マニュルムの花②

落ち着いた低い声が、鼓膜を優しく震わす。

夜勤明けの午前。心地よい眠りを誘われて、つい船を漕いでしまう。

大きく傾いで、はっとする。明緑の瞳と目が合った。ブラッツの秀麗な顔が苦笑する。

「次代様。あと少しですから」

謝って、目を固く瞑ってからしばたく。ぼやけていた書類が、はっきりと輪郭を為す。

装備の種類や在庫数の記載された表。管理職である長にとって、装備品の把握は、必要な技能のひとつだ。

来年の冬に騎士叙任を控え、その数年後には、レガリス隊隊長に任命される。フォルティス家直系嫡子として果たすべき役割のために、職務の合間を縫って、少しずつ習得してきた。

実際の書類を見ながら、発注すべきものがないかなどを確認していく。

もともと数字に関わることは苦手だったから、夜勤明けの頭には、眠気を誘う薬のように思えた。つい、傍らにある、最新の装備が描かれた商品目録に視線をやってしまう。すると、さとく気づいて、指摘が飛んでくる。

「仮眠の時間がなくなりますよ。ほら、あとこれだけです」

最後の一枚を渡されて、目をこすりながら、上から順に確認する。

稽古用の細刃の短剣が少ない。二ヵ月半後の早春には、新しく騎士見習いが兵舎に入る。見習いの時は、力の加減がわからず、勢い余ってよく折るから、それなりに数が必要だ。

ブラッツに伝えると、柔和な微笑が返ってくる。

「確かにそうですね。発注数は?」

入舎する人数を尋ねて、その三倍を答える。

自分は一回で済んだが、ウィンケンスは不器用が災いして、四回も折った。平均して二、三回だから、過不足なくと考えると、そのくらいだろう。

「では、ここに品名と数量を」

ブラッツが微笑んで頷き、発注書の記入欄を示す。必要項目を書いて、最後に署名した。その下に、承認者として、ブラッツの力強く流麗な署名。

大雑把で、綺麗とは言いがたい自分の字と比べると、毎度のことながら、少し恥ずかしくなる。こと、装備の購入を管轄する商務官ルスティクス家に提出するから、なおさらだ。

成人すれば、一人で決裁できるようになる。それまでに手習いをきちんとやろうと、改めて思った。

最後に漏れがないか、ブラッツが再度確認して、書類を揃える。在庫表を紐で綴じ、発注書を封筒に入れた。明緑の瞳が、穏やかに笑む。

「――お疲れ様でした。以上で完了です。速度も精度も上がりましたね。指計算も、使わなくなりましたし」

褒められて、得意満面になりかけたところで赤面する。

暗算がどうしてもできず、かといって、計算盤も、珠を移動し損なったりして混乱するから、あまり使いたくない。

となると、指を使うのが一番平易で楽だった。しかし、あくまで小さな子供のための方法だ。さすがに格好がつかないと思って、数字にめっぽう強いエルドウィンに頼み、計算盤の特訓をしたのだった。

「俺だって、もう十五歳だよ。いつまでも、子供みたいにするわけにはいかないからさ」

「そうでした。早いものですね――療養先からお屋敷に戻られた時は、まだ小さいお子様でしたのに」

懐かしむように、明緑の瞳が、柔らかに細くなる。思い出の数々が、胸に去来する。

講義が終わった後、迎えに来たブラッツに飛びつく親友を、羨ましく見ていた。すぐに気づいて、よろしければどうぞ、と片腕を広げてくれた。しなやかな腕に、エルドウィンと二人で包まれて、顔を見合わせて笑ったあの頃。

柔らかな沈黙の中、何かを思い出したのか、ブラッツの顔が曇る。そして、微苦笑しながら、遠慮がちに尋ねた。

「どうにも、エルドはあまり関心がないようで……何か、聞いていませんか?」

約一ヵ月後の誕生日。少しずつ〈教え〉を受けていると話す時の、穏和な微笑みの奥に閃く、哀しみの色。何に興を覚え、誰に恋焦がれているのか。察している真実を話すわけにはいかなかった。

