一条巴は不遇をかこつ
「メシ休憩中なんで、あんまり時間ないんですけど」
巴は、運転席で呑気なことを言う男の横顔を、じっと見つめた。
彼自身、車で走っているうち、空腹感がなくなっていることに気づいたようだ。
正確にはそれから遠のくほど、ということになるが、まだ正確に理解はしていないのだろう。
タイミングを合わせるように携帯が鳴って、秀人は車速を緩めながら番号を見ると、オフィスから。
路肩に車を寄せ、回線を開くと、さっき聞いたばかりの上司の声が響く。
「もしもし、小平か。いや、どうやらビルの電気系統にトラブルがあったらしくてな。業務の継続に支障ないとは言われたが、このまえも似たようなことあっただろ? 万一停電でもしてデータ飛ばされたらかなわんし、きょうのところはそのまま帰っていいぞ」
「え、マジすか。でも」
「いいよ、丸投げ野郎にはこっちから伝えておく。ああ、じゃ気をつけて帰れよ。最近なんか、いろいろ変なことも起こってるしな」
通話を終えた秀人の横顔を、じっと見つめる巴。
朝はまっすぐに見返せたその目を、彼はいま、なぜか見返すことができない。
「このまま帰っていいそうなんで」
「そうですか」
「あの、それじゃ駅まで行かせてもらっても」
「どうぞ、あなたの家まで行ってください」
「え、でも……ええと」
「巴です。一条巴」
「すいません、一条さん、えっと、一条さんの家、たしか反対方向だって」
「かまいません。──こんどは、私のお話を聞いてもらってもいいでしょうか」
有無を言わせぬ口調で、彼女は語りだした。
まず彼女は、自分を〝危ない女〟と認めるところから、話柄を開いた。
真正面から自任されると、彼としても対応しづらいだろうという「計算」だ。
口ごもる秀人に向け、巴は問わず語りにつづける。
「……あなた方の価値観からみれば、変でしょう。私は、いわゆる〝見える人〟なんです。あなたの周りにも、何人かそういう人がいるのではありませんか?」
「ああ……そりゃ、まあ」
俺は信じてませんけどね、とでもつづけたいのだろう秀人の言葉にかぶせるように、
「そして、その人たちはことごとく、体調を崩している。あなたのせいで。ちがいますか?」
「あのですねえ」
「すみません、私の話をするんでしたね。──私の家、家賃が一万円なんです」
「え? あの……」
東京の? と問い返すまでもなく、謎は解ける。
「いわゆる〝事故物件〟というやつでして。ふつうの人では、ちょっと耐えられないようなことが、いつも起こっているんです。それで不動産会社さんももてあましていて、私のところに話がきました。餅は餅屋、というのでしょうかね」
「餅屋、なんですか?」
「ある意味、生活の糧になっているといえば、そうかもしれません。家賃が一万円だと助かりませんか?」
「そりゃまあ、助かるでしょうけど」
巴は人差し指を立て、秘密めかしたように、
「でも、たいへんなことはいろいろあるのです。天井から異音がする、壁から異臭がする、水周りに異物が混じる、そして真夜中に怪異が起きる……。買ってきたばかりのものが突然腐る、というのも地味に困るのですが、やはり直接攻撃される場合が、いちばん恐ろしいです」
「霊が殴りかかってくるんですか?」
「まじめに聞いてください。よくあるのは、病気や怪我をもってこられるパターンです。病魔、というくらいですからね。直接、人の生死を分けます。不眠や不安などを起こして精神異常をもたらすパターンもあります。さいわい私は守護霊の力が強いので、そういうものは退けることができますが」
片手に数珠を巻き、指を立てて祈るしぐさをする。
自他共に認める霊感ゼロの秀人をしても、そこになにかしら神々しい力を感じる……ような気がしないでもないほどの、すくなくとも年季ははいっていた。
とはいえ、彼のエンジニアという
「はあ、守護霊、ねえ」
「真夜中、足元に曽祖父が仁王立ちして、鬼門に向かってじっと威圧していました。私の守護霊です。軍服姿でね、霊の流れる道筋に気づかず眠っている私を、静かに守ってくれていました。……私の部屋は、霊の通り道〝霊道〟だったのです」
「で、通行止めになさったと」
秀人の皮肉っぽい口調を、巴は華麗に無視した。
「道は貫くものです。それを塞いだら、行き場を失った霊が周囲に悪影響を及ぼします。溜まった霊が穢れを帯びて、強化される恐れもある。──以前、強力な結界を張って、あくまでもその道を封鎖しつづけていた、強欲な不動産屋がありました。すると、道をふさがれた霊はダムのようにどんどんとたまっていき、最後には……」
