第7話 特別指定幻魔壱号(三)
特別指定幻魔壱号の固有波形が確認された直後、その周囲一定の範囲内で幻魔災害が発生するという事例が確認されるようになったのは、もう十年以上も前のことらしい。
特別指定幻魔壱号、特定壱号とも呼ばれる。
またの名を、
鬼級幻魔は、極めて人間に近い姿をし、極めて高い知性と頭脳を持ち、
また、鬼級幻魔には極めて大きな個体差があり、ガルムやイフリートのような妖級以下の幻魔たちのように一括りにすることができなかった。
ダークセラフという呼称も、その個性的な姿形から名付けられたものだ。
闇の熾天使の名の通り、闇そのもののようでありながら、天使の如き翼を持ち、黒い光の輪を背負っている。禍々しくもおぞましい、絶対の暗黒を光の如く放つ怪物。その顔は、身に纏う衣と、光輪が放つ黒い光の影に隠れて見えない。
それは確かに、幸多たちの父親、
その事件が起きたのは、いまからおよそ六年前のことになる。
幸多は、そのときのことをいまも忘れていない。
忘れようがなかった。
そして、忘れてはいけないことだとも思っていた。
幸多が、事情聴取という名の情報共有を経てようやく家に辿り着いたのは、午後八時を回った頃合いだった。
とはいえ、家まで統魔が送ってくれたものだから、余計に疲れるということはなかったのだが。
統魔は、極めて優秀な魔法士だ。空を飛び回るのも自由自在であり、ついでに幸多を乗せて運んでいくくらい、朝飯前といってよかった。
実際、統魔は、
もっとも、統魔の飛行は荒く、幸多は振り落とされないように彼にしがみつかなければならなかったが。
天燎高校からミトロ荘まであっという間だった。
一般的に飛行魔法には、速度と高度に関する制限が設けられている。
だれもが自由自在に速度も高度もなんの制限なく飛び回るようなことがあっては、秩序が乱れ、混乱が起きかねないからだ。
実際、そうなった事例が過去にいくつもあった。飛行魔法を制限しなかった結果、大きな事故に繋がったという事実が魔法史に刻まれているのだ。
魔法に関する法律は、そうした過去の事例を踏まえた上で定められている。
飛行魔法に関する制限は、試験に合格し、免許を取ることによってのみ緩和されていくのが普通だ。一般市民は、どのような理由があれ、どのような生まれであれ、試験に合格しなければ、制限を緩和することはできない。
しかし、飛行魔法条件免許と呼ばれるそれは、当然のように戦団の導士には関係がなかった。
法定速度などぶっちぎって飛ばなければ、幻魔災害の被害が拡大しかねない。すべては央都の治安のため、市民の安全のため、だ。
だからといって、幸多が振り落とされる心配をしなければならないほどに飛ばすのはどうかと思うのだが、彼は統魔になにもいわなかった。。
「こんなところに住んでたのかよ」
「悪いか」
「んなこといってないっての」
幸多がむくれれば、統魔は笑い飛ばす。
統魔が住んでいる場所と比べて、ミトロ荘はいろいろと安上がりなのだ。だからこそ家賃も安いのだから、幸多にしてみれば文句の付けようがない。
そんな風に思っていると、統魔が背を向けた。ミトロ荘の敷地を跨ごうともしない。
「待ってるからな」
「うん、待ってて。必ず追い着く」
「はっ、追い着けるものかっての」
「追い着くよ」
「……ああ、待ってる」
最後は否定せずに微笑み、統魔は踵を返した。法機に跨がり、飛んでいく。
流星のように空の彼方へ飛んでいく兄弟を見送りながら、幸多は拳を握り締めた。
統魔との約束は、いま交わしたものではない。ずっと昔、それこそ、子供の頃に交わしたものなのだ。
その約束をいまも覚えているし、叶えるためにここにいる。
ミトロ荘は、家賃が限りなく安い集合住宅だが、幸多がここに住むことに決めた理由は、それだけではなかった。
六畳一間だが、風呂もトイレも台所も完備されているのだ。台所には全自動食洗機つきだ。冷暖房機も備わっていて、至れり尽くせりだった。
それなのにこの家賃の安さはなんなのか、慈善事業なのか、騙されているのではないか、と考え込んでしまったほどだった。しかし、管理人の見土呂明子と対面したことで、そうした疑問は露と消えた。
たとえそれが一方的な勘違いでも、そう思えたのだから十分だった。
浴槽に張った湯の中に深々と沈み込んでいく。
四十度の湯の温かさが体に染み入るようだった。
今日は本当にいろいろあった、と、改めて思う。
「昨日もか……」
新年度、新学期が始まってからというもの、碌な目に遭っていない気がするが、考えてみれば、それほどでもなかった。
まず、あの
つぎに友人が出来た。それも入学初日に打ち解けることができた上、彼の友人たちとも仲良くなれたのは、僥倖というほかない。
そして、統魔。
統魔と直接会うことができたのは、久々だった。
彼は、戦団の職務に忙しく、昨年一年間などは実家に帰ってくることもなかったのだ。
だから、一年以上会えていなかった。
会えていなかったが、通話は何度となく行い、数時間ばかり話し込んだこともあった。そのときは、統魔が部下に叱られて通話が切れるという終わり方をしたものだった。
統魔は、元気そうだった。
それがなによりで、それだけで十分すぎるほどの収穫があった――のだが。
「ダークセラフ……か」
統魔が告げてきた事実は、衝撃的なものといわざるを得なかった。
