ノーマジック・ノーライフ~魔法世界の最強無能者~【改題】

雷星

青春の無能少年

プロローグ

無能【む・のう】〔名・形動〕


能力や才能がない事。役立たずな事。また、その人。


転じて、魔法が使えない事。また、その人。





 トリフネ級飛翔艇・天陽の貨物室は、いつにも増して暗く、まるで真夜中のようにも感じられた。

 だが、耳慣れた駆動音と体に響くような振動は、わずかな眠りをも許さなかった。

 とっくに慣れたことではあったし、どうとでもなることだ。眠りたいのであれば、誘眠機器を用いればいい。そうすればどんな状態であっても瞬時に眠れるだろう。誘眠機器を使ってまで眠れない人間など、そうはいないのだ。

 その場合はもちろん、覚醒機器も併用したほうがいいだろう。

 なにせ、天陽は戦場に向かっているのだ。

 戦場に辿り着いたとき、遊眠機器の影響で眠りこけていては使い物にならない。それどころか作戦失敗の可能性すらある。

 隊長ならば、なおさらだ。

「作戦開始地点まで後少しだ。準備はいいな」

「もちろんです」

 彼は、静かに告げると、脳内に直接響くような操縦者の音声に苦い顔をした。これもいつものことだが、しかし、中々に慣れない。

「救援のためとはいえ、おれたちだけを送り込んだって、どうなるもんかね」

 不満げにいってきたのは、この真っ暗な貨物室にいる隊員のひとりだ。

「今回の作戦は、あくまで撤退の援護です。わたしたちの役目は、敵の足を止めること。それ以上でもそれ以下でもないんですから、まあ、十分でしょう」

「そ、そうだよ。ぼくらがそれだけ信頼されているってことだって」

 四人小隊のうち、残りふたりが口々にいって、不満げな隊員を抑え込んだ。

 これもまた、いつものことだ。

 いつもの反発、いつもの説明、いつもの慰撫――。

 なにもかもがいつも通り。

 どこにも問題はなく、すべてが順調、つつがなく進んでいる。

 装備も万全、準備も万端、失敗の可能性すら感じられない。なんの不安もなければ、恐怖もない。緊張すらしていないのはどうかと思うが、しかし、もはやどうにもならない。

 状況は刻一刻と迫っている。

 やがて飛翔艇が目的地上空へと到達すると、貨物室の後部ハッチが音を立てて開いた。

 上空二千メートルの高高度。大気が唸りを上げて、船の体内から隊員たちを呼び込もうとしている。

 彼は、隊員たちに声をかけることなく、真っ先に飛び降りた。

 隊長でありながら先陣を切るのが、いつだって彼の役割だった。

 自由落下。

 眼下には、黒檀の大地と形容される黒々とした広大な陸地が広がっている。結晶樹の森に異形の都市、神殿のようなものも見受けられた。しかし、目的地はそれらの建物ではない。

