13:流行
声が聞こえてきた方に振り向けば、街から駆けてくる一人の男性がいた。
ひょろりとした体躯。人が好さそうではあるが、どこか気が弱そうにも見える、柔和な顔立ち。夢の主である、
磯兼氏は、どうもボートに乗り込もうとしている
それが「視界に入っているが意識に入らない」というわけではなく、そもそも「視界に入っていない」のだ、ということに気づいたのは、駆けてきた磯兼氏に伸ばした手が彼の肩をすり抜けた時だった。
「おっ?」
ちょっと吃驚して、思わず声が出てしまった。
「俺たちは磯兼さんにとっての異物だからね。彼の意識に入っていなければ、いないものと同じになるってわけだ」
その言葉に、思わず腕の中のサンゴくんを見やる。サンゴくんは、切れ長の目を細め、案外真剣な顔つきをしていた。この状況から、何かしらの解釈を試みているのかもしれない。
だから、そんなサンゴくんの邪魔をするのは悪いかなと思いつつも、気になることは聞いてみる。
「でも、私の夢の時には、サンゴくんに触れられたし話もできたよね」
「それは、アザミさんが俺を『見つけてくれた』からさ。アザミさんの心が、外部からの干渉を受け入れようとしていた。もしくは、無意識に助けを求めていたのかもしれないね」
助けを。……言われてみれば、そうだったかもしれない。
私自身は助けを求めた覚えはないが、しかし『
だから、私は、大槻さんが「殺された」現場に現れたサンゴくんの声を、聞くことができた。
この人ならば助けてくれるかもしれないと、藁にもすがる思いで、その手を掴むことができた――いや、サンゴくんに掴むだけの手はないんだけども。
そして、実際に、サンゴくんは私を助けてくれたし、今も私の腕の中で、事件の解決のために尽力してくれている。
もちろん、サンゴくん自身が何を考えてるのかなんて私にはわかりっこないわけだが、それでも。
私が「救われた」と感じたのは、間違いない。それだけは言える。
「じゃあ、磯兼さんは、我々の力を必要としていない、ってこと?」
「自分の状態を全く自覚していない、って方が近いかもな。アザミさんはなんだかんだずっと『
――でも、磯兼さんは、自分が誰かに狙われるとは思ってもいなかったのではないかな。
そう、サンゴくんは言った。
なるほど、私のように危機感を持って過ごしていた、という方が例外的か。そりゃそう。特に磯兼氏は、私と違って周囲の誰かが『
……いや、本当に、そうなのか?
もちろん、普通に考えるならそれでいい。『
そう思っている間にも、磯兼氏は湖に、ボートに乗り込んだ瑞沢さんに向けて駆けていく。けれど、瑞沢さんが乗ったボートはすでに岸を離れていた。瑞沢さんは茶色く染め、ウェーブのかかった髪を背中に垂らした姿で、我々に背を向けていた。
「チアキさん、待ってくれ、行かないでくれ!」
磯兼さんは綺麗に磨かれた革靴や、スーツの裾がダメになるのも構わず湖に足を踏み入れる。止めようと思っても、私の手は、きっと磯兼さんをすり抜けてしまうだろうし――。
「サンゴくん、あれ、大丈夫なの?」
片手のサンゴくんに問えば、サンゴくんは「うーん」と唸る。どうも、色々な人の心の中を覗いてきたサンゴくんでもこの情景や磯兼さんの行動、そして磯兼さんの中に現れた瑞沢さんの存在を解釈するのは難しいようだ。
ただ、磯兼氏にとって、瑞沢さんがどういう存在であったのかは、磯兼氏の態度を見ればある程度は推測が付くというものだ。
「せめて教えてほしい、僕の何がダメだったんだ? チアキさんのためなら何だってするつもりだった。チアキさんの欲しいものは何だって買い揃えた。チアキさんの好きなものを共有したかった。チアキさんの大好きな流行のバンドの歌だって、一緒に歌えるようになりたいって思ったんだ。チアキさんの傷を癒してやりたくて、ただ、それで、それだけで……」
少なくとも、瑞沢チアキという人物は、磯兼氏にとって、「大切な人」だったのだろう。その方向性こそわからないにせよ、欠かしてはならないと思うほどの、人物。
ざぶ、ざぶ、と。ひどく歩きづらそうにしながらも、一歩、また一歩と湖に踏み入っていく磯兼氏。ボートは岸から少しだけ離れたところで動くのをやめたようで、磯兼氏は腰までを水没させた姿で、ボートに近づいていく。
「チアキさん、応えてくれ、せめて、こちらを向いて」
その磯兼氏の言葉が、届いたのだろうか。
ずっとこちらに背を向けていた瑞沢さんが、くるりと振り向いた。
その、顔は。いや、顔のあるべき場所は。
複雑に渦巻くサイケデリックな色に、塗りつぶされていて――。
「まずい」
