第6話 特別指定幻魔壱号(二)

 炎魔人イフリート

 妖級ようきゅう下位に振り分けられている幻魔であり、その見た目通り、火と熱を操る炎の怪物だ。

 幻魔は、その等級に応じて姿態が大きく変化する。

 霊級れいきゅうは、霊魂や霊体などと呼ばれるような姿形をした実体を持たない幻魔たちだ。

 獣級じゅうきゅうは、ガルムのような獣や鳥、魚などの生物に似た、しかし大きく異なる姿形をしている。

 妖級は、基本的に二足歩行であり、やや人間に近い姿形をしている。そして、獣級や霊級とは比較にならない知能を持っているとされていた。

 妖級幻魔は、獣級幻魔よりも圧倒的に強く、狂暴だ。

 その場にいただれもが、その妖級幻魔の禍々しく燃え盛る炎のような姿を前に立ち竦むのも無理がなかった。

 人間の本能が、遺伝子に刻まれた恐怖が、肉体を支配したのだ。

 恐怖が、場を支配している。

 幻魔は、人類の天敵とも呼ばれる。

 かつて、繁栄を極め、地上の支配者として君臨していた人類がいまやこのような惨状に陥ってしまった原因のひとつは、幻魔の存在だった。

 突如、どこからともなく現れた異形の怪物たちは、当時の人類に対し、圧倒的な力を振るい、数多の命を奪い去ったという。人類は急速にその版図を失い、地上の支配者、この天地の神々の座から転げ落ち、衰亡の淵へと追いやられた。

 それから百年以上が経過したいま、この央都を生きる人々の遺伝子に幻魔への根源的恐怖が刻み込まれていたとしても、なんら不思議ではない。

 幻魔を目の当たりにしただけで身が竦み、正常な判断が下せなくなることは、実にありふれた出来事なのだ。

 だから、というわけではないが、幸多こうたは、袖で顔面の汗を拭って、一歩前に出た。イフリートの巨躯が熱気を撒き散らしながらこちらに向く。

 とはいえ、頭部に瞬く二つの目が見ているのは、幸多ではあるまい。幸多以外の生徒や教師たちをその目に捉え、吟味している。

 獲物を前に舌なめずりしているというわけだ。

 それはつまり、好機でもある。

「みんなは逃げて!」

「はあ!?」

皆代みなしろくん!?」

 圭悟けいご真弥まやが悲鳴染みた声を上げるのを背中で聞いていた。

 飛び出したのだ。

 幸多は、地面を蹴るようにして前方へ、大きく跳躍する。常人の身体能力を大幅に凌駕する跳躍力で、イフリートの視界から外れ――ようとして、はたと気づく。

(こいつ!?) 

 幸多は、イフリートの赤黒く輝く双眸が自分を追っていることに気づき、総毛立つのを感じた。友人たちや教師たちが騒いでいる様子がひどく遠くに感じる。すぐ近く、それこそ目と鼻の先といってもいいくらいの近さだったのに、だ。

 イフリートが吼えた。地を這うような低いうなり声は、高熱を伴い、幸多を包み込む。さらに大量の汗が出た。体内の水分という水分が絞り出されていくようなそんな感覚。動悸が激しくなる。命に危険信号が灯っている。

 幸多は、イフリートの背後を取ろうとしたのだが、それはかなわなかった。炎の魔人が上半だけをこちらに向けたからだ。

 そして、長大な腕を振り上げてくる。

 幸多は、即座に胸の前で両腕を交差させた。その一撃は素早く、一瞬で幸多を捉えていた。巨人の拳を受け止めた両腕が悲鳴を上げる。激痛が全身を貫き、感覚が狂った。

 その勢いのまま吹き飛ばされ、校舎の壁に叩きつけられる。熱気が渦巻き、火の粉が散った。両腕が痺れている。痛みが途切れることなく危険信号を発していた。骨が折れたのではないか。それくらいの痛み。痛撃。

 だが、そのおかげもあって、背中の痛みはあまり感じなかった。痛みは、より強いほうが脳を支配する。

 だれかが悲鳴を上げた。

 幸多のためになのか、それとも、別の理由なのか。

 イフリートは、完全にこちらに向き直っていた。上体だけではない。全身で幸多を捉えている。イフリートが動くと、巨大な火の玉が動くようなものだった。凄まじい熱気が大気をかき混ぜ、燃焼させていく。

 幸多は、校舎から離れると、右前方に飛んだ。距離を稼ぐためだ。

 イフリートの目的がなぜか自分だということが判明した以上、無理に突っ込む必要はなかった。

 圭悟たちから引き離せばいい。そうすれば、さすがの彼らも教師共々この場から逃げてくれるだろう。

 幸多は、時間を稼ぐだけでいいのだ。

(妖級幻魔と正面からやり合うのは、さすがに――)

