暁の月

清水朝基

第一章

託された血①



1 託された血



よく晴れた冬の朝。青く冴えた空の下、月一回の古本市が開かれていた。行商人が、石畳の模様に沿って厚い絨毯を敷き、様々な分野の古本を扱っている。色とりどりの表紙に目を奪われながら、ふと、ある露店で足を止める。物語専門の行商人だ。

絨毯の前にしゃがみ込んで、題名をさらっていく。今日は父が、定期試験のご褒美に一冊買ってくれるというから、選ぶのに自然と気合いが入った。読んだことのあるもの、興味のないものを弾いていく。そして、壮麗な装飾の施された表紙に、目が止まった。

(――あ! 騎士道物語だ!)

王宮物や冒険物など、舞台は様々だが、どれも格好よく悪者を成敗していて、読む度にわくわくした。弱き者を守る強い騎士は、まさに憧れの存在だった。

しかし、値段を見て、弾んだ気持ちは一気にしおれる。本の中でも、かなり高価な部類だ。貧乏ではないが、決して裕福でないことはよくわかっていたから、ねだるのは気が引けた。

それでも、諦めきれずに表紙をじっと見ていると、店主が声をかけてきた。

「それが、気になるかい?」

顔を上げると、長い金色の睫毛に縁取られた、明緑の瞳に出会う。

冬の露天で寒いのだろう。外套の頭覆いを被って、影になっていたが、びっくりするほど綺麗な男の人だった。呆気に取られて固まる。

(……従家さまみたいだ……)

朝の早い時間や夕方になると、街で見かける。フォルティス家の従家エクエス家は、美形揃いで、遠目で見てもよくわかる。騎士然とした立ち振舞いに、否応なしに憧れが募った。

「私の顔に、何かついているかな?」

あまりにも凝視しすぎたのだろう。にこにこと、微笑みながら問われる。はっとして、慌てて謝る。

「ごめんなさいっ! あんまりにもきれいな顔で、びっくりしちゃって……」

「そうかい。それはありがとう」

店主が、愉快そうに笑う。その笑顔も、本当に綺麗で、思わず見惚れてしまう。

「おじさんって、エクエスさまみたいだね。だって、男の人でこんなにきれいなの、エクエスさま以外、見たことないもん」

「へえ、近くで見たことがあるのかい?」

意外そうに、店主が尋ねる。

フォルティス家やエクエス家の騎士や軍の兵士の館が集まる、このフロス街マニュルム地区では当たり前のことだが、行商人には珍しいのかもしれない。

「うん、よく見るよ! 父さんが、フォルティスさまの館の警備をしているから、たまに酒場とかにおつかいに行くんだ。しつれいのないように、ちゃんとおぼえなさいって、父さんに言われてるから」

