小平秀人は走り出す
時計の針は午前四時四十二分を指している。
薄暗い空気、静寂のしじま、多くの人々が安眠にまどろむ時間。
なんの前触れもなく、
すばやくベッドに身を起こし、軽く伸びをする。
手早くトレーニングウェアに着替え、顔を洗い、スポーツドリンクのペットボトルを手に、ワンルームマンションの部屋を出るまでの所要、90秒。
ドアに鍵をかけ、エレベーターのほうを一瞥、それから非常階段に向けて軽快にステップを踏む。
いつもの一日が、はじまった。
マンションを出てしばらく走ったころから、ようやく〝朝〟の空気がしみこんでくる。
住宅街を不規則に曲がりながら進み、ほどなくいつもの河川敷の坂道を登る。
心地よい川風が頬を撫でる。一度深呼吸をして、体内の澱を吐き出す。
「きょうもいい一日でありますように! 押忍!」
気合一発、ジョギングを再開する。
長くゆるやかに蛇行する川沿いに、毎朝約10キロ。
彼が早朝のこの習慣を再開して、もうどれくらいになるだろう。
今年、大学を卒業して就職し、東京で一人暮らしをはじめた。
会社と部屋を往復するだけの時間しかない、過酷なIT系エンジニアとしての半年間は、つらくはあるが楽しくもあった。
その単調な生活に、先月から早朝のジョギングという習慣を付け加えたのは、スポーツ少年だったころの記憶を身体が覚えていたからかもしれない。
「だいぶなまってたからなあ」
走り始めた当初は10キロを完走するのもやっとだった。
だが本来あるべき姿を思い出すのに、数日も走ればじゅうぶんだった。
いまでは毎朝、走らない生活など考えられなくなった。
目覚ましを鳴らすまでもなく、身体が自然に走りたくて目覚めてしまうくらいなのだから。
河川敷を快調に飛ばしながら、ところどころで柔軟体操を入れる。
いつもの日常。
──それを破る視線を感じて、彼は、ふとそちらに顔を向けた。
大手私鉄の鉄橋がかかる橋脚のたもと、ひとりの女が彼をじっと見つめている。
「……えーと」
周囲を見まわし、自分以外に人影のないことを確認する。
しばらく考えてから、ジョギングを再開する。
女に向かうようでいて、その横をすり抜けるコース。
すれちがいざま、秀人は「おはようございます」とだけ言った。
その挨拶の言葉にかぶせるように、
「どこまで連れまわすつもりですか」
女の抑えた声音。だが語調には厳しさがにじみ、詰問するようでいて、しかもどこかしらに恐怖を感じさせる。
思わず足を止めるにはじゅうぶんな、〝謎〟の第一声。
「はい? ……俺ですか?」
「あなたしかいません。すべて──あなたの責任です」
あらためて、まじまじと女を眺める。
美しくはないが、醜くもない。また若くはないが、年寄りでもない。太ってはいないが、痩せてもいない。髪の毛は長くないが、短くもない。
要するに、どこといって特徴のない、二十代後半の、ありふれた女。
ただ、どこかしら不可思議な〝雰囲気〟をもっている。
「人違い、じゃないですかね? 俺は──」
「はじめまして。私は
「へ? あ、ええと、小平秀人です」
自己紹介を返しながら、考える。
はじめましての相手に、あなたの責任です?
巴と名乗った女は、しばらく考え込む秀人を黙って見つめるような態度だった。
しかし彼は、すぐにその視線が彼ではなく、彼の背後に向けられていることに気づいた。
女の目は見開かれ、全身に発作的な恐怖のふるえが走っている。
思わず秀人も背後を顧みるが、とくに代わり映えもしない景色が広がるだけ。
いつもの河川敷。
視線を戻した秀人の手をとり、引っ張って早足に歩き出す、巴という女。
「早く。止まってはいけない」
そのまま堤防の上まで登ったところで、ようやく秀人は相手の手を振り払い、
「なんなんですか、あなたいったい……」
「いいから乗って」
巴は、そこに止まっていた軽自動車の助手席を開け、秀人を押し込もうとする。
「ちょっと待ってください、これ性別逆だったら犯罪ですよ。いや逆じゃなくても……」
「うるさい! 緊急事態なんだから、黙って乗って!」
無理やり押し込まれるや否や、車はタイヤをきしませて走り出した。
しばらく走ったところで、鬼気迫っていた巴の表情に、ようやく落ち着きの色がもどってくる。
その横顔に向けて、
「説明してくださいよ」
秀人に言われるまでもなく、かぶせるように巴は語りだした。
「最初に言っておきます。あなたには、はじめましてかもしれないけど、私はあなたを知っています。それも、けっこう頻繁に会っているんですよ」
すでに秀人のなかにも、「なんとなく見たことあるんだよな」という思いがわきあがっていた。
「すいません、だとしたら失礼ですけど……」
「いえ、直接の面識があるわけではないんです。ただ、私のオフィスが、あなたの勤務する会社と同じビルにあるというだけ」
「ああ、それで……ご近所なんですか?」
「いいえ、家は反対方向です。──ここ数日、くりかえし追いかけて確認してきました。そして確信を持ち、あなたを訪ねたのです。あなたが引き連れているもののせいで、どれだけの被害が出ているか、あなたに知ってほしくて」
