06:眠り

「アザミさんは、よく眠れているかな?」

 と、サンゴくんが言ったのを思い出していた。

「ちゃんと寝てる方だとは思うけど。どうして?」

「いや、あんな出来事があったしさ。眠りづらかったりしたら、体に悪いだろうなと思って」

 なお、サンゴくんを置いているリビング兼ダイニングと、私が寝起きしている寝室はかろうじて別だ。ほとんど食事と寝起きしかしないのでちょっと広すぎると思っていたが、サンゴくんのことを考えると、この間取りでよかったなと思っている。流石に寝てる間もずっと生首に見つめられているのは、精神衛生的にどうかと思うわけで。

 しかし、改めて布団に入ってからのことを考えてみると――。

「うーん、別に困ってないかな。布団に入ればすぐ眠れてる……、とは思う」

 とは思う、というのは、実際に眠りに落ちる瞬間は記憶にないからだ。すとんと意識が消えて、気づけば翌朝。夢も見ていないのかもしれない。もしくは見ていても思い出せないのか。

 サンゴくんは、「ふむ」と言ったきり、しばし黙った。そしてそれ以上「眠り」については言及はなく、別の他愛のない話に移った……、はずだ。

 とにかく、そんなことをつらつらと思い出して思考を塞ぐ程度には、現実から逃避せずにはいられないのだ。

 だって、珍しく夜中に目が覚めたな、と思ったら、枕元に何かがいるのだ。眠る間もつけっぱなしの常夜灯の下で、それはぼんやりとした影を浮かび上がらせていた。かろうじて人影だとわかる、曖昧な輪郭の上に、走るノイズ……、って、ノイズ?

 脳裏に鮮明に蘇る、植物園で目にした銃刀法違反。枕元のそいつも、どうやら刀を手に握っていて、それを今まさに振り上げようとしていて。

「……っ!」

 今度は植物園の時のように逃げ場もなく、しかし、こんな理不尽な状況を「はいそうですか」とすんなり受け入れるわけにもいかないわけだ!

 跳ね起きて、そいつの体を強く突き飛ばす。体勢が悪いせいで大した力は入らなかったが、しかし相手も私が突然動くとは思っていなかったのか、よろめき、たたらを踏む。その隙を見て、裸足のまま部屋を飛び出す。

 目指すはもちろん玄関扉だが、そういえばチェーンかけてたな? チェーンを外して鍵を開けて、なんて悠長なことしていられるか、と思ったところで、がつん、という音がした。見れば、私のすぐ真横に刀が振り下ろされていて、床を穿っていた。

「う、うわっ」

 ちょっと待ってよこんな傷つき方したら、流石に弁償しなきゃならないんじゃない? そもそも命がかかってんだからそれ以前の問題だってのはそうなんだけど、思考がどうにもとっちらかって仕方ない。

 刀をそのままこちらに向けようとしてきた銃刀法違反二号に、咄嗟に手に掴んだものを投げつける。それが何だったのかは自分でもわからなかったが、がつん、という思いのほかいい音がしたから、銃刀法違反二号の頭か何かにぶち当たったのかもしれない。一瞬、相手の動きが止まる。

 その刹那に、声が聞こえてきた。

「アザミさん! こっちへ!」

 サンゴくんの声。でも、サンゴくんの方に向かったら、それこそ玄関からは離れていくわけで、逃げ道を塞がれるだけではないのか。それとも、サンゴくんに何か策があるとでもいうのか。本人曰く「首から上には自信がある」とのことだから。

 覚悟を決めて、サンゴくんが待っているテーブルに駆け寄る。こちらの部屋も、自分から動けないサンゴくんのために、常夜灯だけでもつけておいたことが幸いした。サンゴくんは真剣な顔で私を見つめて言う。

「俺を抱えて、そいつと向き合ってくれ」

「え?」

「早く!」

 サンゴくんを抱えて何になるっていうのか。言われている意味がさっぱりわからないが、サンゴくんの剣幕を見る限り、この状況から脱することを、諦めているわけではないようだ。

 ――ええい、ままよ!

