第10話 身代わり

 ――翌日の朝。

 先に起床し朝餉の準備を始めた。

 最近は長田が準備する時の方が多かったのだが、おもむろに起きてしまった。

 心中そわそわして、じっとしていられない。起き抜けに努めて冷静を保つつもりだったが、隣で寝ていた彼の寝顔を見て胸が高鳴った。顔が紅潮し、鼓動が早くなる。

 しかし、その高揚を断ち切るように長田の胸が影を落とした。

 ――は消えていない。

 現れた時のようにうごめくことはないが、紛れもなくは眼前にある。

 恥ずかしさと不安を振り払うように台所に立った。半刻ほどして、彼が台所に現れた。緊張と慚愧ざんきの念が入り混じった、何ものにもたとえようもない複雑な面持ちであった。

「――すまなかった」

 開口一番の謝罪。

「謝らないでください。長田さんは悪くないです」

「……。ありがとう、甲斐さん」

 そうして素直に頭を垂れた。

「朝食は私が作りますから、居間で待っていてください」

 いつもの穏やかな長田である。居間に向かう後ろ姿を見ると、昨晩がやはり異常だったのだろう。

 異常の原因。それは。それは一体どんな記憶なのか。触れて良い物かどうか、朝餉を作りながら悩んだ。触れてしまえば、苦しみが再度、彼をさいなむだろう。

 それは避けたいと思ったが、その現実を避けて食事を取ることは出来ないとも思った。

 膳に玄米、味噌汁、漬け物、焼き魚。

 居間に向かうと、ちょうど長田がお手洗いから戻ってきた。彼は無言で配膳の手伝いをしてくれた。面と向かって朝餉を食す、いつもの絵。

 しかし「いただきます」の一言が、すぐに出なかった。彼はご飯に視線を落とし、言葉を選ぶように静かに切り出した。

「甲斐さん、言わなければならないことがあるんだ」

 緊張した様子はあっても、取り乱すこともなければ半狂乱になることもない。

 声色は静かに、強く語り出した。

「僕の記憶が……おかしいんだ。

 固唾を呑んだ。

「――し、

 曰く――、である。

 長田には二つの記憶がある。

 一つは私の知る2・26事件――。

 新聞報道の通りで、青年将校達が逮捕された経緯もその通りだ。ただ、その時自分がどこにいたかは思い出せないという。

 そして、もう一つ。

 二月下旬、陸軍の一部将校と民間人が謀略を企てたとして十数名が検挙された。――。

 二月頃に決行予定だったものが決行できず、三月には関係者が大量に検挙されたという。

 無論――、そんなはずはない。

 彼の記憶違いだと思い詳細を尋ねた。

「今言った通りの内容だよ。起きていない叛乱事件だから、特段名称もないんだ」

 どう聞いても件の事件である。彼が思い出したという記憶は現実ではない。しかし単純な思い違いとはとても思えない。

 あの胸の記事――。

「長田さん、……辛いのは分かるけど、今も、……あるかしら?」

 落ちる視線。彼は苦悶の表情を浮かべつつ、胸元を見る。

 浴衣から僅かに見える、――記事。

「あぁ、甲斐さん。最初に会った時、何か分からなかったけど、これ……」

 きっとという枕詞が付く。

「これが僕のなんだろう」

 胸をはだけた。

 まだ消えていない。

 相変わらず鏡文字である。

 しかし大見出しは読みやすく、写真も相まってすぐに文意は理解出来る。

汪兆銘おうちょうめい氏死去 銃撃後恢復かいふくせず】

 新聞で読んだことがある。中華民国の要人、汪兆銘。細かい本文は見えずとも、すぐに分かる。

 ――これは現実ではない。

「長田さん、書かれていることは……」

「さっき読んだよ。手洗い場の鏡の前で」

 まるで鏡を通して初めて読めるように、いや、通さなければ読めないように、染みは記事となって浮かび上がる。彼は浴衣を締めた。

「汪兆銘氏が中国の高官というのは覚えている。でも、――死んだとは聞いていない」

