繋ぐ心②

「フェリックス――っ!」

大勢の男達の声でざわめく食堂に、一際高く、少女の声が響く。皆、その声の主に仰天し、一気に場が静まり返った。

「殿下あっ⁉」

心臓が止まるほど驚いて、変に裏返った声が出る。昼食の乗った盆を持ったまま固まる。

長い引き裾をからげながら、愛らしい少女が、きらきらした顔で駆け寄ってくる。予感がして、咄嗟に近くの食卓に盆を置き、正面を向いて待ち受ける。

走る勢いのまま抱きつかれ、胸に軽い衝撃を感じる。仰いで煌めく、碧色の瞳。

「よかった! やっぱり、お昼時をねらって正解ね! 私服のあなた、初めて見たわ!」

集中する視線が痛い。

近衛騎士団配下の各隊には、接触の許可に関する通達が出ているが、大所帯の王宮騎士団においては、事情をよく知らない者がほとんどだ。一介の騎士に王女が抱きつくなど、失神ものの光景である。

とはいえ、引き剥がすわけにもいかず、困り果てて、されるがままになる。すると、近衛騎士と従騎士が、必死の形相で走り寄ってくる。

「――隊長!」

傍らまで来ると、膝に手をついて、ぜえぜえと肩で息をする。

「……やっと……追いついた……」

「アドルフ、これはどういうことだ?」

抱きつかれたままで、なんとも締まりがないが、とにかく状況を厳しく質す。

「殿下が、急に……走り出さ、れて……」

荒い呼吸に言葉が継げず、唾を飲み込む。

近衛騎士にいたっては、口も利けない様子だ。年次が高い上に、団内で随一の俊足を誇るアドルフについていくのが、やっとだったのだろう。

とはいえ、日頃から、厳しい鍛練に明け暮れているのだ。そうそう、こんなふうにはならない。

さらに問い質そうと口を開きかけた時、腰に回った腕に、力が入るのを感じる。見下ろすと、潤んだ碧色の瞳が、訴えかける。

「フェリックス、怒らないであげて。わたしが隠れたりして、二人をまいたの」

意外な答えに目を瞪る。そして、同時に理解する。

何が目的か、度々姿を眩ましては、王女付きの騎士達を大慌てさせてきた。数年前に、ぱたりとなくなったが、当時は本当に頭を悩ませたものだ。

しかも、今は成長して、足も速くなっている。確かに、追いつけるはずがなかった。

軽く溜め息をついて、穏やかに話す。

「――わかりました。怒りません」

そして、華奢な肩にそっと手を置き、周囲を向くよう促す。アメリアが、少しだけ身を離して、周りを見回す。

静まり返った食堂。威儀を正して佇む、大勢の男達。

優しく諭すように言う。

「殿下。畏れながら――皆に、休めと御声掛けいただけますか?」

「あ……」

小さく声が漏れる。状況を把握して、眉尻が下がり、瞳が歪む。

抱きつくのをやめると、居住まいを正して告げた。

「みんな、驚かせてごめんなさい。わたしのことは気にせず、食事を続けて」

瞬間、急速に空気が弛緩する。男達の安堵した顔。ざわめきが、緩やかに広がっていく。

平常に戻ったことを確認し、跪く。碧色の瞳を見上げて、穏やかに尋ねた。

「なぜ、こんなことをなさったのですか?」

「……あなたに、会いたかったの……」

しょんぼりとした声。引き裾をぎゅっと握り、身を縮める姿。涙をこらえるように、眉根が寄る。

可愛らしい理由に、いとおしさがこみ上げるが、表には出さず、優しく諭す。

「私が、謹慎の身であることはご存知のはず。それに、このようなことをなさればどうなるか、あなたならおわかりでしょう」

こくりと頷く。碧色の瞳が、潤んでいく。

「だって、ひどいわっ……謹慎なんて。ヘンリクスの言うことはわかるけれど、でも……」

澄んだ雫が滲む。場所柄、泣くまいと耐えるように、瞳が歪む。