悟られないようにと祈りながら、平静を装って返す。

「騎士見習いの頃から、そういう話は恥ずかしいって、積極的じゃなかったし、照れくさいんだと思うよ」

ほっと愁眉が開く。そして、秀麗な顔に、苦い笑みが広がった。

「いけませんね。こんな……影でこそこそと詮索するような真似をしては。ご無礼をいたしました」

かぶりを振る。むしろ、気にかけて心配してくれる父親を持つ親友が、羨ましかった。それでも、だからこそ、いつもの日常を通さなければならない。

不意に、柱時計の鐘が、低く長く響く。そろそろ騎士舎に戻って、早い昼食を摂らなければ、本当に仮眠できないまま、剣の稽古をすることになる。

指導の礼を言って立ち上がると、従家当主の執務室を辞した。


歩きながら、ブラッツの言葉を反芻する。おそらく誤魔化せたと思うが、言いようのない不安がつきまとった。

エルドウィンから、何かを言われたことはない。

ただ、ウィンケンスと大浴場でくだらない喧嘩をしたあの日から、明らかに何かが変わった。それから、日々の違和感が積もる中で、自分の思う好きと親友のそれの意味は違うのだと、おもむろに察していった。

そして、昨年の晩冬の――いつものように、同期と図画を囲んだあの夜、はっきりと確信した。

当時は驚愕し、激しく動揺して嫌悪し、挙げ句その優しさを疑った。しかし、時が経つにつれ、他意などないと知りながら、長年の友情を訝しむ自分に、腹が立ってきた。そして、娼館に通うようになった今、その苦しみと痛みが、切実に心に迫っていた。

同室で焦がれる相手と二人きりのところを耐え忍び、全く興を覚えない対象と事に及ぶ。しかも、エクエス家直系嫡子として、結婚は避けて通れない上、子を多く為すことを要求されるのだ。

一滴の楽しみもなく、ただ義務としての行為。誰にも言えず、ただ一人抱えて生きる苦しさ。考えただけで、心が痛む。

他のどんなことなら、いくらでも分かち合って、荷が軽くなればと全力を尽くせるのに、こればかりはどうしようもない。何度も必死に考えたが、やはり、無理なものは無理だった。

ただ変わらず、日々を過ごすほかはない。せめて、明けて帰ってきた昼は、盛大に祝って傍にいようと決めていた。

ふと、名を呼ばれて振り返る。鈴を振るような愛らしい声。その姿と廊下の景色に、つい癖で、二階の主家の方へ上がってしまったのだと気づく。そして、今日の午前の講義は、フォルティス家の担当だったと思い出した。

いつものように、腕を広げて待ち構える。胸に軽い衝撃。きらきらと輝く碧色の瞳を見つめ、微笑んで尋ねる。

「講義はいかがでしたか?」

「王都から遠くはなれた、南の警備のお話をきいたわ! 一面の麦畑が、とてもきれいなんですって! 世界は本当に広いのね!」

胸躍って紅潮した丸い頬。王女の務めとしてではなく、学ぶことを純粋に楽しむ様は、微笑ましくて心が和む。

伯父の、長年の経験に裏打ちされた深い見識は、いつ聴いても、驚きの連続だった。特に、僻地警備の話は、視察時の出来事をまじえて語られるものだから、冒険譚のようでわくわくするのだ。

