第5話 特別指定幻魔壱号(一)
なにもかもが腹立たしい。
夕闇が差し迫る空の下、
苛立ちが収まらなかった。
自分がなにをしたというのか。
悪いことなどなにひとつしていないではないか。
魔法社会にとって不必要な害虫を排除しようとしていただけではないのか。邪魔な塵を処分するのは、社会を成立させる上で必要な行いではないのか。
「爺に媚びへつらうだけの無能の分際のくせに」
曽根伸也は、教職員室に集まった教員たちの顔を思い浮かべては、怒りを燃えたぎらせた。
天燎高校の教員たちは、天燎財団と深い関わりを持つ人間ばかりだ。
校長がそうだ。六年前、三十歳の若さにして校長になることができたのは、天燎財団の重役に気に入られていたからにほかならない。
故にこそ、教員たちは、天燎財団との繋がりを大切にし、重視していた。天燎財団の重役に気に入られれば、自分たちの待遇もよくなると信じているのだ。
そして実際そうなのだろう。
だからこそ、大目に見られてきた。
そういう現実をまったく理解できない曽根伸也ではない。
理解し、把握しているからこそ、自己保身に走るだけしか脳のない大人たちが愚かで醜悪なものに見えてしまうのだ。
曽根伸也は、そんな大人たちを付き従えていく未来が待っている。
それは、ある種の栄光に満ちたものであるかもしれない。
この敷かれた線路を直向きに突き進んでいきさえすれば、間違いはない。多くの大人が平伏し、だれもが一目置く立場になれること請け合いだ。
少なくとも、天燎財団の中では、だが。
「ま、まあよかったじゃないですか、お咎めなしで済んで」
「
「俺は社会の塵を掃除しようとしていただけなんだぞ」
伸也は、
確かに、曽根伸也は、不問に付された。それもこれも背後に財団幹部の祖父と父がいるからにほかならない。
彼の崇高な目的、行動理念が理解されたわけではないのだ。
だれもが間違っている。
自分以外のなにもかもが。
この社会の在り方そのものが狂っている。
曽根伸也は、ふと、足を止めた。学校から自宅への帰路。広い広い道路の片隅。歩道を行き交う人の数もまばらで、車道を走る自動車の数もそれほど多くはない。
ありふれた日常。
どこにでもある毎日。
彼は、血走った目で、夕日が地平の彼方に沈んでいく様を見遣った。太陽は、沈みかけているこの時間帯が一番眩しいのだと、彼は確信していた。
赤々と燃える空は、既にこの世界が終わっていることを解き明かしているようだとも思った。
《そうだとも》
不意に、背筋が凍るような声が背後から聞こえてきて、彼は、はっと振り返った。
目の前には、闇があった。
永遠の暗黒の中に昏く紅い光がふたつ、灯っている。それを目だと認識したとき、その目もまた、こちらを認識したのだと、なぜか確信する。
ああ、そうか、と、曽根伸也は理解した。
《この世界は、壊れかけの延命装置に繋がれた死人なのだよ》
曽根伸也が、その闇に飲み込まれたからだ。
沈黙があった。
長い長い沈黙は、いつから続いていたのか、いつまで続くものなのか、だれにもわからなかった。永遠に等しいものなのかもしれなかったし、一瞬で終わる可能性もあったに違いない。いずれにせよ、それを理解することができるものなどどこにもいない。
やがて光が差し込んできて、闇が晴れた。
強い風の音が耳朶を叩く。
それは命の旋律であり、生命の息吹きだ。
光。
赤い光。
燃えるような太陽の光が、西の彼方から彼の視界に差し込んでいる。
ひどく、悲しい気持ちだった。この上なく沈んでいて、けれども頭の中にも心の中にもその理由が欠片も見当たらない。
空虚で、救いがたい気持ちになった。
「随分と、苦しんでいたようだね」
気高くも柔らかな声が聞こえてきて、彼は、そちらに目を向けた。
そちらには、太陽とは異なる光源があり、声は光源から聞こえたようだった。光源は柔らかな光を放っていて、決して目に痛いということはなかった。