そこまで言って、ふと気づく。店主の顔を、どこかで見た気がしたのだ。つい最近、遣いで行った酒場で見たような。

疑問を発する前に、背後で父の声がした。

「フェリックス、決まったか?」

「父さん! あ、えっとね……」

言い出しにくくて口ごもる。店主が顔を上げて、父にいらっしゃいと声をかけた。

と、驚いた表情で、父の顔を見つめる。父も、口を開けたまま固まっている。不思議に思いながら見ていると、店主が急に明るい声を出した。

「いやあ、お久しぶりですね! やっと、お探しの本が手に入ったんですよ! ちょっと、状態を見てもらえますか?」

その声に、弾かれたように、父がいつもの顔に戻った。礼を言いつつ、先程までずっと凝視していた騎士道物語の本を受け取る。

最初は、ぱらぱらと軽く確認するだけだったのに、ある一点で止まってから、急に動かなくなった。真剣に、一心に読んでいる。それから本を閉じると、店主に言った。

「うん、悪くないですね――ではこれを。それと、また頼みたい本があるんですが」

「ありがとうございます。では、こちらにご記入をお願いします」

注文票なのだろう。紙と筆記具を受け取って書きつけ、店主に返す。そして、値段を尋ねて、驚きもせずにあっさり支払った。あんなに悩んでいたのが、少し恥ずかしい。

綺麗な顔に満面の笑みを湛えながら、店主が言う。

「その本を、息子さんはずっと見ていたんですよ。――よかったねえ、坊や」

そして、こちらを見て、にっこりと笑う。父が笑んで答える。

「やっぱりそうでしたか。この子は、騎士道物語が大好きなんですよ。よく棒切れを剣に見立てて、遊んでまして」

「それは、それは……御母上の血ですね――」

感慨深げに、店主が呟く。母と騎士道物語とが結びつかなくて、首を傾げていると、父も心から幸せそうに頷いた。

「本当に――私も嬉しいよ」

普段とは違う口調。見たことのない表情。

(へんなの……)

奇妙に思ったが、本を渡された瞬間、そんなことは吹き飛んだ。大きな声で礼を言うと、普段の優しい父の笑顔で、頭を撫でてくれた。


しかし、それから父が家にいることは、少なくなった。

館の警備は、夕方から明け方までが一番忙しいから、昼は必ず家族三人で食べていたのに、食卓で父を見かけることはなくなった。

母に理由を尋ねても、仕事が忙しいのだと言って、詳しくは教えてくれなかった。


小さな本棚から、父が買ってくれた騎士道物語の本を取り出す。

この前の古本市の時には、まだ読みかけの本があって、途中で放り出すのは、なんとなくしっくりこなかったから、我慢して取っておいたのだ。一ヵ月かけてやっと読みきって、ようやくこの本が読める。幼馴染みのトリーナに、遊ぼうと誘われたが、わざわざ断ったくらい、楽しみで仕方なかった。

寝台に膝を曲げて座り、腿の上に分厚い本を置いて、読み始める。階下で遠く、まな板の音が聞こえる。しかし、あっという間に引き込まれて、何も聞こえなくなった。

物語は、誰もがよく知りそらんじられる、この世界の創世神話から始まっていた。


原初、世界は〈無〉であった。

ある時、無から裂け目が生まれ、そこから漆黒に輝く雫が垂れ落ちた。雫は平らかに広がり、大地となった。多く垂れたところは山となり、少なく垂れたところは谷となった。

やがて、裂け目はゆっくりと広がっていき、そこから小さな雫が降り注いだ。雫は谷に溜まって、湖となり、河となった。

裂け目から、一際大きな雫がいくつか垂れ落ちた。小さなもの、大きなもの、四つ足のもの、羽のあるもの、毛皮のあるもの、様々なものが生まれた。この時、二つ足のものとして、人が生まれた。

裂け目から生まれたもの達は、そこから覗く漆黒の光を〈神〉と呼び、敬い崇めた。そして、同じ親から生まれた子として、互いを尊重した。世界は漆黒に輝き、静謐で穏やかだった。神の子らはよく栄え、よくえた。

しかし、時が経つにつれ、争いが生じるようになった。世界には限りがあり、数多に繁栄した子らには、手狭になってしまったのだ。

やがて争いは絶えることがなくなり、世界は混沌に包まれた。静謐な世界を是とする神は、世界をふたつに分けることにした。黄金に輝く巨大な球を生み出し、時の流れによって、住み分けられるようにしたのだ。

黄金の球は、〈太陽〉と呼ばれた。神の覗く裂け目は〈月〉と呼ばれ、月のある時〈夜〉とし、太陽のある時を〈昼〉とした。神は、昼の世界を統べるものとして、人を選んだ。二つ足のもの達は、聡明で美しく、神に似ていたからである。

そして神は、大地に息を吹きかけて漆黒の剣を造り、それと自らの片眼を餞として、最も自らの容姿に似た一族に与えた。一族は、餞を神の恩寵の証とし、他の一族と昼の世界に生きると決めた数多のもの達を率いて、太陽が明るく照らす世界へと旅立っていった。