 真下の、森林地帯だ。

 そして、遥か彼方の地上まであっという間に到達する。

 着地とともに衝撃が大地を、肉体を貫き、爆風が土砂を巻き上げる。爆煙が視界を塞いだ。口を閉じていなければ、いまごろ砂利まみれになっていたことだろう。

 体を起こすころには、三人の隊員たちが無事に着地しており、それぞれが爆煙の中にいた。

 黒々とした大地に穿たれた大穴の真ん中で、彼は、ゆっくりと顔を上げる。

 風に流れ、薄れていく砂煙の向こう側に異形の影が蠢いていた。

 それらは、まるで神に供物を捧げる儀式でもするかのようにして、踊り狂っていた。

 人間の死体を山のように積み上げ、その周囲に火を焼べていた。

幻魔げんまめ」

 彼は、吐き捨てるようにいって、地面を蹴った。大地が盛大に砕け、爪先から脚が割れ、骨という骨が折れ、全身が激痛に苛まれ――。



 皆代幸多みなしろこうたは、背中の痛みに呻きつつ、瞼に涙をにじませながら目を覚ました。

 目を開けば、いまや見慣れた天井が視界に入ってくる。

 木目調の変化が施された合成金属製の天井は、当然ながら低い。軽く跳躍するだけで手が届くだろう。

 幸多の身長は平均的なものであるのだから、やはり天井が低いということになるのだが、問題はない。

 最低限、雨風を凌ぎ、寝泊まりできれば十分だった。

 そして、最低限どころではない生活ができているのだから、満足感たっぷりだった。

 幸多は、生活環境への投資を最低限にしたかった。少なくともいまはまだ、お金をかけられるような立場にはない、と考えている。

 だからこそ、家賃の安い集合住宅を探したのだし、そうして見つけたこのミトロ荘は、実に良かった。

 なにもかもが幸多にとって都合のいい場所だった。

 そのとき、激しい旋律が室内に鳴り響いた。攻撃的とさえいるほどの音色は、幸多が多目的携帯端末に設定した目覚まし時計の音色である。

 幸多は背中をさすりながら起き上がると、寝台の枕元で震えている携帯端末を手に取った。目覚まし設定を切るついでに時間を見る。午前五時を少し回ったところだった。

 幸多は、胸中で安堵した。

 おそらくだが、幸多が床に転げ落ちたのは、目覚ましの音を止めようとして藻掻いた結果だろう。どこをどうすればそのような結果になるのかは皆目見当もつかないが、事実なのだから仕方がない。

 携帯端末から浮かび上がる立体映像――幻板(げんばん)には、時刻のほか、今日の日付が表示されている。

 魔暦まれき222年4月8日月曜日。

 今日は、高校の入学式の日だった。

 私立天燎高校。

 いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの天燎財団が運営する私立高校である。

 幸多は、洗面所に向かうと、歯を磨き、顔を洗った。水野冷たさが顔面に染み入るようで、まだどこか寝惚けたままの頭を多少なりとも冴えさせた。

 洗面台に備え付けられた鏡には、幸多の顔が映っている。真っ黒な頭髪、ぱっちり二重の目は褐色。やや丸みを帯びた顔立ちは、優しそうと評判だ。実際の所は、ともかく。

 朝食は、巷で話題の完全栄養食パンで済ませた。六枚切りの食パン一切れで、一度の食事で補うべき栄養価を取り切ることができるといい、味も悪くない。食感も抜群だ。

 そしてなにより、安い。

 それが生活費を少しでも低く抑えたい彼にとっては、なによりも大事だった。

 それと、アイスコーヒー。寝惚け気味の頭を多少なりとも冴えさせるには、カフェインを摂取するのがいい気がするというのもあるが、単純に好みの問題だった。

 甘ったるいアイスコーヒーが彼の好物だ。

 朝食の準備をしながら携帯端末でテレビ番組を流す。

『昨夜、大和市草薙町で起きた小火騒ぎの続報です』

 携帯端末の投影機能によって空中に大きく映し出された幻板げんばんと、端末そのものから周囲に拡散される音声は、OBCこと央都ブロードキャストの早朝の情報番組のものだ。

 番組名は”アサスパ“とかそんな感じだったことは覚えているが、朧気だった。そこまで真剣に番組を見ていない。

 ただ、ひとりの朝食で無音だと味気ないということで、なんとなく音楽をかけるような感覚で流しているに過ぎなかった。

『警察部の調べによりますと、魔法犯罪である可能性が高く、現在、犯人を追っている最中とのことです』

「そりゃ怖い」

 幸多は、食パンを口に頬張りながら、情報番組を眺めていた。

 朝のこの時間だけは、なにものにも急かされることなく、唯一ゆったりとできる時間といえる。

 彼が報道内容に驚かないのは、魔法犯罪が問題となっているのは彼が生まれるずっと昔からだったからだ。日常的とはいわないまでも、ありふれた事件ではある。

 そして、人類が魔法を手にして以来、魔法を使った犯罪が絶えることはなかったし、根絶することは不可能だとだれもが諦めている。どれだけ法律で禁止しようと、規制しようと、罪を犯すものは現れるし、止めようがない。

 魔法犯罪を未然に防ぐというのは極めて難しく、起こってしまった魔法犯罪を一秒でも早く対処することが求められている。

 そして、それは実際に成果を上げている。

 この央都における魔法犯罪者の検挙率は、100%である。

 犯人がどれだけ巧妙に逃がれ隠れようともなんの意味もないのだ。

 つまり、この小火の犯人も早晩、警察部によって捕まることだろう。

 そういう意味においての不安はなかった。

 幸多だけでなく、央都市民のほとんどは、警察部に全幅の信頼を寄せていたし、警察部もその期待に応えるべく日夜活動しているのだ。

 幸多が食パンを食べ終え、コーヒーを喉に流し込んでいると、情報番組の絵柄ががらりと変わった。神妙な報道番組の体裁は取り払われ、明るく賑やかな情報番組本来の姿を取り戻したのだ。