慣れれば、光源にいるなにものかの姿もはっきりと見えてくる。
「でも、もう泣く必要はないよ。ここには、辛いことも悲しいこともないのだから」
光源の主は、そういって両腕を広げ、彼がいる場所を指し示した。
彼は、そこでようやく、ここが地上ではないことに気づいたのだ。
空の上、雲の上にそれは浮かんでいる。
空に浮かぶ小さな島。
もはや忘れ去られた人類の叡智の残骸。
「わたしはルシフェル。このロストエデンの主」
光源の男は、そう名乗った。
太陽の如く光り輝く六枚の翼を持ち、光の輪を首にかけた美しい男は、絵に描いたような天使そのものの姿をしていた。その名も、天使から取っているのだ。みずから己に相応しい名を名乗るのは、彼らの特権だ。
「きみの名は?」
問われて、彼は、ふと考えた。
果たして、いま生まれ落ちたばかりの自分に相応しい名前などあるのだろうか。
警報音が鳴り響いている。
緊迫感を煽るための音色は、ある種の不快感を伴いながら、戦団本部全体を駆け巡っていた。
「固有波形の照合結果、出ました! 特別指定幻魔壱号です!」
情報官の力強い声が作戦部司令室に響き渡ると、室内の空気が一変した。凄まじい緊張が走る。
戦団本部内作戦司令室。
広い室内には様々な機材が所狭しと配置され、それら機器を扱う情報官たちがそれぞれの席で、様々な作業をしている。
そんな室内の空中に投影された映像、つまり
そうした雑多な情報を取り扱うのは、なにも情報局だけの役割ではないのだ。
戦団戦務局作戦部は、実働部隊たる戦闘部に適切な作戦指示を飛ばす部署であり、その役割を遂行するため、常に膨大な情報と格闘しているのだ。
そのおかげで、いままさに兆候を察知することができた。
幻魔災害発生の兆候。
「どこだね」
作戦部長・
そこに特別指定幻魔壱号が出現したということだ。
「待機中の全小隊に通達。準備ができ次第、すみやかに出撃せよ。指定座標周辺を索敵し、幻魔を発見次第、これを撃滅すべし」
戦闘部の各小隊に命令を下したのは、作戦部の人間ではなく、戦闘部副長の
「第八軍団長・
稲岡正影は、まさか自分の役割が取られた、などとは思っていない。
戦闘部と作戦部は、同じ戦務局の一員なのだ。持ちつ持たれつの関係でやっていくのが一番だった。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
「鬼は困りますよ、鬼は」
稲岡正影の独り言に柔らかく抗議してきたのは、戦闘部の長たる
火留多は、後ろに結わえた紅い髪を揺らすようにして、空中に浮かぶ幻板の数々を見遣り、難しい顔をしていた。
いつも通りの緊急事態であり、だれもが慣れたものではあったが、だからといって油断はできなかった。
何事にも万が一がある。
故に火留多は常に慢心せず、気を抜かない。あらゆる事態に備え、状況の把握と分析を怠らなかった。
それもこれも、先程の暴力沙汰のせいだった。
幸多も
もう二度と、このような暴力沙汰は起こしません、と、幸多と圭悟は反省文に何度となく書かされた。
ふたりの反省文を小沢星奈だけでなく、学校に残っていた教師一同が見回すのにも時間がかかった。
教師たちは、曽根伸也に対するやりきれなさでいっぱいだったようだ。
一年二組の教室は、曽根伸也の魔法のせいでめちゃくちゃになってしまっており、そのことに頭を悩ませているのもあるだろう。
机も椅子もほとんどが使い物にならなくなり、壁や天井、床が傷だらけだ。窓硝子が割れていないのが不思議なくらいだった。運が良かったのか、それとも、曽根伸也が気を使っていたのか。前者だろう。
魔法を使えば、あっという間に復旧するだろうが、それはだれもができることではなかった。少なくとも天燎高校の教師陣に復元魔法の使い手はいないようだった。
