20:たぷたぷ
そして、再び瞼を閉じる。
何かが私の手を掴んで、引っ張る。深い深い海の中に潜りゆく感覚に似ている、耳が圧迫される気配。けれど、それはごくごく一瞬のことで――。
「……っ、サンゴくん!
引っ張られる感覚があった、ということは、サンゴくんは無事なのだろう、と思いたい。そうは言っても、どうしても胸を焦がす不安に、ぱっと瞼を開いて。
真っ先に目に入ったのは、
「おかえりなさーい、アザミガハラさん」
床の上に座り込んだ樋高さんの膝の上、手のひらで頬を潰されてすごい顔になっているサンゴくんだった。
「……何、してるんですか?」
「隠れてる間暇だったから、センセーで遊んでたんです」
にこ~、と笑ってこちらを見上げてくる樋高さん。確かに見ての通りサンゴくん「で」遊んでいる。ぐにゃぐにゃと揉まれて唇が変な方向に曲がっているサンゴくんが言う。
「いや、やめてほしいって言ってるんだけどな」
本当にやめてほしければもうちょっと抵抗をすればよかろうに。いくらほとんど動けない生首の身とはいえ、噛みつくとか色々やりようはあろう。しかし、サンゴくんはあくまで樋高さんにされるがままなのだった。
うん、なんか……、心配して損した。心からそう思う。
「アザミガハラさんってば、すごい顔色でしたけど、あたしたちのことそんなに心配でしたか?」
樋高さんは目ざとく私の動揺を見抜いたのか、「心配してくれて嬉しいな~」とうきうきした顔をする。二人が無事かどうか心配だったのはそうだし、無事でよかったとも思う。ただ、その「心配」とは『
だから、慌てて必要な手続きを済ませて帰ってきたのだが、本当に杞憂も杞憂だったようで肩から力が抜けまくるというものだ。
「見てくださいよ~、この辺りがすごくたぷたぷしてるんですよ! アザミガハラさんも触ってみます?」
樋高さんはそんな私の気も知らず、サンゴくんの顎から首にかけてのラインをたぷたぷさせている。顎を掴んで抱えていることは多いけれど、そこをたぷたぷさせたことはないな……。まずサンゴくんをいじくり回すという発想がない、といえばその通りなのだが。
「それより、俺はアザミさんの話が聞きたいな。どうだった?」
サンゴくんはきりっとした顔をするけれど、依然として樋高さんに弄り回されているので、その爽やかなお顔も台無しである。とはいえ、樋高さんの行動にいちいちツッコミを入れてると話が進まないので、そのままサンゴくんには犠牲になっていただき、私は私で勝手に話を続けることにする。
「
ただ、あれを「話ができた」と言っていいものかは怪しいな、と、思い返してみる。
* * *
「やあ、薊ヶ原さん。どうしたんです、急に」
甘池さんはあっさりと私の呼び出しに応じた。仕事は忙しくないのだろうか、
「それでも、
「大事……、確かに、そうですけど」
そう改めて言われてしまうと、ちょっと恐縮してしまうな。仕事で忙しい中を呼びつけてまで話すような内容なのか、と自問したくなってしまう。だが、これだって樋高さんの命がかかった話ではあり、おそらく時間をかけてもいいことではない。時間が経過すれば樋高さんの状況は悪化するだろうし、それだけ現実の『
甘池さんが手がかりを握っているかはわからないが、とにかく、聞いてみるしかないわけだ。
「実は、私、倒れる前の記憶がちょっとあやふやでして。で、甘池さんにその時の私の行動について、いくつか確認したかったんです。思い出せないの、やっぱりちょっと心配なので」
「なるほど。でも、僕に答えられること、そんなにありますかね?」
「そうですね……。思い出せないのは、あの、記者の樋高さんに会った後くらいからなんですけど」
ああ、と。甘池さんが少しだけ苦い顔をする。
「あの、不思議な格好をした記者ですね」
「そうです、あの記者さんです。先日、甘池さんと樋高さんがお話されていた、と伺ったんですが」
「あー、あれか……」
大したことじゃないんだよ、と言いながらも、甘池さんの顔色はどうも冴えないものになる。城守さんの悪口雑言を前にしてもしれっとしている甘池さんらしくもないことだ。
「あの記者、薊ヶ原さんが倒れた日の僕の行動を根ほり葉ほり聞いてくるものだから、どうにも嫌な気分でしたよ」
「それなんですけど、甘池さん、あの日、私が倒れた植物園にいたって話を聞いて。どうして、植物園にいたんですか?」
私の問いに、甘池さんは口元に笑みを浮かべた。
それは、いつもと何も変わることのない、甘池さんのゆるい笑顔なわけだけど、どうしてだろう、背筋がぞくりとする。
「薊ヶ原さんが心配だったんです。あの記者、何か様子が変でしたしね?」
確かにあの日の私は樋高さんの誘いに乗ったが、客観的に見ればどこかおかしな行動を取っていたのは樋高さんの方だ。情報を提供しに来た、と言いながら何も語らなかったのだから。樋高さんが「被害者」となった今は、樋高さんが大槻さんを殺した『
「でも、私は、あの日植物園に行くとは、言ってなかったはず――」
「薊ヶ原さん」
甘池さんが、一歩、こちらに近づいてくる。思わずじり、と下がってしまう私に対して、甘池さんは普段通りの調子で、しかし。
「僕は、薊ヶ原さんのことなら、何だってお見通しですよ」
明らかに異常な言葉を、吐き出すのだ。
いつもの軽口として受け止められればよかった。けれど、現実に甘池さんは、私が話してもいなかったはずの植物園にいたのだ。口から出まかせとして聞き流すことなど、できようもない。
私の警戒を察したのか、甘池さんはぱっと表情を明るくして、両手をひらひらと振る。