巴の自分語りに、ふと似たようなケースを思い出したらしい秀人も、自分を語る。
「そういえば、ひどいことになった不動産屋の話なら、聞いたことありますねえ。ごく身近で……えっと、たとえば」
「その事務所だけが揺れている、悲鳴のような声がした、奇妙な電話がかかってくる、来客が突然苦しみだした、意味不明のクレームが殺到する、しまいには、だれかがガソリンをまいて全焼した、っていう不動産屋、ですか?」
ごくり、と秀人は息を呑んだ。説明するまでもなく、
「ご存知でしたか。去年、俺が部屋を借りたときの不動産屋なんですけどね。いまは、別の管理会社に移ってますけど」
巴の目が、静かに秀人を見据える。
あなたのせいです、と言わんばかりに。
「……ふつうの霊なら簡単に通さない、強力な結界の張られた事務所です。しかし、その力を上回るものがやってきたとき、破綻はより悲劇的な形で訪れる」
「そ、それで、あなたのお部屋の話ですが、結局そのままですか?」
秀人は無理やり、巴の話に引きもどす。
巴は逆らうことなく、シートに身を沈めながらつづける。
「いえ、そこが通り道であるとわかれば、やりようはあります。私は〝本山〟に申請して、霊たちが通りやすいよう天井に道をつくってあげました。それ専用の結界というものがありましてね、以来、大きな騒ぎは起きなくなりました。たまに天井裏で、がたごと音がするくらいで、害はありません」
「はあ、そっすか」
気のない返事をする秀人の鼻先に突然、びしっと指を突きつける巴。
「その私の守護霊ですら、あなたの引き連れているものには太刀打ちできない。あのようなものからは、逃げることしかできない。あれに近づいてはならない、と心底からの警告を発しつづけています。私は本来、遠くへ逃げ出していなければならないのです。いまごろは、ワイハでバカンスしてる自分が大好き! という状況にあるべきなんです!」
「そ、それじゃ是非、そうしてもらって……」
「本来そうしたいのです。けれど」
彼女は語った。
曽祖父たちの、戦地ラバウルで交わした約束について。
それは、太平洋戦争末期。
「あの恐ろしく巨大な魔物」を、巴の曽祖父は戦地で見たことがあるのだという。
──激戦地、ラバウル。
小平という名の戦友が、一条家の曽祖父にこう問うた。
「おまえにも見えるのか、あの死神が」
「恐ろしいものだ。あれはなんなんだ? おまえは、なにを連れている?」
ジャングルの片隅。
ふたりは並んで銃剣を抱き、ふたつの意味で巨大な敵に立ち向かっている。
「知らんよ。生まれたときからついてきているんだ。逃げるしかないと、拝み屋には言われている。残念ながら、それしかないようだと俺も思う」
「話がよくわからんのだが……」
「こっちもよくわかってはいないんだ、それ以上うまく伝えようがない。……いや、いい。忘れよう。どっちみち、たいした話じゃない。化け物がついてこようが来るまいが、俺たちは死の瀬戸際にいる。化け物に殺されるよりさきに、敵の弾丸で死ぬほうが、よっぽどそれらしい末路だろ」
「たしかに。──私が死んだら、家族を頼む」
「こっちの台詞でもあるな。よし、お互いに約束しよう。もし片方が死んだら、生き残ったほうが、死んだ者の家族のめんどうをみるんだ」
「約束するまでもないがな、了解した。これで安心して死ねるよ」
「ふふふ、約束したぞ。……さあ、行こう。終わりの、始まりだ」
軍人たちは決死の覚悟で、死の舞い踊る最前線へと突撃していった。
その短い話を、秀人はなぜか、ごく最近聞いたことがあるような気がした。
そのことをできるだけ表情には出さないようにしたが、巴には察するところがあまりあった。
──戦友だった、小平と一条の祖先が交わしたという、約束。
巴は短く嘆息し、首を振って老人の口調を真似る。
「不公平な約束をしたものだ。──曽祖父は夢枕で嘆いていました。あのような化け物に取り憑かれた一族の末裔を守るなど、荷が勝ちすぎる、とね。
しかし約束してしまったものは、しかたがない。奇跡的に生還した曽祖父は、内地への帰還の途上、それが太平洋を泳いでいるのを見た、と言います。
ぞっとしました、まさかとは思いましたが、約束は約束です。死んだ戦友の実家を訪ね、彼の息子から伸びるその糸に気づいて、こう言ったそうです」