 私の知る限りでもその通りだ。

「でも、同時に死んだという記憶もあるんだ。まさしく、この記事の通りにね」

 ――。あり得ないもう一つの記憶。それは言葉となって、記憶を身体に宿す――。

 突然、彼がテーブルに肘を突き頭を抱えた。

「ぐ……、頭が……」

 その言葉が口から漏れてすぐ、彼は再び苦悶の表情を浮かべた。思わず席を立ち寄り添う。

「無理をしてまで思い出さないでください。……辛いなら、忘れても良いことだってあるんですから」

 精一杯の慰み――。仮令たとえ文字が見えようとも、見ないように過ごすことも出来る。記憶は邪魔かも知れないがである。

 忘れてしまえば、忘れられれば、きっと大丈夫。

 彼は取り乱すことなく、笑顔で応えた。

「……ありがとうございます」

「さぁ、ご飯が冷めてしまいます。食べましょう」

 出来たての頃に立ち上っていた湯気や香りは、すっかり消え去っていた。冷め切ってしまった朝餉を二人で食べた。


 ――それから生活が変わった――。

 以前の通り家事炊事を中心に手伝ってもらうのは変わらない。しかし、変わったのは彼の胸だ。

 汪兆銘氏の記事は翌日には消えていた。最初に見た時なんて僅か数分で消えていたにも関わらず、今回は時間が延びていた。消えてそれで終わり――、そんな期待はあっさりと裏切られた。

 一週間後。唐突に――うずき――うめき――熱く――踊るように記事は現れた。

倫敦ロンドン海軍軍縮会議 無事締結さる】

 記事が現れると、長田は藻掻き苦しむ。胸が熱く狂いそうになるという。そして記事の記憶が、脳髄に流れ込むように思い出される。翌日の昼にかけて、記事は役目を果たしたかのように薄らと消えてゆく。

 それから一週間後の朝――。

【初の婦人投票 つつがなく進行】

 ――これが延々と続いた。

 厳密なる時間は不定ながら、約一週間という期間は変わらなかった。翌日に消えるというのも変わらない。

 だが、どうあっても慣れることはない。

 不気味、不思議、苦痛、不安――。

 先の見えない苦しみに、二人とも気が塞いでいった。

 気味の悪さに、院長にも相談した。最初に記事を見ていたから話はすんなりと受け入れられるものの、やはり原因の見当も付かない。

 ただ気には掛けてくれているようで、同期の医師や知り合いの軍医や、過去にお世話になった軍人達にも話を振ってみると言っていた。幸いにして――、この院長は長田の症状を学会や新聞に広めることはしなかった。

 本来であればあまりに奇異な症状――しかも週一で再現する――故に、発見者として功名をはやることもあったろう。ただ、、人為的な悪戯いたずらと思われる可能性が高かったからかもしれない。

 何れにせよ――、彼の秘密は最低限の人間にしか広まらないのは、安心出来る話だった。

「すまんが、一つ頼まれてくれるか」

 院長のお願いは、だった。この記事が失った記憶に関連しているか否かに関わらず、書かれている内容が奇病の原因かも知れないからである。長田の記事は

 事実上匙を投げているものの、院長は禿げ上がった頭を撫でながら「思い悩みすぎちゃいかん」と心配してくれる。また、極力彼の気を紛らわせるよう忠告してきた。

 ――そんなのうの昔にやっている。

 思わず口から出そうになったが、正論である。だから、無理にでも記事から気を逸らした。記録はすれど記憶せぬよう。また、あの笑い合う生活が再び戻るようにと。

 そこで思いついた。

 「――結婚しましょう」

 あまりに唐突な私の提案に、彼はぽかんと口を開けていた。

 式も挙げない、祝言もなし、晴れ着もない――。それどころか近所や誰にも知られてはいけない。戸籍にも入れない。そもそも彼には戸籍がない。知る人も家族も、家も土地も、彼は何一つないのだから。