幸多の知らない新事実。それはつまり、一般的には知らされていない情報でもある。要するに戦団の機密情報に違いないのだが、統魔が幸多に漏らしたことについて、彼の隊員たちはなにもいわなかった。
統魔と幸多の境遇に同情したからなのかもしれないし、統魔との絆、関係性がそうさせたのかもしれなかった。
いずれにせよ、統魔がいい仲間に恵まれたのは疑いようのない事実だろう。
「父さんの敵……」
つぶやいて、幸多は湯船に沈み込んだ。
目を瞑れば、瞼の裏に死ぬ間際の父の顔が浮かんでは消えた。
雲ひとつない青空が頭上一杯に広がっていた。
どこまでも高い空は、この世の幸福という幸福を集めたといわんばかりの輝きに満ちている。それがたとえ太陽の光なのだとしても、幸福感がなくなることはないだろうという確信があった。
幸福。
この世にはこれほどに幸せな日々があるのかと、彼は思う。
兄想いの弟がいて、子供想いの両親がいて、家族は全員が全員を愛し合い、認め合い、助け合い、繋がり合っている。
至福。
彼は、この日々がいつまでも続くものだと信じていたし、疑いを持ちようがなかった。
崩壊の兆しなど、どこにもなかったのだから。
魔暦216年6月5日。
その日は、彼と弟の誕生日だった。
彼と弟は同じ年、同じ月、同じ日に生まれたこともあって、互いが兄であることを譲らず、常に相手を弟扱いしたものだった。
そのことで喧嘩になったこともあるが、大抵は彼が勝った。普通に喧嘩をすれば、彼が勝つ。身体能力においては大人にだって負けないのだから、弟に負けるわけがなかった。
ただし、弟が魔法を持ち出してくれば、彼が負けた。それもこてんぱんに、ぼろ負けに負けた。
魔法が使えないのだから、勝ち目がない。
そして、魔法を持ち出した喧嘩では、どのような結果に終わろうとも、叱られるのは弟のほうだった。
魔法は、暴力に使ってはならない。たとえそれが軽い喧嘩なのだとしても、その結果、命を奪う可能性だってあるのだから。
父も母も、そういってよく弟を諭した。弟は、両親に対しては、反論もなく、反発もしなかった。弟は、両親のことが大好きだったのだ。
だれもが愛し愛されている。
ありふれた幸福に満ちた家庭の、日常風景。
十歳の誕生日を迎えた兄弟を祝うため、父と母は、青空の下で盛大な誕生日会を開いた。
央都水穂市
それでよかった。
それだけでよかった。
穏やかな風に揺れる草原の真っ只中、木製のテーブルが置かれ、その上に母の手作りの料理の数々と大きな大きなケーキが並べられていた。
父と母が満面の笑みを浮かべて、子供たちの誕生日を祝福する。
幸せな誕生日だった。
そこまでは。
それは、突然だった。
突如としてテーブルの下から現れた幻魔が父に襲いかかったのだ。
黒い天使のような姿をした幻魔だった。六枚の翼が闇を撒き散らし、黒い光の輪が禍々しくも昏く輝いていた。
彼は恐怖に身が竦み、父が咄嗟に魔法を放とうとして、しかしなにもできず幻魔に飲み込まれていく様を見届けることしかできなかった。
父は、死んだ。
食い殺されて、死んだのだ――。
幸多は、はっと目を開いた。
真っ暗な闇が眼前に横たわっている。
「夢……か」
全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
あの日の夢を見るのはいつ以来だろうか、と、幸多は考え込んだ。
当然、あの日の直後からしばらくは毎日のように同じ夢を見た。
幸福な誕生日が一瞬にして地獄へと変わる光景が、網膜に焼き付いて離れなかった。目の前で父が幻魔の体に飲み込まれていく、世にもおぞましい光景が、脳裏に蠢き続けていた。
その夢をいつごろからか、あまり見なくなった。
忘れていたわけではない。忘れられるわけもない。ただ単純に別の夢を見ることが増えたから、見なくなっただけかもしれないし、見ても覚えていないだけかもしれない。
「ダークセラフ」
幸多は、その呼び名を吐き出すようにつぶやいて、寝台を抜け出した。
今夜は、もう、眠れそうにない。
《所詮はイフリート。あの程度か》
それは、暗澹たる闇の中で、囁くようにいった。
イフリートと人間によって命名された幻魔は、やはり人間によって妖級下位と区分されるだけの存在だった。
たかだか数人の人間如きに蹴散らされ、滅び去った。
当然の結果だったのだ、と、それは考える。
暗黒の闇、その根源としての黒い光を放ちながら、それは頭を振る。逆光の中、フードの影に隠れたその顔を覗き見ることは出来ない。
決して、何者にも。
不意に、別の声が響き渡った。
「どれだけ熱心に作っても、すぐさま人間たちに殺されるんじゃあ意味があるんだかないんだか、まったくもってわかりませんな」
軽薄な男の声。その軽々しさとは裏腹に、深く、重く、この暗黒の闇の中に沈み込んでいく。
「本当に。なにを考えておられるのか、一度、はっきりと聞いてみたいものですわ」
艶やかな女の声。闇の中にこだまし、幾重にも跳ね返り、響き続ける。
「だ、そうですが、どうでしょう? ダークセラフ」
いや、と、声の主は、前言を撤回する。
「サタン様」
サタンと呼ばれたものは、闇の中を蠢くいくつもの赤い光を見つめていた。
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