しっかり勉強するんだ。
そして世界を見てまわれ。
なるべく遠くへ。
ひとつところに、とどまってはいけない──。
秀人は、ぎくりとした。
「そう、いえば……」
似たような話を祖父から聞いたことがある、と彼はついに白状した。
その忠告を聞いたのか、あるいは本能的にそうしたほうがいいという判断か、祖父はたしかによく勉強し、外交官となり、世界を回りつづけて死んだ。
父も、祖父の薫陶を得て海外勤務のある商社マンを選んだ。その仕事の関係で、幼いころから海外暮らしが長かった。
当時、一家でアメリカに居住していた小平家。
日本にもどるきっかけになったのは、父が単身で日本に帰国したとき、トラック事故に巻き込まれて死んだこと。
その死を契機とするかのように、血族からは移動に固執する気風が失われ、孫である秀人の代に至ってついに、オフィスに閉じこもって作業をするエンジニアという職業にたどり着いてしまった──。
「そういうことのようですね」
巴の予備的な調査とも、すべて平仄が合った。
すべて手のひらの上、と認めたくない秀人は、ややあわたてように、
「ち、ちょっと待ってくださいよ。まさかそんな……」
「あなたのオフィスで最近、妙なことがつづいてはいませんか?」
「はあ、そういえばなんか、変なものを見たとか、なにもない空間を見て悲鳴をあげたり、貧血かなにかだと思いますけど、倒れちゃう人とかもいるみたいで、あとは物が突然壊れたり、通信が不安定になったり、さっきも電気系統がトラブってたみたいだし……ま、だいたい俺が帰ってからのことが多いみたいですけど」
「あなたのせいですよ」
俺が帰ったあととあらかじめ張られていた予防線を、傍若無人にそれを踏み越える巴。事態はもう、その程度の段階を脱すべきだからだ。
「それじゃ、どうして当の俺自身が平気なんです? そんなすごいものに取り憑かれたなら、まず俺がどうにかなっちゃっても、おかしくないじゃないですか」
「……それは、まだ件のものが、あなたまでたどり着いていないからです。あなたが……おそらく本能で、ぎりぎり躱しつづけているからですよ」
巴の説明がヒリヒリと響くのは、秀人の本能だ。
人間の本能は意外に高性能なものなのだと、巴もよく知っている。
──彼が朝五時に、勝手に目覚めるのは。
努めて別のルートを使って通勤するのは。
すべて、追いつかれないための生存本能?
朝、悠長に七時まで寝ていたら、それに追いつかれてしまうから?
認めざるを得ないという本能の叫びを、理性が必死に押さえつける。
秀人はブレーキを踏んだ。
くしくも今朝と同じ場所、自宅近くの路肩に寄せる。
あいさつもそこそこに、秀人が運転席を降りると同時に、巴も助手席から出た。
車の後方をまわってすれちがいざま、
「あれは〝マ〟ですよ」
ぴたり、と足を止める秀人。
「ま? ああ、それね。悪魔とか魔物みたいな意味ですか」
「というよりも、間、という字を当てたほうが正確かもしれません。あなたに向かって、間を置いて、しかし確実に近寄り、やがて追い憑いたとき……」
「どうなるんです?」
彼女は首を振って答えない。
わからない、と言ったほうが正確なのかもしれない。
ただ、あまりよいことが起こるようには思えない。
見上げれば月。
ニュースでやっていた。明日はめずらしい皆既月食だと。
その夜、秀人と巴は「同じ夢」を見た。
巴はよく見ているが、秀人にとってはめずらしい、爆弾の降り注ぐ戦場の夢。
カーキ色の軍服姿がのたうち、難攻不落と呼ばれた爆撃機が上空を行きかう。
悲鳴と怒号が交錯する、爆音と閃光の南方戦線。
帝国軍人は掩蔽壕に身を潜め、撃墜しようのない死の通過を祈る。
横でまた、人が死ぬ。
爆発の余韻の横を這う、黒い巨大な影。
帝国軍人はぎょっとして、その毛むくじゃらに見える黒いものを凝視する。
ダ……ラワ……イェグ……ゥオ……。
獣らしき影のなかを、死の爆風がつんざいていく。
積み上がった屍体の山、黒いものは地面に鼻面をつけて嗅ぎまわり、なにかを拾うようなしぐさで、再びずるずると這い出す。
その進路にうずくまる帝国軍人は、そのまま意識を失う。
これは夢だ、と自分に言い聞かせながら。
跳ね飛ばされるように目覚めた、その朝、秀人は巴の番号に電話をかけた──。
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