12:湖
サンゴくんを片腕に抱えて、ゆるやかな坂道を下っていく。おもちゃのような街に向けて。
成人の頭の重さは五キログラム前後と聞いたことがある。そんなわけで、やっぱり片腕で抱え続けるにはどうにも重たいサンゴくんなわけだが、しかし、片手を空けているのは他でもないサンゴくんの要望である。
「いつ、何が起こるかわからないからね。いざって時にアザミさんの手は使えた方がいい」
「いざって時にサンゴくんを投げ出すんじゃダメ?」
「うーん、絶対痛い」
足元、アスファルトだもんな……。いくら精神世界をコントロールする能力を持つサンゴくんとはいえ、「落下して地面に打ち付けられたら痛い」という当然の感覚を覆すのは難しいようだ。
「あと、俺の力をアザミさんが行使するためには、アザミさんと俺が接触している、というイメージが大事みたいなんだよな。俺も『人の手を借りる』のはこれが初めてだから、あくまで感覚的な話なんだけど」
言われてみれば、「サンゴくんを抱えている」状態の時に限っては、この手で夢の世界をちょっとだけ弄れる、という、言葉にならない確信のようなものが胸に浮かんでいる。今なら、この前のように虚空に指を突っ込んで、ありもしないはずのものを引っ張り出してこれる、ような。
「ぶっちゃけ、因果関係はよくわからないんだけどね。何せ前例がない。つまり、やってみないとわからないってことさ」
「つまり、試しにサンゴくんを落としてみるのも」
「絶対痛いからやめよう」
「うんうん冗談冗談」
片腕で抱えていると、変な肩のこり方しそうだけど。まあ、現実に肩がこるわけじゃないから、いいか。
そんなわけで、サンゴくんは私の腕の中。現実世界の、厳重に拘束されているサンゴくんの姿を思い出すとそれはもう複雑な気持ちにもなるってものだが、しかしサンゴくん当人はすっかり慣れたものらしく、呑気に鼻歌なんぞ歌っている。
……もしかすると、サンゴくんには、こうやって他者の夢の世界を探索している間だけ、自由であるのかもしれない。もちろん手も足も出ないように制限されているとはいえ、それでも、何一つ行動らしい行動ができない現実よりも遥かにマシなのは間違いないだろう。
そうとでも思わないと、サンゴくんのやたら積極的な協力姿勢に説明がつかない。
――どれだけ私の頭で理屈をこねたところで、そういう奴、って言われてしまったらそれまでなんだけども。
「しかし、今のところはいたって平和なものだね」
鼻歌を止めて、サンゴくんが言う。
確かに、すこんと抜けた青い空に綿菓子のような白い雲が浮かび、太陽の光がさんさんと降り注いでいる。うっすらと風が吹いていて、わずかに草木の香りがする。気温は過ごしやすく、歩いていてもぎりぎり汗が滲まない程度。そのどれもがあくまで「私がこの精神世界から感じ取っている」ことであり、現実のものでないと頭で理解はしていても、なかなか心が納得してくれないでいる。
「斬り刻まれた、と聞いていたけど、アザミさんの夢よりも遥かに安定している。もしくは、この場所だけがそう見えているだけで、どこかに『
と、ぺらぺらしゃべっていたサンゴくんが、突如としてぴたりと口を閉ざす。
「どうしたの?」
「アザミさん、あそこ」
いつの間にか坂道は終わっていて、街の入口に辿りついていた。かわいらしい家々は、遠くから見ていたのと印象はそこまで変わらず、やはりおもちゃじみていた。テーマパークに並ぶ、かわいいだけで住居としての役目を果たしていない、はりぼての家といったところか。
ただ、サンゴくんが注目していたのは家ではなく、家と家の間の細い道を歩いている人影だった。
まさか、この人の夢の中にも『
「『
長い髪にフェミニンなシルエットのロングスカート。私からも後ろ姿しか見えなかったし、その姿はすぐに道を折れてゆき、視界から消えてしまってそれ以上観察することはできなかったけれど。
ただ、何故だろう、あの後ろ姿。はっきり「何」とは言えないが、頭に引っかかるものがある。
それにしても、他には全く人の姿はなく、ひどく静かだ。私の夢は、私がそれを「夢」と認識していなかったのも手伝ってか、限りなく現実世界に近しく、つまり常に他人の気配があった。人によってこれだけ精神世界にも違いがある、ということに驚かされる。
そんな、耳が痛くなるような静寂の世界に、突如として現れた女性――。
「追いかけてみる?」
「そうだね。人っ子一人見えないのに一人だけいる、というのも気になる。お願いしていいかな」
「了解」
サンゴくんを抱えなおして、女性の人影が消えていった道をゆく。舗装された道は複雑に交差し折れ曲がっていて、二、三回曲がってしまえば、もはや方向感覚も完全に失われてしまった。
それでも、こちらから逃げるように――本人は別にそのつもりはないのかもしれないが――歩いていく女性の背中をちらちらと見ているうちに、ふと、気付いたことがある。
「サンゴくん」
「何かな?」
「私、あの人、知ってるかもしれない」