屋敷で二人きりになっても、伯父と甥として語れたらと、淡い願いをいだくほどに、総帥として非常に敏腕で、その点では疑う余地なく尊敬していた。

小さな頭に、そっと手を添えて、優しく撫でながら返す。

「有意義な時間をお過ごしいただけたようで、何よりでございます。東の山岳地方の暮らしも、なかなか興味深いですよ」

「ほんとっ? 楽しみね!」

瞳を輝かせて、無邪気に笑う顔。ふと思い出したように、碧色が瞬く。

「ねえ、フェリックス。読んでほしい本があるの。むずかしい単語が多くて……」

一瞬、逡巡する。

夜の暗さが怖いと、せがまれて、寝る前に本を読んできた。

ちょうど先日、三冊目が終わったから、そろそろ新しい本が用意される頃だろうと、心づもりしていたものの、今夜とは。〈仮初めの奥方〉をもらって、まだ二ヵ月も経っていないのに、約束に遅れるのは、さすがに礼を失する。

(……でも、トリーナは俺でなくてもいい)

仰ぐ、大きな碧色の瞳を見つめる。

アメリアには、生まれた頃から仕える侍女頭と侍女達がいるが、家族のような触れ合いはない。小さな子供の一瞬一瞬は、とても大切な時間だと、身に沁みてよく知っていた。

厳しくも傍で見守ってくれたブラッツと、いつも細やかに気遣ってくれたハンナ。エクエス家の兄妹に温かく育まれた記憶は、今でも苦しい時つらい時の支えだ。

夜は長い。それに、明日は休日だ。泊まって朝寝できる。アメリアは寝つきがいいから、さしたる遅れにはならないだろう。

おもむろに身を離して跪く。穏やかに微笑んで頷いた。

「承知いたしました。いつものように、おやすみになられる頃に伺います」

心底嬉しそうな愛らしい笑顔。心に、温かい気持ちが灯る。

機を見計らって近づいてきた、警護の先輩騎士と同期の従騎士に、待ってくれた礼を言う。

アメリアが、促されて歩きながら、振り返って手を振る。応えて見送ると、今度こそ騎士舎へと向かった。


渡された四冊目の本は、確かに難しい単語が多く、内容も、今年九歳になる子供には、理解しづらいものだった。

それでも、物語自体は面白く、解説しながら読んでいると、すっかり遅い時間になっていた。さすがに夜更かしさせるわけにはいかず、話の区切りで終わらせる。

金褐色の長い髪を梳くように撫でながら、幸福で溶けるように、うとうとと眠りに落ちていく様を見守る。

寝入ったことを確認すると、口の中で挨拶して、寝室をあとにした。


王都の南東に位置するフロス街までは、一時間ほどかかる。騎士舎付きの馬車は、すでに受付時間を過ぎていたから、総帥正門前の通りにある車屋まで歩いた。

灯火の照らす道を、軽快に進む蹄の音。流れゆく空の中で、満月が、静謐な光を放っている。真冬の冴えた紺青に高く昇った白銀を眺めながら、約束などするものではないと、後悔した。

〈仮初めの奥方〉と呼ばれる通り、受け持つ相手は決まっていて、数も少ない。公にはされないが、身分の格が、かけ離れないように割り振られるから、おおよその見当はついた。

そして、もともと格の近い者は、求められる役割が似通っているため、当番が被らないように編成される。稀に、非番や休日が一緒になったとしても、下の者が遠慮するように、というのが、暗黙の了解だった。

未婚の者では自分が最高格だから、約束しなくても、困るということはないのだ。権力を振りかざすようで気が引けていたが、こんなことで思い煩うくらいなら、使えるものは利用しようと決めた。


扉を閉める音がした途端、背後から抱きつかれる。今にも泣きそうな、切ない声が囁く。

「今夜はもう、来ないのかと思ったわ……」

外套にしがみつく、細く白い手。外した手袋を放って手を重ね、そっと外す。振り返って抱き寄せれば、甘く艶やかな香りが、鼻をくすぐった。

上等な毛織物越しに伝わる、柔らかな肌の感触。背筋が、ざわざわとさざめく。

「ごめん……仕事が長引いて……」

謝りながらも、言い募ろうとする紅色の薄い唇を、口づけて塞ぐ。そして、その細く伸びやかな肢体を、本能のままに貪った。

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