 それでも――。

 この得がたい幸福を形にするには、仮令たとえ擬制的ぎせいてきと笑われようが結婚するのが一番だと思った。

「――うん」

 彼は逡巡することなく二つ返事で快諾した。快諾してくれたことが、心の底から嬉しかった。想いは同じ――。そう考えるだけで、欣然きんぜんとした。

 二人の誓いは畳敷きの居間で、静かに気恥ずかしく行われた。

 だ。人を集めて神前結婚とは行かないし、流行の指輪ウエディングリングも贈らない。

 仲人も神父もいない。

 神様も誰も祝福してくれない。

 ――でも嬉しかった。、二人だけの家、お互いの温もり。それだけで十二分に幸せだったのだ。

 それでも、苦しみは十重二十重に積み重なり、蓄積していく。

 彼は段々と悪夢を見るようになった。悪夢は決まって一つの状況シチュエーションを脳裏に刻みつける。

 謎の集会――、炎――、巫女――。

 頭に気味の悪い声が響き渡る、おどろおどろしい――夢。

 数々の映像や音が、目まぐるしく脳を揺さぶる――夢。

 胸の文字が、叫び、歪み、笑う、――夢。

 いくら気を逸らしていても、胸の苦しみが常につきまとう。不安でどうしても眠れない時、彼は自然と人肌に救いを求めた。求められれば拒む理由はない。

 ――私も求めた。

 身籠みごもったって構わない。否、寧ろ身籠もりたかった。子どもを育てることで生活が苦しくなっても構わない。彼との生活こそが、今現在の自分の幸福であり、それこそが守るべきものだった。

 ――記憶という寄る辺を失い揺蕩たゆたう男。

 ――契りは既に交わされている。

 それでも彼は申し訳ない気持ちを口にすることが増えた。

 奇病や悪夢のを、身体に求めてしまっている己を自責しているのだ。勿論そんなことはないと慰めても、は変わらない。

 よく眠れない日が続く。

 睡眠の不調は幾重にも積み重なり、その分厚い蓄積は彼の人間性を徐々に削り取っていった。元来静かな性格であったのか、暴言や乱暴を振るうことは一切なかった。しかし、から二月を過ぎる頃には目に見えて具合が悪くなった。

 目のくまは濃く、白髪が散見される。食欲も露骨に減退した。

 院長に相談しても改善策はなかった。

 これ以上悪化するようであったら入院する。

 ちょうどその端境はざかいの頃。


 ――夕餉を終え、例の記事が現れた。

 喘息の発作のように、淡々と意識せぬよう記録を取る。彼は苦悶ではなく何か諦観の体であった。記録を終えて抱擁する。

「甲斐さん……」

 泣きそうな声。

「どうしました……?」

は、いつまで続くんだろう……」

 答えられないのは二人とも分かっている。

「長田さん……」

「いくら記憶を思い出しても……。いや、記憶だけじゃない。もう、夢もうんざりだ。夢も現実も、どれが現実なのか、分からない。沢山、違う現実を見せられて、どうして、どうして僕だけなんだ……」

 彼の孤独は想像以上に深かったようだ。結婚しても――それも偽りだが、分かち合えない苦しみ。

「もし、出来るなら」

 ――――

 できないのは二人とも分かっている。

 それでも気持ちに違いはない。

「甲斐さん……、ありがとう」

 静かな落涙。

 二人して強く抱きしめ合った。

 この苦しみを抱えたまま生きていこう。

 仮令たとえ先が暗くとも二人で手を繋いで生きていきたい。


 だが。

 二人して涙を流した翌日、――

 ざんざん振りの雨音に、目が覚めた。

 隣の布団に彼の姿はなく、煙のように消えていた。

 意味が分からず、家中を探した。使っていたものはそのままに、荒らされた様子もなく

 ――信じられず近所も探した。街の景色はそのままに、誰も彼を見たこともなく。医院に駆け込もうとしたが医院は『臨時休館』の看板が吊され、人の気配はなかった。

 ――駆け回り、駆け回り、ずぶ濡れになった。

 店の玄関前に戻ると、そこには暗闇と静寂が鎮座しているばかり。硝子戸の向こうにはが、寂しそうに立て掛けられていた。

 まともに使う機会もないまま。

「長田、さん……」

 自然と声が出た。

 疲れ果て、蛇の目も地面に落としてしまった。

 白い雨の一粒一粒が暴力的にぶつかってきた。

 初夏だというのに酷く冷たい雨――。

 もう足に力が入らない。

 玄関を開けてその場でへたり込み、――泣いた。

 涙はせきを切ったように溢れ出た。

 涙が頬を覆い、えた。

 力一杯に手で顔を覆う。それでも抑えられない。

「どうしてッ! どうしてッ!」

 彼の名を力の限り叫んだ。

 呼びかけに応える者は、誰もいない。

 胸が苦しい。

 張り裂けるという言葉も当てはまらない。胸の奥底から、熱い何かが零れ出そうだった。


 


 刹那――。

 記憶が瞬き、胸を押さえた。

 熱い――、熱い!

 鈍く、痛い、この疼き――!

 苦しい、――苦しい!

 ずぶ濡れのブラウス。

 恐る恐るボタンを外す。

 そこには見慣れた染み新聞記事が叫ぶように明滅していた――。

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