この、餞を与えられた――漆黒に輝く髪と、真冬の夜空のような深き紺青の瞳を持つ人々こそ、のちの王家の祖である。

こうして、世界はふたつに分かれ、平穏が戻った。

ところが、さらに時が経つと、昼の世界で、再び争いの兆しが現れ始めた。神は、昼を治める人々を助けるために、新たな人を生み出した。それが、昼の世界しか知らぬもの――〈真昼の民〉である。

その髪は、太陽の光をり集めたために、金色に輝いてうねり、その瞳は、煌めく新緑の葉を映したために、明るく緑を湛えた。

神は、原初からともに在った人々を深く慈しんでいたので、真昼の民には、夜の世界ではよく目立つ異質な容姿を与えた。そして、昼を統べる原初の人々を〈真夜の民〉と呼び、ますます慈しんだ。

神は、昼がさらによく治められるよう、漆黒の剣と神の片眼を与えた一族を、全てのものの上に立つ〈王〉とした。そして、それぞれの分野に抜きん出た六つの一族を、王を支える〈柱〉とした。これが、王家ノクサートラ家と六貴族の始まりである。

こうして、夜と昼はよく治められ、平穏となった。神は、ふたつの世界を言祝ことほいだ。


ふと、何かが焦げるような匂いがして、本から顔を上げる。狭い部屋を見渡すと、扉の隙間から、灰色の煙がゆっくりと立ち上っていた。

驚いて引き開けると、一気に煙が入ってくる。腕を口に当てて咳き込みながら、廊下から階段を覗き込む。炎が轟々と鳴り響きながら、燃え盛っていた。

そして、食卓の奥――板張りの床に、白くほっそりとした腕が見えた。

(母さん……!)

生き物のように家を舐める炎が怖かったが、本で読んだ数々の騎士達を思い出す。

(おれの髪と目の色は、フォルティスさまと同じ真夜なんだ! おれだって、りっぱな騎士みたいに強くなれるはず!)

意を決して廊下を回り込み、階段に足をかける。

と、凄まじい勢いで、炎が一気に燃え立った。

「――あ、つッ!」

たまらず部屋に駆け戻る。一目散に寝台に飛び込み、本を抱えて布団を被った。涙で視界が滲む。

(……どうしよう……)

きっともう、母は助からない。強くなれない自分が悔しくて、二度と母の笑顔が見られないことが悲しくて、怖かった。

数日帰っていない父を思う。

(父さん……どこにいるの……)


どのくらい経ったのだろう。外で、鐘を強く打ちつける音が響いている。扉の隙間から流れ入る煙の色が濃く、量が多くなっている。

息が苦しい。寝台の上にいるのがつらくて、煙の薄い床に寝転がった。しかし、このままいけば、部屋中に充満するだろう。そうなれば、きっと息ができなくなる。

(このまま、死ぬのかな……)

ぼんやりと思う。

(体がもえたら、漆黒の神さまのところにかえれない……こわい……)

