託された血②

初めて見たのは、五歳の時だった。

踏み台に乗って、皿洗いを手伝っていると、父から来るよう声をかけられた。

母が頷いたので、台からすかさず降りて駆け寄る。今日は遅めの出勤だから、夕食も一緒で、ただでさえ嬉しかったのに、冬の冷たい皿洗いから解放されて、本当に最高だった。

部屋に着くと、並んで寝台に座った。父が、真剣な顔で、静かに告げる。

「いいか、フェリックス。これから話すことは、絶対に誰にも話してはいけないよ。もちろん、母さんにもね」

初めて見る、父の真摯で深い表情。思わず頷く。

父は、服の胸元を少し緩めて、細い銀の鎖を取り出した。どうやら首飾りのようで、宝石が提がっているであろう部分は、口が固く閉められた、黒い袋で覆われていた。

袋の紐をほどいて外すと、黒地の中央に、紺と青の丸い縞模様の入った、小さな石が現れた。楕円形をしていて、銀の台座が取りつけられている。

首から鎖を外して、石を手に乗せると、父が言った。

「これはな、神眼石というんだ」

「しんがんせき?」

「漆黒の神様の眼の石、という意味だよ」

満月の光に照らされた石を、よく眺めてみる。確かに、模様が眼のように見えた。

「漆黒の神様が片眼なのは、お前も絵本で読んで、よく知ってるだろう。真夜の民が、昼の世界に行く時に贈ってくださった、もう一方の眼がこれだ」

驚いて、まじまじと眺める。確かに、とても綺麗だけれど、こんな石が神様の片眼だなんて、とても信じられなかった。

穴が空くほど見ていたからだろう。父の表情が、少し緩んだ。

「信じられないか? でも、本当なんだ。父さんの父さんの、そのまた父さん――ずっと昔の祖先様から、代々受け継いできた。漆黒の神様から頂いた、大切な宝物なんだよ」

真っ直ぐに見つめてくる、紺青の瞳。噛んで含めるように、父が語る。

「だから、決して人に見せてはいけない。この宝物が、どんな姿をしているか、話してはならない。持っていることも、決して。そして、漆黒の神様の眼だから、絶対に日の光に晒してはいけないよ。必ず袋に入れて、首に提げて肌身離さず、大切に持ち歩くんだ」

ひとつひとつ頷く。これだけ言うのだから、きっとくれるんだ、と嬉しい気持ちになったが、

「十七歳で成人したら、お祝いにあげよう」

と、袋に入れて、服の中に仕舞ってしまった。

それから、折りを見ては、同じことを繰り返し告げられた。どうしてそんなことをするのか、父は教えてくれなかったが、漆黒の神様の綺麗な片眼を見られるのは、とても楽しみだった。

ある日、どうしても母に教えたくなって、話そうとした。そうしたら、急に口を塞がれて、びっくりするほど怖い顔で、酷く怒られた。

あまりの恐ろしさに声を上げて泣いたが、母は抱き締めてはくれなかった。あとにも先にも、あれほど激怒した母は見たことがない。本当に悪いことなんだ、と怖いくらい骨身に沁みた。


        *


火事の翌朝、両親のいない寂しい食事を終えたあと、クレメンスが訪れた。

大仰に挨拶すると、話がしたいので座ってもいいかと、尋ねてきた。もちろん拒否なんてとんでもないことだったので、対面を勧める。

そうして、巨大な身体をソファに沈めて、探していた理由を語り出した。


王家ノクサートラ家は、かつてないほど穢されている。悲劇は、ルキウス前王太子一家が事故死し、当代の王が即位したことから始まった。

次男であった王は、兄である前王太子に比べて、大人しく目立たない存在だった。神の恩寵の証の紛失により、正式な立太子式を行わずに即位した上、気弱で優柔不断な頼りない王を、六貴族の当主達は早々に見限った。王は、ほとんど飾り物だった。

即位からほどなくして、王はある女人を見初めた。名をアグネス・クラーラ・コンシリウムといって、宰相であるカンチェラリウス家直系当主の次妹であった。王妃となるには、十分な血筋である。

しかし、アグネスには、すでに所有する主人がいた。瞳は真夜の青色ながら、髪は真昼の栗色だったため、従家のコンシリウム家に、〈暁の家人〉として下賜されていたのだ。

六貴族は、総じて真夜の民である。真夜の民でなければ、漆黒の神が定めた通り、王を支える柱にはなれない。

そのため、真夜と真昼の狭間に生まれた者は、主家である六貴族から従家に下賜され、〈真夜から真昼に移る〉という意味で、〈暁の家人〉と呼ばれた。そして、高い身分の出自から、多くの者が、侍従や侍女として王家に仕えていた。