 魔法による演出だが、いまとなっては当たり前の演出であり、どんな番組でもよく見る手法だった。

『アサスパ芸能!』

 出演者の中年男性が大声を張り上げると、画面上に文字が躍り出た。画面がくるくると移り変わり、様々な映像が差し込まれる。いま話題の芸能人、歌手などの映像のようだった。

『昨日、アルカナプリズムが二年ぶりのコンサートツアーを開催することが発表されました――』

 幸多は、コーヒーを飲み終えると、食器を流し台に持っていった。流し台には備え付けの全自動食器洗浄機があるので、その中に食器を放り込んでおく。古い型だが、機能上なんの問題もなかった。

 伸びをして、欠伸をする。

 少し頭が冴えてきた気がする。

 そして、変な夢を見たことを思い出して、苦笑した。夢は、よく見る。だいたい戦っている夢だ。幻魔と戦っている夢。戦団の一員として戦っている夢。導士として、戦場を駆け抜ける夢。

 今朝見た夢も、そんな夢のひとつだろう。

 その夢を実現するためには、途方もない困難が待ち受けていることを彼は実感として理解している。

 幸多は、寝間着から制服に着替えた。制服は黒を基調とし、ところどころに赤が差し込まれている。

 黒と赤は、天燎財団の系列企業が愛用する色でもある。

 天燎高校が、天燎財団系列であるということをこれでもかと主張しているようだった。

 制服の胸元には、天燎高校の生徒を示す徽章をつけていた。

 燃える太陽を連想させるような徽章は、天燎高校の校章とそっくりだが、学年によって多少の違いがある。一年生は、徽章の太陽が放つ光線が三本なのだ。二年生は四本、三年生は五本の光線を放っているらしい。

 それから、準備万端整っているはずの鞄の中を確認した。

 その間も情報番組が流れているが、ほとんど聞き流している。

「よし」

 鞄の中身には、なんの問題もなかった。

 とはいえ、今日は入学式である。授業といえるような授業はなく、絶対に持っていかなければならないものもない。強いて言えば、生徒証くらいか。

 鞄は、手で持ち歩くこともできれば、背負うこともできるという両用鞄である。

 携帯端末を見れば、時間は六時半を回っている。

 幸多は、携帯端末が空間投影中のテレビ番組を切ると、鞄を手にして部屋を出た。

 小さな集合住宅だ。二階建てで、各階に三室ずつしかない。一階の一室は管理人室であり、大家の見土呂明子みとろ あきこが住んでいる。

 幸多は二階廊下の手摺りに手を乗せると、軽々と飛び越えた。それが一階までの最短距離だからだ。わずかな浮遊感の後、着地とともに衝撃が両足を貫く。

「幸多くん!?」

 驚きのあまり上擦った声が聞こえた。見土呂明子の声だ。振り向くと、明子が管理人室から出てきたところだった。管理人室は、幸多の部屋の真下にある。

「おはようございます、明子さん」

「お、おはよう……じゃなくて、二階から飛び降りるなんて、危険じゃない」

 明子は、三十代半ばというが若々しく、張りのある肌をした女性だ。普段は柔らかな空気感を纏っているが、いまばかりはなんともいえない気配に変わっていた。

「これくらい平気なんです。ぼくの体、頑丈だから」

「それは知ってるけど……」

 明子は、幸多の回答にどう返すべきか困ったような顔をした。明子は幸多が日頃体を鍛えていることを知っている。二階から飛び降りた程度ではどうということもないことくらい、理解できるのだ。だから、なにもいえない。