 サンゴくんを持ち上げて、小脇に抱える。片手で支えるにはやや重いが、両手が塞がっているのは不安だったから。そして、言われた通りに、刀を持った人影と向き合う。銃刀法違反二号は、相変わらずノイズまみれで、その形も定かではないが、手に提げた刀だけがぎらぎらと、血を求めて輝いているように見えて。

 その時、不意に。

「メドゥーサってご存じかな、アザミさん」

 腕の中で声がして。

 その声が、一つの呪文か何かであったかのように、輪郭を曖昧にしていたノイズがふっと薄まる。同時に、銃刀法違反二号の動きが凍りついた。刀を持つ手も下がったまま、固まっている。ノイズが薄れても、その顔形はすっかり陰になっていて見て取ることはできなかったが、しかし、今まで男か女かもわからなかったそれが、どうやら背の高い男のシルエットを持っているらしい、ということが、わかってくる。

「蛇の髪を持つ怪物。その目で睨まれたものは、石と化すのだというよね」

 歌うように、サンゴくんが言う。こんな切羽詰まった場面には不釣り合いな、明るい声だった。

 そして、私もその名前くらいは知っている。昔は、おとぎ話や神話の類をうきうきと読み漁ったものだ。メドゥーサはギリシア神話の怪物。その視線に睨まれたものは、石のように全身を硬直させる――あるいは、本当に石になってしまうとされる。やがて、英雄ペルセウスに首を切られるが、その首は変わらず石化の力を秘めており、ペルセウスが怪物を退治するために使ったり、女神アテナの盾に据えられたりした、とか何とか。

 そういえば、ペルセウスが海の上を渡っているとき、メドゥーサの切られた首から滴り落ちた血が珊瑚になった、なんて話もあった気がする。

「サンゴくんも、そういう怪物ってこと?」

「いや、今、『そういう設定』にしただけさ。アザミさんが逸話を知っててくれてよかった」

「どういう意味?」

 サンゴくんの言っていることはさっぱりわからなかったが、サンゴくんのおかげで、銃刀法違反二号が動きを止めているのは間違いなさそうだ。

 でも、ここからどうする?

 いくらサンゴくんがメドゥーサじみた能力を持っていたとしても、本当に石にできるわけでもないらしい。その証拠に、常夜灯の下でわだかまる影として存在する銃刀法違反二号は、目に見えない何かに縛られた風に動きを止めているが、それでもじわじわと刀を持ち上げようとしている。その切っ先は、どこまでも、私を狙っているのがわかってしまう。

 それに、どうしてだろう、酷く苦しい。もちろん、咄嗟に動いたことに、命を狙われているらしいこと、動悸が激しくなるには十二分なわけだが、それだけではない。これと向き合っているだけで、妙に息が詰まるのだ。まだ、何をされているわけでもないはずなのに、体のあちこちが悲鳴を上げ始める。少しでも気を緩めれば、指が、腕が、足が、胴体が、そして、首までもが、ほつれてバラバラになってしまうような錯覚すら脳裏に浮かんでくる。冷たい汗が、額を、背中を、伝っていく。

「アザミさん、気を確かに」

 低い声でサンゴくんが言う。もしかすると、サンゴくんを支える手にも、汗がにじんでいたのかもしれない。

「もう、何となく気づいていると思うけど、この状況はまともじゃない」

「そりゃあ、そうだろうね!」

 何となくどころの話じゃない。この状況が異常じゃないとしたら何だっていうのさ。刀を持った、姿形すら定かじゃない男に狙われるなんて。

「こんなの、悪い夢にもほどがあるって……」

 言いかけて、口を噤む。悪い夢。そう、現実離れしすぎているのだ、何もかも、何もかも。この銃刀法違反二号は、どこから入ってきた? ばっちり施錠したはずの玄関扉に窓。植物園で一号を見かけた時もまあまあ異常事態ではあったけれど、それ以上に「あり得ない」事態であることは間違いない。

 サンゴくんは「そう、アザミさんの言葉のとおり」といたって軽い口調で言い放つ。

「これは夢なんだ。アザミさんが眠っている間に見ている夢」

「夢にしちゃ、随分リアルすぎやしない?」

 それに、この全身に襲い掛かってくる苦痛が「夢」の一言で済まされたら、たまったもんじゃない。

 その間にも、徐々に銃刀法違反二号はサンゴくんの呪縛から解放されつつあるのか、ゆっくり、ゆっくりと動き出そうとしている。痛む足を叱咤して、じり、と下がろうとするも、すぐに背中が壁にぶち当たってしまう。

「やっぱり強固なイメージだな、今の俺じゃ介入しきれないか。アザミさんには、これ、どう見えてる?」

「ノイズは消えてる、けど、はっきりと顔は見えない。……ただ、男の姿っぽいとは、思うよ」

「『犯人』は男。けれど、それ以上はアザミさんでは思い出せない」

 ――もしくは、「思い出してはいけない」事柄である。

 サンゴくんはそう言った。どうも、目の前の事象が全部私の夢の出来事である、ということを前提に話をしていることはわかってきた。なら、腕に抱えているサンゴくんも、私の夢? 他のあれこれはともかく、随分突飛なイメージもあったものだ。