果敢に抗議する姿が、目に浮かぶ。ヘンリクスは、よくよく説明してくれたのだろう。

それでも、助けたことを重んじて、不当だと訴えているのだ。温かな思いが、胸に広がる。

そっと、両手を包み込むように触れて、あやすように優しく話す。

「殿下、御気持ちは大変嬉しく存じます。ですが、もし何かあったら、いかがなされるのです? どうか私のために、御身を危険に晒すことは、お控えください」

碧色の瞳を、真っ直ぐに見つめる。小さな声がこぼれた。

「ごめんなさい……でも、本当にあなたに会いたかったの――あと四日も会えないなんていやよ……」

いとおしさに、温かい笑みが広がる。この愛らしく怜悧な少女を守れるのなら、謹慎など、いくらでも耐えられると思った。

柔らかく微笑みながら答える。

「私もです。お元気な御姿を拝見できてよかった。お傍にいられないのはつらいですが……あと四日、お待ちいただけますか?」

きちんと頷くのを見届けて、立ち上がる。控えていた二人に声をかける。

「お前達、頼んだぞ」

「――は!」

一糸乱れぬ敬礼。アメリアの背中を、そっと押して促す。すると、振り返って、勢いよく抱きついてきた。

「ちゃんと、戻ってきてね?」

「もちろんでございます」

優しく抱き締めて、頭を撫でる。滑らかな髪の感触が心地よい。

か細い腕が、精一杯の力で抱き返してくる。そして、顔を上げると、満足した表情で笑って、離れていった。

二人の警護を伴って歩く小さな背中を、廊下へと出て消えるまで見送る。

謹慎明けまであと四日。早く過ぎることを願いながら、食卓についた。


隊議の数分前。エルドウィンと扉の前で到着を待っていると、少し遠くから、名を呼ぶ声がした。

アメリアが、満面の笑みで駆けてくる。受け止めようと、いつものように、腕を広げて待ち構える。

しかし、急に、何かに気づいたように立ち止まった。

不思議に思って、首を軽く傾げると、寂しげな表情で言った。

「アリーセに言われたの――殿下は、成人の始まりに立たれたのですから、むやみに触れ合うのは、もうおやめくださいって……」

そういえばと、思い出す。

食堂で会った翌日、触れがあったのだ。慶事の祝いとして、多産な小動物を象った菓子が、王宮中に振る舞われた。

酒呑みの多い騎士舎では、いい口実ができたこれ幸いと、食堂で、盛大に酒宴が開催されていた。謹慎中の身で、もちろん参加はしなかったが、アメリアの健やかな成長は、とても喜ばしいものだった。

「御祝いが遅くなりました。おめでとうございます」

姿勢を正して、祝辞を贈る。

しかし、アメリアは何も言わず、じっと見つめてくる。問いかけるような、不安げな碧色の瞳。思わず、苦笑が漏れる。

「そんな御顔をなさらないでください。おめでたいことなのですから」

「……だって……」

駄々をこねるように揺れる、か細い身体。

抱き締めてやりたいが、成人への準備が始まった以上、軽々しく触れるわけにはいかない。そもそもが特殊なのだから、本来の形に戻ったともいえる。

とはいえ、触れ合って甘えるのが好きなアメリアには、つらい転換点だろう。自立を促すためにも、あるべき距離を保つよう、諭すべきである。しかし、つい、妥協点はないかと思案してしまう。

「――そういたしましたら、私の服や腕を掴んでください」

「いいの……?」

大きな碧色の瞳が瞬く。我ながら、甘いと思うが今さらだ。

従騎士の頃から、求めに応じて、寝台の傍らで本を読んだり、手を繋いだり、抱き締めたり、頭を撫でたり――異例尽くしだったのだから、急にやめろと言われても、無理な話である。