 だからだろう、管理人は話題を変えた。

「……今日は、入学式だったわね」

「はい! だから早めに出ようと思って」

「天燎高校だものね。ここからじゃ結構遠いし、早く出るに越したことないものね」

 明子は、幸多の考えをお見通しだったようだ。だから幸多が飛び降りてきたのを目撃できたのだろう。

「はい、行ってきます」

「気をつけて、いってらっしゃい」

 幸多は明子に出発の挨拶を済ませると、ミトロ荘を後にした。

 空は晴れ渡り、東の空がまばゆく燃えるように輝いている。雲はまばらで、今日一日が快晴であるということを予言しているかのようだ。

 気温は、まだまだ低い。が、彼には問題となるものではなかった。

 ミトロ荘から天燎高校まで直線距離で約6キロメートル。当然だが、魔法も使わず直線で突き進むことなど出来るわけもなく、地上を進めば、二倍三倍の距離があると考えていい

 徒歩ならば一時間以上かかる距離だが、幸多は、今日に至るまで何度となく往復してきている。どこをどう移動すれば最短距離になるのか、どれくらいの速度を出せばいいのか、完璧に近く把握していた。

 もっとも、幸多が本気を出せば、そんなこと関係なしであっという間に到着できるのだが、そこまですることもなかった。

(三十分)

 それが幸多の想定した学校までにかかる移動時間であり、その想定を満たすために早足で歩いていた。

 早朝――ではあるが、だれもが動き出す時間ではある。

 央都葦原市東街区とうがいく鼎町は、東街区の例に漏れず、人家が多い。

 央都の中心部といえば中津区であり、人口密集地帯も中津区なのだが、東街区はそれに比肩するほどの住民がおり、それだけ人家が多かった。

 ただの人家ならば東街区のほうが多いのではないかといわれるほどであり、実際、その通りであるらしい。

 そういう風に設計され、開発されたからだ、と、幸多は小学校時代に学んでいる。

 東街区は、央都市民の居住区として作られたのだ。

 そんな人家の多い町並みは、幸多にとって既に見慣れたものとなっている。

 ミトロ荘に引っ越ししてから今日に至るまで、毎日といっていいほど天燎高校との間を行き来してきた。それは日課の鍛錬も兼ねつつ、学校までの道筋を覚える上でも重要なことだった。

 おかげで、いまは迷うことなく学校に向かうことができている。

 広々とした道路、等間隔に並んだ人家、当然ながら高度制限を越える建物はなく、いずれの建物も低い。故に空がとてつもなく広く感じられるのだ。

 ふと空を仰げば、青空の真っ只中を駆け抜けていくひとびとの姿があった。

 箒を模した棒状の機器――法器に跨がって空を飛ぶその姿は、まさに箒に跨がる魔女のようだった。

 それもまた見慣れた光景だ。

 それこそ、子供の頃からよく見た景色だ。

 大の大人から中高生に至るまで、様々な年代の一般市民が、飛行魔法を使って空を飛んでいる。そして、その補助として、法器を用いているのだ。

 この光景は、だれもが自由に魔法を使うことができる社会ならでは、といっていいだろう。

 魔法世界。

 魔法時代の幕開けから今日に至るまで、この世は、魔法に包まれている。なにもかもが魔法と切り離せなくなっていて、魔法の使えない人間にとっては、多かれ少なかれ不便な世界になっているのだ。