「ともあれ、これ以上は俺も留めるのが難しい。逃げよう」

「逃げよう、って、追い詰められてるけど?」

 こんこん、と壁を叩く。隣の部屋に響くだろうか。しかし、これ自体が私の頭の中で起こっている出来事だというなら、そもそもその心配も的外れか。本当に夢であるならば、床の傷だって気にしなくて済むわけだから、いっそありがたいかもしれない。この調子で、夢から覚めてくれるともっとありがたいんだけど。

「ただの夢なら、目を覚ませば逃げ切れるけど」

 そんな私の心をそっくりそのまま読み取ったかのように、サンゴくんが言う。

「本当の意味で『覚める』にはもうちょい手順が必要でね。その手続きをするには、色々足らない」

「でも、逃げようって言うってことは、逃げる手段はあるってことだよね」

 その程度には、サンゴくんの言葉を信じている自分に驚く。出会った瞬間から今に至るまで、何一つはっきりとしたこともわからない、得体のしれない生首だというのに。

 当人曰くの「企業秘密」はあっても、嘘を吐くような首じゃないと、信じている私がいる。

 私の言葉に、サンゴくんは笑ったようだった。くつくつと喉を鳴らしたのが、指先から伝わってくる。

「もちろん。なあ、アザミさん。『そこ』は、『扉だった』んじゃないか?」

 どういうこと?

 そろりと、サンゴくんを掴んでいない方の指先を壁に這わせる。その感触が、一瞬前のそれとは異なっていることに気づく。わずかにざらりとした壁紙の手触りではなく、ひんやりとした、金属の気配。手で探ってみれば、そこに垂直に生えているのは、ドアノブだ。私は今、こんなところにあるはずもない「扉」を背にしている。

「大前提を覆すことはできないけれど、少し『弄る』くらいなら、今の俺にもできるってこと」

 逃げるぞ、というサンゴくんの声とほとんど同時に、石化の呪縛を振り切ったらしい銃刀法違反二号が、今までの緩慢な動きが嘘のように刀を振りかざす。ドアノブに手をかけたはいいが、その、刀の切っ先を目にした瞬間に、身動きが取れなくなる。

 頭の中に蘇るのは、バラバラにされて転がる大槻オオツキさんの姿。手、足、胴体、そして首。どうしようもなく分解されてしまった大槻さんは、もはや何も語ってはくれなくて。その姿が閃いて消えて、次に浮かんだのは、目の前に落ちた腕。それは。

 ――私の、腕?

 呼吸が止まる。そうだ、私は、この銃刀法違反――『犯人』に出会っていて、それで。

「アザミさん!」

 サンゴくんの声が遠い。私は思い出そうとしている、刀が振り下ろされる瞬間を。そう、それは、今この瞬間と全く同じ……。

 だが、そのぎらぎらと輝く刃が私を裂くことはなかった。突如として、銃刀法違反二号が吹き飛び、横の壁に叩きつけられたのだ。これには驚きの方が勝って、脳裏を支配するイメージも、全身を苛む苦痛も、すっかり吹き飛んでしまう。

 しかも、目の前に現れた「それ」が、あまりにも想像を超えていた。

 銃刀法違反二号を叩きつけたのは、常夜灯の下にもはっきりとわかる、熊だった。

 天井に届きそうなまでの筋肉質な体躯は、ごわごわとした真っ黒な毛に覆われている。その腕は丸太じみていて、巨大な手には鋭い爪。凶器を握ってこそいるが、あくまで人間の形から離れられない銃刀法違反程度では、太刀打ちできっこないだろう。熊に遭ったら逃げるしかない、それが人類の鉄則だ。

 そして、何よりも、この熊、口にびちびちと身をくねらせる鮭を咥えている。

 そういえば、さっき、銃刀法違反二号に向けて、何かを投げてぶつけたことを思い出す。もしかして、あれは……、大槻さんからもらったキーホルダーだったのかもしれない。北海道土産の、立派な鮭を咥えた、堂々たる木彫りの熊。

 つい、かわいくないなあ、と言ってしまった私に「いらないならいいんだぞ」とふてくされたように言った大槻さんの顔を、今はもう、よく思い出せない。ただ、目の前に現れた巨大な熊に、その、こちらに向けられた目の――恐ろしげな風貌に反した、穏やかな色に。勝手に大槻さんの気配を感じてしまって、苦痛とはまた違う、喉の奥が詰まるような感覚を覚える。

「今のうちだ、アザミさん」

 サンゴくんの声で、我に返る。

 そうだ、チャンスは今しかない。

 握ったドアノブを捻る。扉が開いた気配を手で確かめて、背中で扉を押す。

 ぐらり、体が傾いで、それから――。

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