叱られる時、必ず言われることを思い出す。

身体が灰になった子は、全てが消え去って無になり、二度と漆黒の神の元へは還れない、と。悪い子は、真昼の業火に放り投げて、燃やしてしまうぞ――と。

泣きながら、しゃくり上げて震える。

そんな恐ろしいことは嫌だった。どうせもう助からないのなら、生み出してくれた漆黒の神さまのところに、ちゃんと還りたかった。

遠く、父の声がする。きっと聞き間違いだろうと思う。

階段を駆け上がる音。途端、扉が勢いよく開いた。

「――フェリックスっ!」

全身びしょ濡れで、顔半分に布を巻いた父の姿。幻を見たように、ぼんやりと仰ぐ。駆け寄ってくる父。見慣れた自分と同じ紺青の瞳に、本物だと実感する。

「父さん……!」

「いいか、これから抱えて一気に走るから、しっかり掴まってるんだぞ」

頷いて応える。父の首に腕を回して、精一杯力をこめる。赤々と燃える視界が、流れ去っていく。

階段を降りきった、と思った瞬間、放り出された。目の前で倒れ伏す父の上に、柱が燃え落ちて傾ぐ。

「――とおさあああんッ!」

絶叫して駆け寄る。腰から下が埋まった父の腕を、必死に引っ張る。

「フェリックス! 離しなさい!」

「やだ、だって父さん! いやだあッ!」

半狂乱になって泣き叫ぶ。どんなに引っ張ってもびくともしない。声が枯れて咳き込む。

「――いいから離せッ!」

腹の底から響く怒号。びくっと身体が跳ねる。恐る恐る父の顔を見ると、穏やかな笑顔があった。

「よく聴きなさい」

しゃくり上げながら頷く。父が、どうにか上半身を起こして、服の中から何かを取り出した。それは、父と自分だけが知る、秘密の小さな首飾りだった。

「これを持って、エクエス様の一番館に行きなさい。それから、この前の古本屋のおじさんに会うんだ。――いいね?」

差し出された首飾りを受け取る。日頃教え込まれた通り、首にかけて服の中に仕舞う。それを見届けて、父が微笑む。

「行きなさい。言いつけは、ちゃんと守るんだぞ」

強く頷く。

頭を撫でる、父の大きな手。柱の軋む音。一目散に走り出して、玄関を目指す。

背後で、微かな声が聞こえた。

「どうか繋いでくれ――〈幸運〉の子よ……」

轟音が、響いた。


泣きながら、それでもエクエス家の館を目指していると、古本屋の店主が駆け寄ってきた。なぜか、街を訪れる騎士のような、仕立てのいい服を着ている。

「……おじさん……」

「ああ、よかった! ご無事で!」

「母さんが……父さんが……」

しゃがんだ店主を見下ろして、訴える。頷くと、穏やかな声で話した。

「ここは人目につきます。安全な場所に移動しますから、ついてきてください」

「……どこに行くの?」

妙に丁寧な態度に違和感を覚えて、不安になる。綺麗な顔が、優しく微笑む。

「馬車の中でお話しいたします。――さあ、行きましょう」

一瞬、ついていくか迷う。

しかし、父は確かに、この人に会えと言っていた。きっと、知り合いか何かなのだろう。父も母もいなくなってしまった。とにかく、言われた通りにするしかない。

店主のあとについて、側に停めてあった、重厚な装飾の馬車へと向かった。


「まず、自己紹介をしなくてはいけませんね」

ふかふかの椅子に座って、馬車に揺られ始めると、店主が口を開いた。

「私の名は、ブラッツ・カーサ・エクエス。フォルティス家の従家エクエス家直系の当主でございます」

名を聞いて仰天する。

六貴族の従家といえば、平民の自分からしたら、雲の上の人だ。酒場や館などの遣いで話すことはあるが、絶対に失礼のないよう、厳しく言い含められる。

慣習通り、畏まろうとすると、手でやんわりと押しとどめられた。

「どうかそのままで。御父上は、貴方様の御生まれについて、何か話されていましたか?」

「いいえ、なにも……ただ、父も母も、真夜の色をしていましたから、きっと遠い祖先は、六貴族さまのどなたなのかもね、と……」

理由は知らないが、フロス街では、平民でも、王家や六貴族と同じ真夜の民の容姿を持つ者が少なくない。平民は真昼の民しかいないはずなのに、一体いつの時の子だろうかと、〈たれどきの子〉と呼ばれている。その間でよく言う冗談だから、特に気に留めていなかった。