 たとえば、いまがそうだ。

 魔法を使えるひとびとは、空を飛び、一直線に目的地に向かうことができる。

 が、幸多のように魔法の使えない人間は、地上を進しかない。

 そう、幸多は、生まれつき魔法を使うことのできない魔法不能者なのだ。

 先天的魔法不能障害と呼ばれるその症状は、世界中に魔法が普及した頃、つまり魔法時代黄金期に確認されるようになったものだ。

 現在、千人に一人の割合で誕生するといわれている。

 央都の人口は、つい最近百万人を突破した。

 つまり、この央都には千人近い魔法不能者がいるということになる。

 そんな魔法不能者のひとりとして生まれた幸多は、当然ながら、魔法を使うことの出来るひとびとが心底羨ましかったし、憧れてもいた。

 もし魔法が使えたら、なんて考えないわけがなかった。

 魔法の勉強もしたし、訓練もした。

 けれども、そうした努力が実を結ぶことは一切なかった。

 魔法不能者の中でも完全無能者と診断された幸多が、魔法を使えるようになるわけがなかったのだ。

 が、そのことばかりに囚われていられないのが人生というものであり、だからこそ、幸多は空を仰ぎ続けることなく、地に足を付けて走っていた。

 もちろん、移動手段は足だけではない。

 幸多の場合は、自転車を使ってもよかった。世の中には自動車だってあるし、場合によっては地下鉄道網を使うことだってできる。

 この場合、幸多が自転車を使わないのは、鍛錬を兼ねているからにほかならない。

 故に魔法を使えたからといって、いま空を飛んでいる市民の真似事をしたかどうかはわからない。

 などと考えていると、

「きゃあああっ」

 静寂を劈くような悲鳴が聞こえて、携帯端末から警報が鳴り響いた。警報は、幸多の携帯端末からだけでなく、周囲の人家や空を飛ぶ人々からも聞こえてきていた。

 その内容は、携帯端末を見るまでもなくわかる。

(幻魔災害!) 

 幸多は、胸中で驚きながらも、足は悲鳴のした方向に向けていた。視界の片隅にちらちらと赤いものが揺れている。

 火だ。

 火が上がっているのだ。

 地面を蹴るようにして跳躍し、人家を飛び越えれば、眼下に火の発生源が見えた。着地とともに悲鳴の主へと駆け寄る。

 地を這うような低いうなり声が響き渡った。

「だ、だれか、助けて……!?」

 女性が道路の片隅にへたり込んでいて、絶望的な顔でそれを見ていた。

 それは、女性に狙いを定めているようだった。

 まるで燃え盛る炎の塊のような怪物だ。

「ガルムか」

 幸多は、女性と怪物の間に割り込むように着地すると、怪物を睨み据えた。

 全身が紅蓮の炎とも真っ赤な体毛ともつかないものに覆われた、大型の狼にも似た怪物。

 狼と異なるのは、やはり全身から発せられる燃えたぎる熱気であり、全身を覆う魔晶体――結晶状の外骨格だろう。よく見れば、その結晶質の体から火が噴き出し、体毛のように全身に絡みついているのがわかる。

 獰猛な狼をさらに狂暴にしたような風貌をしており、双眸からは赤黒い光が落ちている。

 吐き出す息吹は赤く、獲物を前にして、昂ぶっているようにも見えた。

 幸多は、鞄を投げ捨てると、ガルムに対し半身に構えた。左半身を前にして、右半身を後ろにする構え。そして、話しかける。

「立てますか?」

「へ?」

「立って、逃げてください。時間はぼくが稼ぎますから」

 言い切るなり、幸多は地面を踏んだ。大地が唸るほどの足踏みでもってガルムの気を引こうとしたのだ。

 が、ガルムは、幸多など眼中にないとでもいわんばかりに前進してきた。

「やっぱりね」

 幸多は、女性を狙って飛び上がったガルムを睨み据えて、苦笑した。ガルムは、進路上に幸多が立ちはだかっていることすら気にしていないのだ。

 幻魔にとって幸多は障害物にすらならない。

 そう認識していない。

 幸多は、迫り来る魔炎狼ガルムに対し、むしろ踏み込むことでさらに距離を詰めた。そして、まったくこちらを意識していない狼の顔面を思い切り殴りつけた。衝撃が幸多の右拳を貫き、激痛が駆け抜けていく。ガルムは動きを止めない。

 わかりきったことだ。

 幻魔には、通常兵器は通用しない。

 それが常識だ。

 当然、鍛え上げた肉体による痛烈な打撃も、獣級下位の幻魔にすら、一切通じないのだ。

 幸多は、ガルムが未だ自分に目もくれないことに感謝しつつ、その大きな首に両腕を回した。足を踏ん張り、ガルムの猛進を食い止める。凄まじい突破力だが、幸多も負けていない。

 そこでようやく、ガルムが異変に気づいたようだった。自分の動きを止めるなにかが存在するという事実に。

 凄まじい熱気が幸多の全身を襲った。焦げ付く臭いは制服が灼かれる臭いであり、皮膚が焼け焦げる臭いだ。痛みが体中を駆け巡る。

 ガルムが体毛の炎をもって、自分を抑えつけるなにものかを焼き殺そうとしているのだ。

 しかし、幸多は、怯まない。体中が焼かれる痛みを黙殺するようにして、両腕に、両足に、全身に力を込めた。

「うおおおおっ」

 雄叫びとともにガルムの巨躯を右前方へと放り投げる。出来る限り高く、出来る限り遠く。

 幸多は、ガルムの撃破など考えていなかった。襲われそうになっていた女性の身の安全の確保のために時間を稼ぐことだけを考えていたのだ。

 時間さえ稼げば、あとは戦団の導士たちがなんとでもしてくれる。

 ガルムは、放物線を描いて落下し、壁に激突した。壁が大きくめり込むほどの衝撃があったようだが、幻魔は意にも介していない様子だった。あっさりと起き上がって、吼える。そこへ、側頭部への飛び蹴りが命中する。