サンゴくんの緊迫した声と同時に、響いたのは、ぴしり、という何かにひびが入るような音。そして、私の視界が、まるでバグったゲーム画面のような、ノイズと意味不明な図像の組み合わせに支配される。目がおかしくなったのか、認識がおかしくなったのか。とにかく、慌てて瞬きすると、視界を覆った奇怪なイメージは消え去っていた。
しかし、バグった視界が直った時、私の目に映る景色は一変していた。
目の前に大きな湖が広がっていることは変わらない。私が湖の岸に立っているのも、磯兼氏が湖の只中に立ち尽くしていることも。だから、一変していた、というには少々規模は小さいかもしれない、が、頭を殴られるような衝撃があったのは間違いない。
瑞沢さんが乗っていたボートは影も形もなくなっていて――、その場所に、瑞沢さんが、浮かんでいた。
首も、腕も、足も、胴体も、何もかもがバラバラになって。
切り口から血液の代わりに溢れるサイケデリックな色彩が、湖の水面を染めていく。磯兼氏の姿はこちらからは背中しか見えないが、そのバラバラの瑞沢さんの姿に衝撃を受けているのか、硬直したまま動かない。ただ、「ああ」という震えた声が、こちらまで届いた。
「そう、そうだ、チアキさんは、僕の前から、消えて」
――殺されたんだ。
私の耳には、確かにそう聞こえた。
殺害された? 瑞沢チアキが?
もちろんこれは磯兼氏の精神世界の話であり、現実をそのまま示しているとは限らない。これは、精神世界に潜る前に
限らない、けれど。
極彩色の、いっそグロテスクともいえる色彩が水面を支配しつつあることに気づいていないのか、磯兼氏は深く俯いて、しかし、いやにはっきりとした声で言う。
「許さない」
今までの、必死に懇願するような声とはまるで異なる、地を這うような声だった。
「絶対に許さない。殺してやる。殺して」
その時、広がりつつあったサイケデリックな色彩が、磯兼氏の立っている場所にまで届き、その袖を浸した、と思ったその時だった。色彩が、まるで命を持ったかのごとく、磯兼氏の体を這いあがる。否、それは「侵食」と言うべきだったのかもしれない。
「あ」
磯兼氏の声が、あっけなく飲み込まれる。刹那のうちに、磯兼氏の姿は全身がサイケデリックな色彩に染め上げられ、それから。
ぴしり、と。酷くよく響く音とともに、磯兼氏の全身にひびが入り、次の瞬間には瑞沢さんと同様にバラバラに砕かれて、極彩色の水面に浮かんでいたのだった。
本当に、瞬きの間の出来事で。私はその現象を全く理解できずにいた。失踪していた瑞沢チアキがバラバラになった。そして、どうやら瑞沢チアキと関係を持っていたらしい磯兼氏は、それを発見して、「犯人」への復讐を誓う。だが、その磯兼氏もまたバラバラになってしまって……。
ぴしり。ぴしり。
迷走する思考を遮るように、ひびの入る音が、今度はあちこちから響いてくる。ぐるりと辺りを見渡してみれば、空も、湖も、背後の街並みも、何もかも、何もかも、極彩色のひびが入り、今にも崩れてしまいそうだ。実際、空からはぱらぱらと極彩色の欠片が降り注ぎ始めている。
サンゴくんが切羽詰まった声でいう。
「脱出しよう」
「でも、磯兼さんは――」
「考えるのは後だ、崩壊に巻き込まれたら、俺たちも無事じゃすまない」
でも、「俺たちも無事じゃすまない」ってことは、そもそもこの世界の主である磯兼氏は……。
つい後ろ髪を引かれてしまうけれど、だからと言って、私に何ができるわけでもないのだ。きっと、サンゴくんにも。サンゴくんに手出しができるような事態ならば、きっと、先に提案をしてくれているはずだ。その程度には、私もサンゴくんの『お役目』に対する真摯さを信頼している。
「脱出の方法は、井槌さんから教えてもらってるよな。カウントスリーで、切り離す」
教えてもらった、と言っても、私がすることはほとんど何もない。私がここにいられているのは、他者の精神世界に潜る能力を持つサンゴくんに「呼び寄せられている」から。つまり、サンゴくんが「切り離そう」と思えば私を精神世界から切り離すこともできる。私にできることは、その衝撃に身構えることだけだ。その身構え方も実際のところはよくわかってないのだけども。
サンゴくんの声が。
「スリー」
カウントを、始める。
「ツー」
空に一際大きなひびが入り、ばらばらと破片が降り注いで――。
「ワン」
そのうちの巨大な一つが、私たちの真上に落ちてこようとしていて。
押しつぶされる、と思ったその時。
ぶつん、と。
スイッチを切ったかのように、全てが、暗転する。
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