サンゴくんが微かに息を飲む気配が指先に伝わってきた。流石にこれは、サンゴくんにとっても意外だったのかもしれない。私自身、名も知らぬ人の精神世界で、知った顔を追いかけることになるとは思っていなかったから。
とはいえ、だ。
「確信は持てない。何しろ、本人と会ったことはないから」
「どういうことだい? 会ったこともないのに知ってるって。芸能人か何かかな? 俺、テレビとか全然見てなくて、最近の人はさっぱりなんだよね」
「そりゃそう」
あの状態で普通にテレビを見てたらびっくりだ。いや、常人とやや感覚がズレてそうな三崎さん辺りなら、そのままじゃ暇でしょ、とかなんとか言って部屋にテレビをつけたりしても違和感はない、と思ってしまったが。
しかし、私が言いたいのは、別にそういうことではないのだ。
「芸能人ってわけじゃない。ただ、私と――、あと、
「ほう?」
「私と大槻さんにとっての最後の事件。
「これだけ言われれば、恋人から逃げるために姿をくらませたって考えるのが妥当だよな」
「そう、当初は誰もがそう思ってた。でも、仕事先にも連絡はなく、友人たちもそんな素振りはなかったと首を傾げるばかり、親にすら行き先を告げてなくて、誰一人瑞沢さんの行方を知らない。それで、正式に失踪事件として認められて、私と大槻さんか捜査に当たってたの」
「それで、発見されたのかい?」
「ううん。徹底的に捜査したんだけど、全く足取りが掴めなくて。そんな最中に、大槻さんがあんな目に遭って……」
そういえば、それからどうなったのだろう。瑞沢さんの行方について、捜査は進んだのだろうか。大槻さんのことで精一杯で、しかも私自身も襲われて、それどころではなくなっていたわけで。
もちろん、城守さんが部下の抱えていた事件を放置してることはないだろうから、別の誰かに任せてるとは思うのだけど。城守さんは、あれで仕事はきちんとやれる人だ。甘池さんが常々ぼやく通り、責任問題に発展させたくないだけなのかもしれないけども。
サンゴくんは「ふむ」と考えるような素振りを見せる。
「あの女性が、アザミさんと大槻さんにとっての最後の事件の主要人物ってわけか。それが、『
「ううん、私は名前も顔も知らなかった。つまり、捜査の中でも、瑞沢さんの関係者として挙げられたことはない」
もちろん、そのあとの捜査で磯兼さんと瑞沢さんの間に何らかの関係性が認められたかのかもしれないが、それは知る由のないことだ。
そんな話をしている間も、足は止めない。瑞沢チアキによく似た女性は、我々の少し前を弾むような足取りで行く。走って追いかければ追いつけそうな位置ではあるが……。
その背中を追いかけて、何度目かもわからぬ角を曲がったその時、急に視界が開けた。
おもちゃの街は突如として終わりを告げて、目の前に広がるのは青い水面を湛える……海?
「海……、じゃなくて、これは湖かな」
確かに波もなければ潮の香りもしない。ただただ静かに、しかし視界いっぱいに存在する、湖。
「こんな湖、坂道の上からは見えなかったよね?」
「辻褄が合わないのはよくあることさ。それに、現実においてすら、航空写真で見る風景と、実際にその場に立って把握する風景とでは全く印象が変わるだろ。人間の認識ってのはそのくらいあやふやなものなんだから、夢の中ならなおさらさ」
「確かに、そうなのかも。人間の頭の中って、案外いい加減だよね」
例えば、記憶だって、そう。刑事として事件を追っているとよくわかるが、人の記憶というのはいとも簡単に変質する。「犯人を見た」という証言を得ても、よくよく話を聞いてみれば他の証言や証拠と食い違うことはよくある。これは何も嘘をつこうとしていた、というわけではなく、「その人物の中ではそう記憶されていた」ということ。
――人間の記憶なんて、そのくらいいい加減なもんだと心しておけ。
それは、大槻さんの口癖だった。
「じゃあ、人の記憶はそもそも信じちゃいけないってことですか?」
そう問うた私の頭を、大きな手で叩いた大槻さんは、うんざりとした顔で言ったものだった。
「ちげーよ。一つの側面だけで判断しようとするなってことだ。一方で、信じてやることは必要だ。俺たちは、人を疑い続けなけりゃ足を掬われるが、人を信じなきゃ前に進めない」
私は、未だに大槻さんの言葉を全て理解できたわけではない。そして、言葉の意味を確かめたいと思っても、もうその大槻さんはいないのだ。
ただ、その言葉を忘れまいと誓うことは、できる。いつか必ず変質するものだとしても、大槻さんが私の横にいたということを、たくさん大事なことを教えてくれようとしたことを、忘れまいと誓う。
ともあれ、瑞沢チアキと似た女性は、湖の――その水辺にいつの間にか浮かんでいた、小さなボートに乗り込もうとしていた。
そこに。
「チアキさん!」
声が。私のものでもなければ、腕に抱えたサンゴくんのものでもない、知らない声が響いたのだった。
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