出歩いていると知れれば、また罰を受けることになる。そんな危険を冒してまで、果たすほどの用事があるとは思えなかった。
少し逡巡するように、新緑の瞳が微かに揺れる。しかし、ゆるゆると
「主家様に言いつかったら、守らないと。たぶん、そんなにかからないと思う」
木製の衣服掛けに吊るした羽織を取って、寝巻きの上に着る姿。支度する背中を眺めながら、従兄を思う。
細やかに気がつき、的確に指導してくれて、先輩騎士として尊敬していた。まだ従騎士の自分にはわからない用向きがあるのだろうと、思い直す。
扉の持ち手を握った背中に、声をかける。
「寮監に見つからないようにな」
「うん。行ってくる」
淡い微笑みを残して、扉が閉まった。
*
初めて目にしたのは、真冬の寒さの凍てつく日だった。
泣き叫ぶ子供の悲鳴。何事かと、声のする方に足を向けると、主家の嫡子が、けたけた嗤いながら、女の子を蹴り飛ばしていた。
暗がりの中、背を丸めて、ひたすらに謝る憐れな姿。金褐色の髪と碧色の瞳。その子が、愛するひととの大切な我が子だと気づいて、全てが張り裂けそうに苦しかった。
しかし、助けようにも、従家の身では為す術もない。こと、真昼の民を家畜以下と蔑む、あの非情な悪童相手では。
周囲を見渡すものの、レガリス隊の騎士達の姿はどこにもない。強いられて穢れた腹から生まれた子よ、と侮っているのだろうか。
総帥とレクス隊がしっかりしていれば、いとしいひとが、あの鬼畜な男に手篭めにされることもなかったというのに。
ぎりぎりと、歯を食い縛る。憤怒に震えた涙が、とめどなく溢れていく。
痛いと叫ぶ哀れな声と悲泣に濡れた顔を、目に焼きつけて、憎悪の炎を燃やした。
あれから一年半余り。今、嫡子の前に
「お願いでございます! これ以上、我が娘を虐げることはおやめくださいませ!」
「たのみがあるっていうから、何だと思ったら、そんなことか」
頭を靴底でこづく感触。察して顔を上げると、顎に足が差し入れられる。喉に爪先が刺さって、耐えきれず呻く。
「しいたげる? 下賎な真昼の娘にはちょうどいいだろ。王位をつぐなら、陛下のおいであるこのぼくが、ふさわしいっていうのに」
「……っで、ですが……!」
視界が急激にぶれ、歯と頬骨に、強烈な痛みが走る。間髪入れず、逆方向に振れる。
激しい眩暈に崩れ落ち、明滅する歪んだ景色を見つめる。立ち上がる靴音。こめかみに、靴底の硬い感触。ぎりぎりと押しつけられて、たまらず叫ぶ。
「ああ? 真昼のくせに、真夜に口答えするの? 昼の世界しか知らない、いやしいクズのくせに!」
全体重をかけられて絶叫する。耳元で、板張りの床の軋む音がする。苦痛に喘ぎながら、ひたすらに乞う。
「おっ、お許しを! どうかっ……どうか、お許しくださいませッ――!」
鼻で嗤う声。
と、足の重みがなくなって、脱力する。激痛の鳴り響く頭を労りながら、なんとか再び額づく。
「今度また、くだらないことを言ったら、ただじゃおかないからね」
「……重々承知しております――ご無礼を申し上げまして、誠に申し訳ございませんでした……」
靴音が、遠ざかっていく。扉が開いて閉まる音。悔しさと憤りに、身体が打ち震える。
ようやく今年十一歳になろうという少年に、情けなく許しを乞わねばならない我が身が、みじめでならなかった。そして、愛するひととの大切な娘を貶めて虐げる者達を、激しく憎んだ。
(真夜さえいなければ……! 私の美しいひとと娘を奪って壊した、あの者共さえいなければ――ッ!)
猛り狂う炎を燃え立たせるように、全てを振り絞って慟哭した。
*
ゆっくりと、意識が浮上する。微睡んだ頭に、泣く声が響く。誰だろうかとぼんやり考えていると、はっきりと言葉が形を為して、鼓膜を震わせる。
「……嫌だ! 離してっ! もうやめて!」
一気に覚めて跳ね起きる。反対側の壁際。寝台で、親友が苦しみもがいていた。内履きを履くのももどかしく、裸足のまま駆け寄る。
「――エルド……!」
名を何度も呼んで、肩を揺すり、頬を叩く。
拒絶し、中止を乞う言葉。親友が、どんな仕打ちを受けてきたのか、察せられてたまらなかった。必死に呼びかける。
「エルド、起きろ! 夢だからっ!」
はっと、目が見開かれる。
涙に濡れた新緑と、視線が合う。苦しみに喘ぐ声が漏れる。
「――フェリックス……僕……ぼくっ……」
「大丈夫。大丈夫だよ、エルド。あいつは結婚で引っ越して、もういないだろ。二度と、呼ばれることはないんだから」
強く抱き締めて、穏やかに囁く。寝巻きにしがみつく手が震えている。うん、と何度も頷きながら、嗚咽する声。たまらない気持ちで、背中をさする。
終礼のあと、騎士舎に帰ろうとしたところで、エルドウィンが従兄に声をかけられた。
普段なら、職務が終われば、近衛騎士の隊議と従騎士の終礼で分かれるのに、今日ばかりは、副長の代理で居座っていた。
いつもと変わらない穏和な表情で応える、親友の横顔。
きっと端から見れば、先輩から当番の総括を受ける後輩という、ごくありふれた風景にしか映らなかっただろう。それだけ自制心のある親友の手が、いつの間にか縋るように、騎士服の袖を掴んでいた。
布越しに伝わる、細かな震え。無意識の本心を支えるように、手を重ねた。藍色の双眸を睨み据えると、鼻で淡く苦笑しながら、来月に異動するから安心しろ、と告げられた。
(あいつがいなくなったら……)
この優しく穏和な親友が、悪夢に苛まれることも、なくなるだろうか。身体を暴かれた傷も、少しずつ癒えるだろうか。
仕打ちに気づいて、従兄と相対した晩夏の朝。欲しかったからだと、淡々と語る低い声。
ほしいままに貪る姿は、鏡に映った自分だった。受け止める側のむごさを改めて突きつけられて、苦しくてたまらないのに、約束を強いて壊す夜から、抜け出せないでいる。
(……俺は……あいつのように、手放せない……)
悲泣に震える親友の声を聴きながら、心に広がる暗い淵を、沈む気持ちで見つめた。
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