 無理だ、と、彼は、素直に認めた。

 幸多が倒せたとしても獣級下位までだ、というのは、積み重ねた経験からくる圧倒的な現実なのだ。こればかりはどうしようもない。

 獣級と妖級の間には、如何ともしがたい力の差があるのだ。

 それを超人的な身体能力だけで埋められるほど、現実は甘くない。

 魔法が使えないのだ。

 その時点で、幻魔との戦い方には限りがあった。

 幻魔の肉体は、通常兵器が効かない。

 それは、幻魔の存在が初めて確認された当初に認識され、いまとなっては当たり前の道理として知れ渡っている事実だ。銃火器を始め、あらゆる兵器が通用しなかったのだ。

 当然、鍛え上げた肉体を使った打撃も、一切効果がない。

 ただし、それは肉体に対してのみ、だ。

 幻魔の心臓ならば、魔晶核ましょうかくならば、通常兵器も通用する。

 幸多は、イフリートが目で追ってくるのを見た。圭悟たちには目もくれない。

 間違いなく、イフリートの狙いは幸多だった。

 そこに疑問が湧く。

 通常、ありえないことだった。

 幸多は、いまに至るまで、何度となく幻魔と相対してきている。そのすべてを倒せたわけではないにせよ、それら幻魔が、会敵当初こそ幸多を黙殺し、認識すらしていないように振る舞っていた事実は、否定できないものだった。

 すべての幻魔が、幸多を路傍の石の如く認識していたのだ。

 では、なぜ、イフリートは幸多を目標に定めているのか。

 疑問が湧き上がり、謎が謎を呼ぶのだが、そんなことを考えている場合ではなかった。

 妖級幻魔が両腕を振り上げ、咆哮した。その巨躯から爆発的な炎が噴き出したかと思うと、渦を巻いて拡散していく。

 幸多は大きく飛び退き、炎の範囲から逃れた。しかし、つぎの瞬間には、幸多の視界からイフリートの巨躯が消えていた。目の前が真っ暗になる。影だ。巨大な影が頭上に出現したのだ。見上げれば、燃えたぎる巨拳が眼前にあった。

 その刹那のことだった。

 突如、眩い光が幸多の視界を切り裂いた。

 幸多は、なにが起こったのかを認識できないまま、肩と足を掴まれる感覚に襲われた。幻魔が怒りに満ちたうなり声を上げ、炎が逆巻く。

「なにやってんだか」

 あきれたような、安心したような声は、聞き慣れた家族のそれであり、幸多は、驚きと安堵を覚えた。

 統魔とうまだ。

 幸多はどうやら統魔によって救助されたようだった。それも統魔に抱き抱えられて、だ。

 統魔は、イフリートから遠く離れた場所に着地すると、幸多を腕の中から解放した。漆黒の導衣どういが吹き荒れる熱気に激しく揺れている。

「相手は妖級だろ」

 統魔の目は、幸多を見ていなかった。イフリートを注視している。

 右腕を切り飛ばされたイフリートは、全身をわななかせながら、こちらを見ていた。怒りに満ちたまなざしは、赤黒く燃えたぎっている。

「仕方ないだろ、あいつがぼくを狙ってきたんだからさ」

「狙って……?」

 幸多が事実を述べると、統魔は、怪訝な顔になった。しかし、幸多の発言を疑っている様子はない。

「それで、注意を引くために大立ち回りってか?」

「そういうこと」

「ま、時間稼ぎにはなったわけだから、よしとするか」

「何様?」

「統魔様だよ」

 統魔は、自嘲気味に笑うと、イフリートに向かって右腕を掲げた。

 またしてもイフリートが吼えた。地面を震わせるようにして前進してくる。腕を切り裂かれてもなお、幸多を目標にしていた。その赤黒い目は、はっきりと、幸多を見据えているのだ。

 イフリートの進路上に突如として炎の壁がせり上がった。

 明らかに統魔の魔法ではない。

 別の導士どうしが、イフリートの前進を阻むために魔法を放ったのだ。

 さらに稲光が煌めき、イフリートの右肩を直撃したかと思えば、大気が唸り、渦となって炎の巨人を包み込んだ。風の刃が、イフリートの全身をずたずたに切り裂いていく。

撃光雨ブライトレイン

 統魔の発した真言しんごんが、魔法を結実させ、具現させる。

 それは、光の雨だった。幻魔の頭上から降り注ぐ無数の光線が、その煮えたぎる溶岩のような巨大な肉体を容易く打ち抜き、でたらめに破壊していく。イフリートが怨嗟の咆哮を上げるが、三つの魔法による波状攻撃には為す術もないようだった。