ひとつ頷いて、ブラッツが穏やかに語る。

「貴方様は〈誰時の子〉ではなく、正真正銘、王家の嫡子なのですよ。御父上はルキウス前王太子、御母上は総帥のご息女であられます」

状況が飲み込めなくて、ぽかんとする。この人は、何を言っているのだろう。

確かに、父も母も真っ直ぐな黒髪だ。特に、父に至っては、王家でも希少とされる最高格の紺青の瞳で、自分も同じ色である。

しかし、それならどうして平民として育ったのか。そもそも、何を根拠に、そんな大それたことを言っているのか。

あまりにも、間の抜けた顔をしていたのだろう。ブラッツが苦笑する。

「驚かれるのも無理はございません。ルキウス前王太子御一家が、事故でお還りになったのはご存知ですね?」

頷く。命日だったかに、大人達が、王への不満とともに惜しんでいるのを、聞いたことがある。

「真実は――事故ではなく、暗殺の企みによるものだったのです。しかし、殿下は御家族とともに逃れられた。貴方様は、まだ二歳の幼子でしたから、覚えておられないのも無理はございません」

がたり、と馬車が大きく揺れる。身体が横に振れ、角を曲がったと知る。

「私達はずっと、お探ししていました。そして、あの古本市で、貴方様と御父上に出会ったのです」

「だからあんなに、おどろいてたんですか?」

地面の材質が変わったのか、車輪と蹄の音が変わる。優しくブラッツが微笑む。

「気づいていらっしゃいましたか。やはり、御父上に似てさとい御方だ。あれから、王宮に戻るための手筈を整えるために、何度かお会いしたのですが……」

綺麗な顔が曇る。悔しそうに歪む、明緑の瞳。

「あと少しというところで、先を越されてしまいました――まさか、家に火をかけるとは……」

目を伏せる。呻き声の混じった溜め息。顔を上げると、柔らかく微笑んだ。

「――ともかく、貴方様だけでも御無事で、本当によかった。今向かっているのは、御母上のご実家であるフォルティス家ご当主様のご自宅でございます」

話し終わるか終わらないかという頃、馬車が緩やかに停止し、扉が開いた。馭者が恭しく頭を下げている。ブラッツが先に降り、手を差し伸べた。

「さあ、伯父上がお待ちです。行きましょう」

手を取って、支えてもらう。地面との差が高くて少し怖かったが、足掛けに慎重に足を置いて、ようやく降りた。


あまりに高い天井に、目が回りそうになる。中央に大きく広がる階段を上って、二階へ向かった。荘厳で重厚な外観に違わず、内装も同じ様相の調度品で、物珍しさに思わず見回してしまう。