魔法による物質の復元は、極めて高度な魔法だ。人体の生命力に働きかける治癒魔法とは、あらゆる意味で次元が違う。魔法士だからといって簡単に覚えられるものでも、使えるものでもない。。
復元魔法を売りにする復元業者が、いまや巷で大人気なのも頷けるというものだ。
そして、学校も、復元業者に教室の復旧作業を頼むことに決めたらしい。
「大変な一日だったねえ」
「
「ああ、平気。後遺症もなんもねえし、よゆーよゆー」
「まあ心配してなかったけど、よかった」
いった側から安堵した様子を見せる
「
「ぼくも平気だよ。一切食らわなかったしね」
「監視カメラの映像見たんだけどさ、本当に凄かったよ、皆代くんの動き」
「そうなんだ」
「やっぱり魔法を使わない分、体鍛えてたりするの?」
「まあね」
「おい
「え?」
「監視カメラの映像って、そんな簡単に見せてくれるもんじゃねえよな」
圭悟の言い分ももっともだった。
監視カメラは、いまの時代、どこにでも備え付けられている。町中の至る所にあれば、校内も監視カメラだらけだ。
魔法犯罪対策には、それだけのことをしてもしすぎではないのだ。
そして、教室内に仕掛けられた監視カメラがあればこそ、あの暴力沙汰のどちらに非があるか、はっきりとわかるというものだった。
言い逃れなどできようはずもない。
「うん、そうだよ」
「え、じゃあどうやって見たの?」
「学校の端末に侵入して」
蘭は、端末を操作する手つきをして見せながら得意げに微笑む。
「……あんたも反省文書かなきゃ駄目じゃない?」
「えー、ぼくは見つかってないけど」
「そういう問題じゃないと思いますけど……」
「ったく、悪人しかいねえな、ここ」
「わたしたちまで巻き込まないでくれる!?」
真弥が圭悟に全力で抗議したときだった。
幸多は、不意に背後から熱風を感じた。まだ四月の上旬、夏はまだまだ遠く、熱気などあろうはずもない時間帯だった。
疑問を感じている暇もなかった。
爆音が轟き、大気が震撼した。地面が揺れ、破壊されたのであろうなにかの破片が四方八方に飛び散っていく。様々な音が耳に突き刺さるようだった。。
「なっなにっ?」
「今度はいったいなんなのよ!」
「いったいなんだよ!」
口々に叫んだり驚いたりしながら背後を振り返ると、第一校舎の二階壁面に大穴が開いており、そこから濛々たる煙が立ち上っていた。そして、紅蓮の炎が爆煙の中心に踊っている。
紛れもなく、魔法の炎だった。
「あれは……」
幸多は、校舎に空いた穴を睨み据えていた。携帯端末が悲鳴染みた警報音を鳴り響かせる。
幻魔災害の発生が確認されたのだ。それも携帯端末の存在する付近に。
それが目の前の校舎であることは、だれの目にも明らかだ。
「なにをしているんだね、きみたち!」
「さっさと避難しなさい!」
声高に叫ぶように指示してきたのは、校舎の中から飛び出してきた教師たちだ。避難指示に従って飛び出してきたら幸多たちが立ちすくんでいたものだから、慌てふためいたに違いない。
「きみたちも、早く!」
小沢星奈などは、幸多たちの手を引っ張ろうとさえした。
だが、幸多たちが避難行動に移るよりも早く、幻魔が動いた。
濛々たる爆煙の中から火の玉が飛び出してきたかと思うと、幸多たちの眼前に降り立った。物凄まじい熱気が渦となって吹き荒れ、周囲の気温が急激に上昇した。
幸多は、全身から汗が噴き出すのを認めた。
火の玉となって舞い降りた幻魔が、ゆっくりと起き上がり、こちらを一瞥した。四メートルはあろうかという巨躯は、煮えたぎるマグマのように赤々と輝いており、二本の足で大地に立っていた。両腕を振り上げ、咆哮する。
「イフリート……」
蘭が、恐れ戦くようにつぶやいた。
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