 幸多だ。彼はガルムを投げ放った瞬間、すかさず追いかけていたのだ。幻魔という生物の習性を考えれば、放り投げてそれでおしまいというわけにはいかないからだ。

 間髪を入れぬ連続攻撃。

 それでも微動だにしないのが幻魔であり、ガルムだ。ガルムは、いまや幸多を捉えている。さっきまで見てすらいなかったこちらに視線を定めていたのだ。体毛が膨張し、周囲の景色が歪んでいく。熱だ。高温の熱がガルムの周囲に渦巻いている。

 幸多は、それでも離れない。熱気の渦の中、燃え盛る灼熱の空間の真っ只中で、ガルムの注意を引き続ける。

 ガルムが吼え、幸多を蹴り飛ばす。目にも止まらぬ早業だった。幸多は一瞬呼吸が出来なくなり、空中に浮かび上がったかと思うと、即座に地面に叩きつけられた。組み伏せられたのだ。

 ガルムの赤黒く輝く双眸がこちらを見下ろしていた。怒気を孕んでいる。狩りの邪魔をされて怒り狂っている様子が窺い知れた。

 ガルムの口腔から炎が漏れた。体内の発火器官が炎を生み出していて、それが漏れ出たのだろう。幸多を焼き尽くすために。

 幸多は対抗しようとしたが、体に力が入らなかった。両腕両足を力強く踏みつけられていて、さらに腹にガルムの尾がのし掛かっていた。

 絶体絶命の窮地だと、幸多は他人事のように思った。こんなところで死にたくはないとも、思ったが、だからといってどうにかできるものでもない。

『余計なことに首を突っ込むからそうなるんだよ』

 だれかがこの惨状を知ったら、そういって苦笑するだろう。

(ごめん、統魔とうま

 幸多は、胸中で心の底から謝罪した。これでは夢を叶えることも出来ない。

 ガルムの全身の炎が燃え盛り、いまにも世界の終わりが始まろうとしたまさにそのときだった。

(あれは……)

 幸多は、燃え上がる紅蓮の炎の彼方に月を見た。

(月……?)

 疑問が脳裏を過る。早朝とはいえ、こんなに克明に月が見えるわけがなかったし、それにしたって近すぎた。

 そして、ガルムの全身から噴き出していた炎が、その先端から凍り付いていくという異様な光景を目の当たりにする。

「え……?」

 幸多は、ただただ唖然とした。

 炎だけではない。

 ガルムの巨躯そのものが瞬く間に凍り付いていく。その巨体が氷像に変わり果てるまで、一秒もかからなかったのではないか。

 圧倒的な冷気が幸多の全身を包み込み、急速に冷却していく。

「君は――」

 氷のように冷ややかさを秘めた声が聞こえたのは、頭上からだった。

「――魔法も使わず幻魔に挑むなど、正気なのか」

 家屋の屋根上からこちらを見下ろすのは、長い黒髪の女性だった。刺すような目が群青に輝いている。

 一目見ただけで、その女性がだれなのか、幸多にははっきりとわかった。いや、幸多以外のだれであっても、すぐにわかったはずだ。

 それはある種、央都市民の常識といっても過言ではなかった。

 漆黒の導衣に身を包む彼女は、戦団最高峰の魔法士まほうしと名高い、伊佐那美由理いざなみゆりそのひとだった。

 故に、ガルムが炎ごと氷漬けになったことも納得がいった。

 彼女は、氷の女帝と呼ばれている。

 戦団における最強の氷魔法の使い手であり、光都事変の英雄。

 幸多は、言葉を失っていた。

 美由理の周囲を渦巻く膨大な冷気が、陽光を反射してまばゆく輝いていた。

 その煌めくような美しさには、見惚れるほかなかったのだ。

 

 皆代幸多、十六度目の春は、そのようにして始まった。

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