長い廊下を歩いて、ようやくたどり着いた部屋に入ると、巨大な男の人が立っていた。大きな足取りで近づいて、顔を眺めた途端、声を上げた。

「おお! これはなんと、ルキウス王太子の幼い頃と瓜二つではないか!」

先程の説明を思い出して、父のことを言っているのだと理解する。似ていて素直に嬉しいと思うと同時に、もう会えないのだという事実が、胸を刺す。

目の前で、崩れるように男の人が跪く。そして、喜びに打ち震えた声で言った。

「ああ、かように大きくなられて! 最後にお会いした時は、まだ幼子だったというのに! 本当に、よくぞ御無事で……!」

あまりにも大げさな調子に、思わず、ぽかんと口を開けてしまう。

はたと気づいて、表情が改まる。

「……これは、大変失礼いたしました――私は、フォルティス家直系当主、総帥クレメンス・クラン・フォルティスと申します。殿下の御母上は、私の次妹にあたります」

言われてみれば、確かに目元のあたりが、どことなく母に似ている。それでもやはり、いまだに信じられない気持ちだった。

とはいえ、挨拶は必ず返しなさい、と両親に言われていたので、頭を下げて答える。

「はじめまして、ご当主さま。フェリックス・ベネットともうします」

「そのような、なんと畏れ多い! どうか私のことは、クレメンスとお呼びください」

どうしていいかわからなくて、曖昧に笑う。もし話が本当だとしても、年長者を呼び捨てにするなんて、失礼すぎてできない。

困り果てて黙っていると、ブラッツの優しい声が降ってきた。

「ご当主様。殿下はお疲れのようでございますから、詳しいことはまた明日に。そろそろ、下の者達も戻ってくる頃ですので」

「――ああ、そうだな。殿下の世話係は、ハンナに言いつけてある。詳細は聞いてくれ」

言いながら、クレメンスが立ち上がる。

間近にあった顔が離れて、ほっとする。見上げると、綺麗な顔が、にっこりと微笑んでいた。

(きっとこの人には、心を読むすごい力があるんだ)

わけのわからない状況の中、頼れるかもしれない人を見つけた気がした。


ハンナと呼ばれた綺麗な女の人に会うと、ブラッツは挨拶を残して去ってしまった。また心細い気持ちになりながら、それでも風呂だと聞いて、少し心が弾んだ。

脱衣室に入ると、服に手をかけられてぎょっとし、自分でできるからと全力で断った。

脱いだ服と寝巻きの置き場を説明し、何かございましたら、お呼びくださいませ、と言い残して、ハンナは出ていった。

「――はあぁ……」

思わず、盛大に溜め息が出てしまう。一人になれることが、こんなに嬉しいなんて。

気を取り直し、ベルトを外して上衣を脱ぐ。胸元で、小さな首飾りが揺れた。

(どうしよう……)

まさか、このまま湿気の多い浴室に入れるわけにはいかない。困ってあたりを見回し、寝巻きと羽織の間に隠すことにした。

全裸になって引き戸を開けると、大きな浴室が目の前に広がった。街の公衆浴場に比べたらもちろん狭いが、一人で入るには、十分すぎるほどだった。泳げるかも、と一瞬思って、そんな叱られるようなことはできない、とかぶりを振る。

洗い場で身体を流し、たっぷり湯の張った浴槽に浸かる。思いきり深呼吸すると、優しい花の香りがした。

浴室の隅に、硝子の覆いの被さった灯りが揺れている。きっと、灯り油に香油が混ざっているにちがいない。香油はすごく高価だから、絶対に買えない代物だ。

とはいえ、香り見本は店にたくさん並んでいたから、母に連れられて買い物する時に、よく嗅いで遊んでいた。

他にも、六貴族と従家を相手に商売するフロス街は、高価な品物がたくさんあったから、いちいち驚かなくて済むのは、よかったかもしれない。

高い天井に切られた、明かり取りの細長い窓に向かって、ゆらゆらと湯気が立ち上っていく。

煌々と夜空を照らす、上限の月。漆黒の神が世界を覗き、呼吸する裂け目。

浴槽から上がって膝をつき、裸であることを詫びてから、心の中で呼びかける。

(漆黒の神さま――どうか、父さんと母さんを、吸いこんであげてください。きちんと、あなたの元にかえれるように)

漆黒の神は、朔から満月にかけて、命を吸い上げる。死して還るには、最適な時だった。

(きっと……きっと、体はちゃんとあるはずですから……)

涙で月が滲む。灰になって無になることは、死ぬよりもずっと怖いことだ。防火や消火訓練は、徹底的にやる。街の人達が、きっと消し止めて、土に埋めてくれているはずだ。

でももし、という思いが、頭をかすめる。

激しく燃え盛る炎。生き物のように躍る、恐ろしい赤。

神の元に還れれば、いつか自分が死んだ時に会える。しかし、灰になって無になれば、もう二度と会えないのだ。

さっきまでのことを思い出す。

母の言いつけを守らずに、宿題より先に本を読み出してしまった。せっかく買ってくれたのに、父に感想を言えなかった。来週の体育会で、駆けっこの代表に選ばれたから、絶対に一位を取ると決めていた。父も母も、きっと喜んでくれたのに。

涙が、次から次へと溢れ出す。しゃくり上げながら、そうと知られたくなくて、声を殺して泣いた。

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