アグネスは下賜されて以降、主人である直系当主ワルター・カーサ・コンシリウムたっての希望で、出仕していなかった。しかし、ルキウス前王太子の急逝に伴う対応で、一時的に人員が足りなくなり、王付きの侍女として、急遽出仕することになったのである。

王は、美しくしとやかなアグネスに、激しく恋慕し求婚したが、〈暁の家人〉は従家の所有物である。当然、叶うはずもなかった。

耐えかねた王は、アグネスと強引に夫婦となり、六貴族の当主達に、結婚を承認するよう迫った。当然ながら、王妃となる者は、真夜の民でなければならない。〈暁の家人〉など、言語道断であった。

六貴族の当主達は猛反対し、知略を巡らせて、アグネスを隠した。すると、激怒した王が、当時の宰相を灯火台で殴り、宰相は目覚めないまま、一ヵ月後に還ってしまった。

王は狂ったと、当主達は悟り恐れた。結局、アグネスの家系登録を生家であるカンチェラリウス家に戻す、という異例の措置をとって、王との結婚が為された。

しかし、問題はここからだった。

アグネスは、すでにワルターの子を身籠っており、結婚後ほどなくして、女児が生まれた。当然、真夜の容姿ではなく、髪は褐色の差した金色で、瞳は緑と青の混ざった碧色であった。一目で真昼と暁の混血とわかる姿は、まさしく卑しい身分のそれだった。

そもそも、〈暁の家人〉の子は、主人である従家の下男や下女となるのが通例である。六貴族の当主達は、慣習通り、コンシリウム家に引き渡すものと思っていた。

ところが、王は、生まれた子は夫婦になった時に授かった紛れもない我が子で、正真正銘王女である、と言い張った。当主達は、還らされた宰相を思い出し、これ以上反発すれば、また犠牲者が出ると、苦渋の決断をした。

女児は、アメリアと名づけられた。そして、六貴族の当主達の密かな願いも虚しく、王女として、すくすくと健康に育っている。

王位は、神の寵愛を受けた正統な真夜の王家によって、継承されなければならない。頼みの綱は、事故死したとされるルキウス前王太子だった。

一家三人を乗せた馬車は、雪解けで増水した河に転落した。大規模な捜索が行われたが、結局、遺体は見つからなかった。早春の河は急流になる。彼方に流されてしまったのだろうと結論づけられ、実際に見た者は誰もいない。

果断な前王太子のことだ。きっと逃れて、身を隠しているにちがいない。一縷の望みをかけて、密かに捜索が開始された。


壮大な物語のような話に、茫然とする。

前王太子が事故で還ったことと、王妃が病がちで表に出られないことは、周知の事実だったし、王女は平民と同じ混血の真昼の姿であると、噂になって広まっていたから、事情は何となく知っていた。そこに、まさかこんな裏側があったとは。わからないところは多くあったが、驚くには十分だった。

ひとつ深く呼吸して、クレメンスが言葉を継ぐ。

「御父上から、受け継いだものはございませんか? 何か――その、宝石のようなものを」

胸元に提がる首飾り。もしかして、と思う。父から受け継いだ高価そうな品といえば、神眼石しかない。

しかし、父の言いつけがある。軽々しく口にするわけにはいかなかった。

黙って首を傾げていると、クレメンスが説明し始めた。

「王家の嫡子にのみ、伝えられる宝がございます。御夜みよが、餞として贈られた片方の御眼です。漆黒の剣とともに神の恩寵の証とされ、それがあれば、間違いなく出自を証明できるのでございます」

一瞬、言おうか迷う。父は、神眼石は漆黒の神様から頂いたものだと、話していた。

しかし、叱られて、酷く怖い思いをしたことを思い出す。

普段は滅多に声を荒げることのない母でさえ、あれほど激怒したのだ。伯父と名乗っているとはいえ、昨日会ったばかりの人を相手に口にするなんて、もってのほかだった。それに、もし違っていたら、父との約束を破って、ただ悪事をしただけになってしまう。

結局、知らないと通した。


学舎に行くことも、小遣い稼ぎに館や酒場の遣いに走ることもない生活に、最初は落ち着かない気持ちだったが、好きに過ごしていいと言われたので、満喫することにした。

屋敷には、大きな図書室があり、直系当主が総帥を務めるフォルティス家らしく、騎士の心構えや戦術の入門書、剣術の型の図解など、軍事や騎士に関する蔵書が、数多く収められていた。難しい言葉は、子供向けの辞書を引きながら、夢中になって読んだ。