「ちょっと待ってくださいよ。よく見てください。手ぶらですよ。犬もなにも連れてなんか」
「犬ならどれだけましか。……そうですか、やっぱり気づいていないんですね。本能では察知しているのかもしれないけど」
車が信号で止まると、巴は不安そうにバックミラーを見つめ、それからふりかえって、車の後ろをずっと先まで見ようと身を乗り出す。
「……青ですよ」
早朝なので並ぶ車もない。巴は嘆息しつつ、アクセルを踏み込む。
「あなたの後ろに、黒い影がずっとつきまとっている。思い当たりませんか?」
言われてこんどは秀人から、盛大に嘆息してやった。
途中から、なんとなく考えていたことではあった。
この女は、やはり……。
「あの、車止めてもらえます? 俺これから会社あるんで」
「知ってますよ。同じビルに通ってるって言ったでしょ。まだ通勤までは一時間以上あるはずです」
「家にもどって準備とかありますし」
巴はゆっくりと路肩に車を寄せながら、秀人を見つめる。
秀人は、その目をまっすぐに見返す。
──この女は、ちょっとおかしい。
秀人がそう思っている、と気づいたように、巴は悲しげに首を振った。
「あれは、あなたの血族を追いかけている。ゆっくりと、這うような速度で、しかし一秒たりと止まることなく、あなたの移動したルートを、寸分たがわず。そうして何十年、何百年をかけて、どんどん大きくなってきた。周囲の毒を集め、それによって周囲を汚染しながら」
「一条さん、でしたか。送っていただいてありがとうございました。それじゃ」
それだけ言って、秀人は車を降りた。
そのまま見慣れた街路を、再びジョギングのペースで走り出す。
路肩では巴が車を発進させもせず、ずっと秀人の背中を目で追っている。
ふと秀人は、周囲を見回すまでもなく気づいた。
あの女は、どうして俺の家を知っていたんだ?
そういえば数日間、追いかけ回しているとかなんとか。
ストーカーかよ! こええ……。
そこまで考えて、すぐに、まあいいか、と思考を停止した。
もう二度とかかわらなければいいのだ。
すくなくとも、こちらからは。
「わるいねえ、小平ちゃん」
先輩社員が、さしてわるくもなさそうな表情で言った。
「いえ、いいんですよ。……慣れてますから」
最後の小声は聞こえなかったふりで、先輩社員は秀人の机に缶コーヒーを置き、にこやかに去っていく。
──自分の仕事を他人にやらせる理不尽。
これも社会のルールだと、半年かけて学んできた。
それにもともと体育会系の秀人にとって、先輩の理不尽などはある程度まで想定の範囲内だ。
時刻は午後7時をまわった。
突然、激しい空腹をおぼえた秀人は、
「すいません、腹減ったんで休憩いいですか」
不当に後輩を使う先輩の行為を見て見ぬふりしていた上司は、すぐに快く認めて、
「おごるぞ、小平。なんでも取ってやるから頼め」
「いえ、自分ちょっと外で食べてきます。すぐもどるので」
軽く会釈して、小走りにオフィスを出る。
エレベーターに行きかけた足の向きを替え、非常階段の重い防火扉を開ける。
そのまま、いつものジョギングのペースで階段を駆け下りる。
最近、自身よくわからないが、行きと帰り、別のルートを行く癖がついていた。
十数秒後、会社に入ってくるのとは逆の裏口から外に出る──と、そこに彼女はいた。
無視しようと思ったが、すぐにそうはいかない雰囲気を感じて、彼女に駆け寄った。
「だいじょうぶですか?」
「……だいじょうぶじゃ、ないです」
巴の目は朝と同じく、秀人の背後をじっと見つめるように、何者かを凝視している。
思わずふりかえろうとする彼の手を取り、車のキーを握らせた。
朝に見たのと同じキーホルダー。見まわすと、路肩に彼女の車が止まっていた。
「ごめんなさい、ちょっと運転できそうもないので。お願い」
そう言って、自分は助手席へ。
しばらく手の中のキーと巴を見比べていた秀人は、ふと背後からかすかな悲鳴を耳にしたような気がしたが、強い口調で巴にうながされ、しかたなく運転席へとすべりこんだ。
――背後には、複数の企業が入ったインテリジェンスビル。
広いロビーで、どこかの企業の女子社員が両手を口に当て、顔面蒼白で立ちすくんでいる。
何人かのスーツの男が、心配そうに彼女のほうへ集まってくる。
彼女はロビーの中央を見つめ、恐怖にゆがんだ表情で、その場にしりもちをついたまま動けない。
つぎの瞬間、ロビーの電気が前触れもなく明滅する。
エレベーターが警告音を発して止まる。
その隙間にぬるり、と滑り込んでいく、人外のもの。
それは何十年、何百年も、呪われた世界を這いまわっていた、獣。
ふつうの人々の目には見えないモノを、たしかにそこに見いだす、一握りの敏感で哀れな者がまたひとり、壊れたように笑う。
「──こわい、あはは、こわい」
失禁していることに自分でもまだ気づいていない女が、医務室へと担ぎ込まれていく。
彼はそういうものを連れている──。
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