 瞬く間にイフリートの巨体が崩壊していく。

 光の雨が止んだときには、幻魔の体は原型を残していなかった。

 渦巻いていた熱気さえ、どこかに吹き飛ばされてしまったようだ。

 皆代みなしろ小隊とイフリートとの戦いは、あっという間に幕を閉じた。


「後は任せた」

「はい、隊長」

 統魔に命じられると、上庄字かみしょうあざなは嫌な顔ひとつせず、むしろ当たり前のような涼しい顔で現場に向かっていった。

 現場には、イフリートの巨躯の残骸が散らばっており、戦団の基地から駆けつけた幻魔災害特殊対応部隊、通称・事後処理部隊が後片付けをする手筈になっている。

 その事後処理部隊になにかしらの事情を説明するのが、上庄字の役割なのだろう。

 説明したりするのが大嫌いな統魔らしい判断だ、と幸多は思った。

 頭上には、星々が瞬いている。

 静かな夜だ。

 満天の星空と大きすぎるくらいに大きな月が、先程までの大騒ぎを忘れさせるように輝いている。

 地上では、町中の街灯が輝き始めている。莫大な街の光が、人間にとって昼も夜も関係ないのだと思い知らせるかのようだ。

 圭悟たちは、とっくに帰っている。

 無関係な一般市民である彼らは、早急に帰らされたのだ。無論、無傷だったこともある。もし負傷していたのであれば、小隊なり事後処理部隊による手当を受けることになっただろう。

 彼らのうち、だれひとりとして怪我を負うことがなかったことには、幸多も心底安堵したものだった。

 教師は、何名か残っていた。戦団にこの学校が受けた被害について話さなければならないと息巻いていた。

 学校ほどの規模となれば、まず間違いなく幻魔災害保険に入っているだろうが。

 幸多は、残っていた。

 残されたのだ。

 統魔が事情聴取をするといって聞かなかったからなのだが、本音はそんなところにはなさそうだった。

「相変わらず副隊長扱いの荒いことで」

 統魔をからかうように笑いかけたのは、新野辺香織しのべかおりだ。新野辺家といえば知らないものがいないくらいに有名だが、彼女は新野辺九乃一くのいちの親戚だという。

「そういう契約なんだよ」

「はいはーい、そーゆーことにしておきましょー」

「そうだな、それがいい」

 六甲枝連ろっこうしれんが、新野辺香織の軽口に付き合い、朗らかに笑う。炎の壁は彼の仕業に違いない。彼は火属性を得意とするのだ。

「どういうこったよ」

 統魔が部下たちの自分に対する扱いに不満げたっぷりにいった。

 幸多には、そんな統魔の様子がなんとも新鮮に感じられた。小学校時代の統魔に友人がいなかったわけではないが、いつだって不満げで物足りなそうな顔をしていた彼からは考えられないような、そんな表情ばかりが見られたのだ。

「で、彼が例の?」

 新野辺香織が幸多を一瞥する。

「おう、おれの弟だ」

「隊長と違って随分と可愛らしい」

「どういう意味だよ」

「えーと……」

「あー、悪い悪い。こいつらは、おれの隊の連中だ。前に話しただろ。小隊を組んだって」

「それは知ってるけど」

 いわれるまでもないことだ。

 統魔率いる皆代小隊の隊員たちについては、幸多は。おそらくだれよりも詳しいはずだった。新入りのひとりを除いて、だが。

 統魔人気にあやかるようにして、各メディアにおける皆代小隊の扱いも大きかった。特に上庄字と新野辺香織は、その血筋の影響も大きいのか、特集記事を組まれたことも少なくない。

 それになにより、統魔から直接教えてもらったことも少なくなかった。通話などで、だが。

「さすがは戦団オタク」

「それはまあ、否定はしないけど」

 幸多は、統魔に笑いかけられて、苦笑を返した。

 戦団に関して幸多以上に詳しい人間は数多といるだろうが、それはそれとして、幸多も人並み外れて詳しくはあった。戦団に入るためにはどうすればいいものかと調べているうちに、どうでもいいことまで調べてしまい、結果的に色々と詳しくなってしまったのだ。

 ある一面では、戦団に所属する統魔よりも詳しいかもしれない。

「それにしても、わりと早い到着だったね」

「ああ。兆候があったからな。近場に待機していたすべての小隊に出撃準備するよう、命令があったんだよ」

「兆候……? 幻魔災害の?」

 幸多は、信じられない言葉を聞いた気がした。

 幻魔災害の兆候がわかる、などということがあるのだろうか。そんなことがあるのだとすれば、そんなことをできるものがあるのだとすれば、とてつもないことだ。

 世界の常識が変わる。

 だが、統魔のまなざしは、そんな幸多の考えを一蹴するかのように暗い怒りに満ちている。

「特別指定幻魔壱号の固有波形が確認されたんだよ」

「特別指定……幻魔?」

 聞いたこともない呼称に幸多は戸惑った。

「通称、ダークセラフ。ここ十年、頻発する幻魔災害の一因と目されている幻魔だ」

 統魔が、幸多を見た。

 暗紅色の瞳の奥には、決して消えることのない暗い炎が灯っていた。

「そして、おれたちの父さんのかたきだ」

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