頷いて、穏やかに話す。

「ただし、あまり人目につかないように――そっと。それなら、咎め立てられることもございませんでしょう」

安堵したように、表情が柔らぐ。ゆっくりと手を伸ばし、騎士服の袖の端を掴む。

微笑んで応えると、甘えた愛らしい笑みが返ってくる。それから、警護の近衛騎士に促されて、隊議室へと入っていった。

隣で、くすりと笑う声がする。新緑の瞳を柔和に笑ませて、エルドウィンが言う。

「甘いねえ」

「今さらだ」

即答すると、秀麗な顔の笑みが深くなる。そして、少し気遣わしげに尋ねてきた。

「……寂しい?」

「それは……まあな。でも、喜ばしいことだ」

そうだね、と答えて、親友が優しく微笑む。

隊議室の扉を開くと、連れ立って入った。中央正面に座るアメリアと目が合って、微笑み合う。

これから、ますます伸びやかに成長していくだろう。明るい希望に満ちた気持ちで、健やかな未来を願った。


侍女頭のふくよかな声を聴きながら、〈教本〉を眺める。

物語の挿絵や装飾文字よりも、ずっと簡素な筆致の図画。王家を繋ぐための大切な行為を学ぶのだと、気を引き締めていたのに、なんだか拍子抜けしてしまうほどだった。

口づけに始まり、夫からの愛撫を受けながら、脱衣する。

最初は、子を為すために、わざわざ服を脱ぐことを滑稽に思った。

しかし、話が進むにつれ、本当に一糸纏わぬ姿で抱き合うのだと、実感が湧いていくうちに、うすら寒さが背筋を這った。そして、相手の身体の一部が、自分の中に入るのだと知って、ぞっとした。

あの初春の日、フェリックスが諭した理由。

もし、あのまま誰も助けに来なくて、服を全て剥がれていたら、どうなっていたのか。

背筋を這った本能的な寒気の、ずっと感じていた言いようのない恐怖の意味を、はっきりと悟った。

(わたしは……強いられかけていた……)

フェリックスは、穢されそうになっていたところを、二度も助けてくれたのだ。

その意味を、明確に知った上で。〈仮初めの奥方〉の――女の肌を、知っているその手で。

激しい羞恥が、心を襲う。

成人していない子供相手に、きっと何とも思っていない。それでも、肌着を見られたのだ。平然としていた自分が、恥ずかしくてたまらなかった。

(ああ、なんて子供だったのかしら!)

同時に、ユリウスにも見られたのだと思い当たって、骨を食むような、寒々とした嫌悪が湧き上がる。

そして、腹に当たっていた、硬い熱の意味。

今、思い浮かんでいることが、正しいかはわからない。しかし、図画では、そこを合わせると、神が女の腹に雫を垂らして、子が宿るのだと示されている。

曖昧な形で、具体的な姿はわからない。知りたくも、想像したくもなかった。

そして、病んで壊れた青色の瞳が、心に閃いた。

(――お母様……っ!)

気がつけば、涙がはらはらと、頬を伝い落ちていた。侍女頭が、心配げに尋ねる。

「いかがなされましたか?」

「……お母様が、おかわいそうで……」

円かな顔が、はっとして、険しく歪む。柔らかく、しかし厳格に諫める声。

「殿下、それは」

「わかってるわ、アリーセ。全部を言わないで」

口を引き結んで、鼻をすする。本当は、手の甲で思いきり拭いたいところを、しとやかに指先で済ませた。

続けて、と促したが、

「今日は、ここでお終いにいたしましょう。急いで詰め込むものではございませんから」

と、本を閉じてしまった。気遣いを察して、無理に頼むことはしなかった。

寝室で一人になると、夜の静けさが、心をさざめかせた。

灯りの届かない先は、何も見えない闇が広がっている。どうしようもなく恐ろしくて、扉の向こうで夜勤に就く、フェリックスを呼びたくなる。

しかし、成人の始まりに立った以上、夫ではない男を寝室に入れるわけにはいかない。フェリックスは、自分を子供としか見ていないのに、なんだか腑に落ちない気分だ。

(……でも、いつまでも子供なのもいやだわ)

積まれた枕に座っている熊のぬいぐるみを引き寄せて、ぎゅっと抱き締める。

ふかふかした毛並み。少しくたびれてしまったけれど、触れる度に、あの初春の、優しくいとおしむ笑顔を思い出す。

しかし、あの頃とは異なる思いがあった。肖像画のあの人への憧れよりも、ずっとはっきりとした形の心。

それが、何という名の感情なのか、まだわからない。それでも、これまでの疑念が嘘のように、確かな絆を信じられた。

初めて知った、素の口調。心の底から叫んだ言葉。痛いほどにきつく抱き締める、逞しい腕。

フェリックスが、自ら手を伸ばしてくれたのは、あれが初めてだった。あの声が、体温が、心に確固とした形をつくっている。

(もう、わたしは負けない)

反抗すれば、本当に酷い目に遭うかもしれない。それでも、以前のように惑わされて疑うなんて、絶対にしたくなかった。

ぬいぐるみを抱いたまま、扉があるであろう方向を、じっと見つめる。

(フェリックスが守ってくれたわたしを――守れる強さを持とう)

そう固く決意して、朝のおはようの笑顔を楽しみに、眠りについた。

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