散歩には、必ずハンナがついてきたものの、母のように温かく見守ってくれるので、むしろ一緒にいてくれる方が、嬉しいくらいだった。

ハンナは、軍事の知識が深く、廊下に飾られた甲冑や宝剣の由来と歴史を、たくさん教えてくれた。従家直系当主の妹だと自己紹介された時、金色の髪ではないエクエスさまもいるんだなあ、と思ったが、なんとなく尋ねてはいけない気がして、そのままにした。

茶褐色の髪のハンナが、その髪色から結婚できず、主家であるフォルティス家の下女として働いているのだと知ったのは、しばらくあとのことである。

時折、両親のいない寂しさに一人泣くこともあったが、優しく聡いハンナのおかげで、ずいぶん慰められた。クレメンスに、人目のない時は王子として振る舞うよう、強く要望されて困る以外は、おおむね穏やかな日々が過ぎていった。


火事から一ヵ月半経ったある日、クレメンスが、二枚の書類を持って訪ねてきた。

銀箔の施された綺麗な厚紙にいろいろ書いてあるが、知らない単語が多い。かろうじて、自分とクレメンスの名が書いてあることだけわかった。

書類を手で示しながら、クレメンスが説明する。

「こちらは、殿下の戸籍証明書と家系登録完了証でございます。誠に僭越ながら、私の実子であり長男――つまり、フォルティス家直系嫡子として、登録させていただきました」

驚いて、書面から顔を上げる。クレメンスが、心底申し訳なさそうに言葉を継ぐ。

「ルキウス王太子がお還りになり、恩寵の証がない以上、殿下の出自を客観的に証明するものがございません」

父は死んだのだという思いが、胸を刺す。わかってはいたものの、改めて他人から言われると、悲しい実感が湧く。

「しかし、殿下には、しかるべき教育を受けていただきたく存じます。本来の御身分に沿った――とは、とても申し上げられませんが、フォルティス家は、王家と親族にある王族。六貴族においては、最高格のひとつにございます。御身の将来を鑑みれば、このまま隠れてお暮しになるよりかは、よろしいかと」

確かにそうかもしれないと思った。出自については全く信じていないが、教育を受けなければ、大人になった時に働くことができない。

六貴族と従家を相手に商売をするフロス街では、高い教養と王宮の言葉に対応できる語学力、専門知識もしくは技術が求められる。平民でありながら、高等教育を受けられる学舎があるのも、そうした理由だった。

だから、今帰ったところで、奉公にも出られない八歳の子供に働き口はない。

幼馴染みのトリーナの家は隣だから、きっと焼けてしまっている。しかも、出火元は自分の家だ。頼るわけにはいかなかった。

「なるほど。わかった」

クレメンスに教えられた通り、王子然とした言葉遣いで答える。

こんな口を年長者に利いたら、きっと父も母も怒るだろう。そう思いながらも、置いてもらう身では、飲み込むしかなかった。

クレメンスは丁重に礼を言うと、ソファから降り、跪いて頭を垂れた。

「このような粗末な屋敷でお過ごしいただくのは、大変恐縮ではございますが、私が総帥の権限を総動員し、全身全霊をもって、恩寵の証をお探しいたします。殿下におかれましては、どうか御心安くお過ごしいただきますよう――」

と、言葉が途切れる。呼吸が荒くなっていき、えらの張った顔が、みるみるうちに憤怒と苦痛に染まっていく。

強い歯ぎしりの音。苦々しく呻く、重く低い声。

「――せめて……! せめて恩寵の証さえあればッ……!」

突然の激昂に身を引く。思わず胸元に手を当ててしまう。神眼石の、硬い感触。父の真摯な声が、心に反響する。きつく口を引き結んだ。

何も言わずにいると、クレメンスが、おもむろに落ち着きを取り戻していく。非礼を詫びると、元の調子で話し始めた。

「こちらでお過ごしいただく上で、何卒ご容赦賜りたいことがございます。戸籍上は実の親子でございますので、大変御不快とは存じますが、他の者の前では、そのような態度を取らせていただきます」

「わかった」

短く答えて、しっかりと頷く。ほっとしたように、クレメンスの顔が少し緩む。それを見計らって尋ねる。

「なんと呼べば?」

まさか平民と同じ呼び方をするとは思えなかったので、念のため確認する。

「誠に畏れながら――父上と。六貴族の子息は、父親をそう呼びます」

朧気な父の面影を思う。行儀には厳しかったが、優しく穏やかだった父。命を賭して、守ってくれた父。

同じ父でもずいぶん違うものだと、冷えた気持ちで思った。

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