「そんな顔をしないでくださいよ。言ったでしょう、僕は、薊ヶ原さんが心配だった。それだけです。結局、薊ヶ原さんが倒れる瞬間に駆け付けることもできませんでしたし」
「……そう、なんですか?」
「僕が見つけた時には、薊ヶ原さんはすでに倒れていたんです。それで、すぐに救急車を呼んで」
本当に、元気になってよかったです、と、甘池さんが言う。
「まさか、あの記者に何かされたのではないか、とも思ったのですが、医者は『身体的に異常はない』というじゃないですか。だから、ひとまず疑うのはやめよう、って思ったところで、あの記者の方が僕のことを詰めてくるじゃないですか。全く、僕が薊ヶ原さんに手を出すわけがないじゃないですか」
心底腹立たしい、という様子で腰に手を当てる甘池さん。その言葉を果たして信じていいものか、否か。私にはもはやわからなくなっていた。正直、めちゃくちゃ不気味な話ではある。果たしてどうやって私が植物園に行くということを知ったのか。どうすれば『何だってお見通し』になるのか。想像するだに背筋がぞくぞくする。
もう少し、突っ込んで話を聞く必要があるということか。背筋に張り付く嫌な感じを振り切って、もう一歩、踏み込もうとしたその時だった。
甘池さんの端末がけたたましく鳴る。甘池さんは「げっ」と声を上げて私と懐の端末とを見比べる。
「……ご、ごめん、薊ヶ原さん」
「いいですよ、……城守さんからの呼び出しですよね、多分」
「もー、空気読まないんですからあの人……、と、そうだ」
端末を取り上げながら、けたたましい音の合間に、甘池さんが言う。
「薊ヶ原さんが倒れた日、一応城守さんには伝えたんですよ、薊ヶ原さんが記者に誘われて植物園に行くらしいってこと」
「え?」
「まあ、城守さんは『勝手にやってろ』って言ったんで、僕も好きにしたんですが」
それじゃ、話の途中で申し訳ないけどこれで、と。
端末の通話ボタンをタップしたところで、こちらにまで聞こえてくる城守さんの罵声。うーん、甘池さん、これは城守さんの許可なく出てきたな?
かくして、甘池さんはばたばたとその場を去ったわけだ。
* * *
「いやっ、その甘池って人絶対怪しいですって! あやしーい!」
樋高さんのお言葉ももっともである。あと叫びながらサンゴくんのほっぺたを引き伸ばすのはやめてあげた方がいいのではないだろうか。止めないけど。
「怪しいとは思うんですけど……」
とはいえ、追及したところで、果たして「私の心をバラしたのはあなたですか」なーんて言ってもはぐらかされるのがオチだ。そもそも罪に問うことだって難しい。
……ということをぽつぽつ漏らすと、樋高さんに唇を引っ張られているサンゴくんが「そりゃそう」という。
「『
井槌さんたちは研究者であって警察ではない。ある側面だけ見れば警察以上の強権を発動できるところもあるようだが――例えば、サンゴくんに対する、人道とか完全に無視した扱いがそれだ――それはひどく限定的な条件の上になり立っている。そうでなければ怖すぎるというのもその通りなのだが。
「でも、そう、あの日甘池さんが植物園にいたってことは間違いなさそうです。救急車を呼んだのも甘池さんってことなので、おそらくそこに嘘はないでしょう」
そのあたりは、きちんと確かめようと思えば救急の側からも証言を得られるのだから、甘池さんが嘘をついたとは考えづらい。
樋高さんは「なるほどな~」と首を傾げながら言う。
「救急車を呼んだのだって、自作自演のセンは十分ありますよね? ふつーの人はもちろん『
「もちろん、そうなんだけども。でも、……それなら、城守さんに伝える理由はあったのかな、って」
そう、どうもそれが引っかかっているのだ。
甘池さんが私の行き先をどうして知っていたのか、それは本当にめちゃくちゃ気になるわけだが、その一方で甘池さんは城守さんに自分の動向を隠していなかった。……いや、城守さんに確認していないから、それも真実かどうかは怪しいが。
それでも、仮にその言葉が真実だとしたら、どうしてこれから私を襲おうとしているのに、その動向を隠そうとしていなかったのか。
樋高さんの言う通り、「自作自演のセン」は捨てきれないのだから、それすらも甘池さんの狙いである可能性は否定できないが――。
視線を、少しだけ離れた位置の壁にかかっている、植物園の絵に向ける。甘池さんが木々の合間に映っている、それ。
ただ、さっきは甘池さんに気を取られてしまったからわかっていなかったが、もう一つ、違和感があることに気づく。
「あの絵……、何か、変じゃない?」
「ああ、気づいたかな。ちょうど、俺とヒカルさんもその話をしていたところなんだ」
サンゴくんが言う。ほっぺたをたぷたぷされながら。
「よくよく見てみると、不自然なんだ。木々が立ち並んでいる風景だから、余計にわかりづらかったんだけど」
――それでも、よく見ればわかる程度の不自然さだ。
サンゴくんの言葉の通り、描かれている植物園の風景の中に、上手くつながっていない箇所がある。二つの別の絵を画像編集ソフトで合成して加工したような、そういう違和感。
「やっぱそうなんだ?」
そう聞いてくる樋高さんは困った顔で首を傾げたままだ。
「実は、あたしにはそう見えないんですよ。センセーに言われて、よくよく見てはいるんですけど」
「それは、多分、ヒカルさんは『斬られた』本人だから認識そのものが不可能なんだと思う」
情報を欠いている状態が正であると錯覚させられているから、客観的にこの風景を認識できないのだ、とサンゴくんは言う。
と、いうことは、つまり。
「これが、『
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