第8話 現れた男

「もし……、秘密をお守りいただけるなら……」

 私は何かとんでもないことを聞こうとしている――。ただそれが一体どういうものであるかは、皆目分からない。未亡人のそれか噂のそれか、いや、もっと生き死にに関わることかも知れない。

 直前までの沈黙が、これから語ることを峻厳しゅんげんな事実たらしめんとしている。

 気鬱きうつな顔。

 それでも、強い決意を感じさせる瞳に全てを委ねる。甲斐の口から潺々せんせんと過去が流れ出した。


 ――昭和111936年4月27日――


 両親が亡くなって一年が経過していた。

 店の管理と取次業者との遣り取り。管理と言っても一口に終わらない。入荷、陳列、管理、販売、在庫処分や廃棄に至るまでやることは多い。

 子どもの時分には落ち着いた雰囲気に見えた書店も、一人で全てをこなそうとすると頗る大変であった。

 そこに家事が加わる。

 食事は勿論、掃除、洗濯、買い物、裁縫。

 独り者だからと気楽なことはひとつもなかった。

 全てが重労働だ。

 たらいと洗濯板でかがんで洗うのは、それだけでも骨が折れる。海外のウォッシュボード洗濯板は立って作業するのが当たり前なのに、何故日本だと屈まねばならぬのかと常ならぬ不満が溜まっていく。

 大変な労働を少しでも減らそうと、和服でなく洋服で過ごすことにした。洋服の方が取り回しが楽であったから。人目を気にして和服も勿論着るけれど、矢っ張りブラウスやアッパッパ清涼服の方が楽だ。

 ――全てが一人。

 兄弟姉妹はいない。女中さんもいない。

 父の店を継ぎながらも早く家庭を築きたい。友達は多くが結婚し、あるいは職業婦人となり、そういう活躍話やら愚痴やらを良く聞くようになった。そもそも女学校の卒業前、つまりは在学中にお見合いからの結婚という話も当たり前であった。

 顔が良ければ縁談も早く、そうでない者は畢竟ひっきょうで見られる――。

 ただ、父は私の修学と進路の希望を妨げる事は一切要求しなかった。

 私という色眼鏡を透かしても、父は進歩的な人間だった。その父に憧れたからこそ、私は店を継ぐという道を選んだのだ。

 それでもやっぱり、私も――。

 そう思いつつ、気がつけば男を知らずに二十歳を迎え、四捨五入すれば三十になる歳になった。急ぐ気持ちとは裏腹に好きな本屋を継いで、自由に生きようとも思っていた。

 なのに家事が大きく負担として大きくのし掛かる。

 この一年で、家事負担が心に影を落とした。

 蓄積してゆく鬱積に気が滅入った。

 があったばかりで、予断を許さぬピリピリとした空気に日本中が包まれている。世相という言葉は独立した血の通わない言葉じゃない。息を吸い吐く、当たり前の日常を目や耳、口から摂取する対象という生きた言葉なのだ。帝都が力の横暴と流れる血の臭いに満つように。私を取り巻く空気も匂いに穢されているのだ。

 ――それでも店を開く。

 世相が幾ら生きづらくとも、私の日常は目の前にあるのだ。

 昼下がり、お客さんが来ない時は家事の時間でもある。何の気なしに庭で焚き火をしようとした。あまりに傷んでしまった新聞の一部は屑屋くずやに売りつつ、一部を掃除で出たごみを燃やす時の燃料として使う。

 春の暖かな日差しが庭に燦々さんさんと降り注いでいた。

 庭の真ん中には焚き火用の穴がある。古新聞を一枚。そこに冬以来の枯れ葉達を掃き込んでいった。燐寸マッチを擦って徐に火をつける。

 街の騒音もなく、静かに、静かに、煙が上り始める。

 その時、強く風が吹いた。

 微風そよかぜともつかぬ高嶺颪たかねおろしのそれであった。どこからか舞ってきた枯れ葉が何枚か、顔に覆い被さるようにぶつかってきた。

「きゃっ――」

 寸時すんじ視界が途切れる。

 風の勢いだろうか、すぐ近くでバサリと物が落ちるような音が聞こえた。顔に付いた枯れ葉を嫌々に払い、再び目の前の焚き火に視線を移す。

 視線を戻して――数瞬茫然ぼうぜんとなった。視界に入ってきた情報を、狭隘な頭が理解出来なかったのだ。

 ――男。

 男だ。

 見たこともない男が、目の前の焚き火に覆い被さるように倒れている!

 自分でも分からないが悲鳴は上がらなかった。茫然自失の体に、急速に現実が津波のように押し寄せて異常な事態であると脳髄を覚醒させる。身体が勝手に反応して横に用意してあったバケツを手に持った。

 勢いよく焚き火と男へ、諸共に打っ掛けた。

 沸き立つ煙。水のざわめき。倒れている男。

 男はどうやら意識を失っているようだった。苦しそうだが息もある。

「だ、大丈夫ですか! しっかりしてください!」

 これ以上焚き火に焦がされぬよう、半ば引きずる形で肩を貸しながら縁側に横たわらせた。女手には想像以上に重かったが――これが男の身体なのだろう。

 身長五尺五寸ほど、やや細身の青年である。腹部が焦げたワイシャツ、坊主に近い短髪、整った顔立ちをしている。幸いにして身体全体に燃え移ることもなく、軽傷のようだ。

 ただ、脚が擦り傷だらけなのはよく分からなかった。また胸に黒い染みのようなものが見えたが、きっと汚れだろう。

 微かに譫言うわごとのような呻き声。どう見ても誰かの手助けが必要な具合で、表情は苦悶のそれである。

 私は急ぎ家を出て、近所の病院に駆けた。幸い歩いて5分程度であるから、走ればすぐだった。入り様に大きな声で叫んだ。

「庭で、男の人が倒れています――」

 幸い医師がおり、二人とも駆け足で家に戻った。

 どたどたと医師が家に上がり、倒れている男を見やると、二人で協力して男を布団に横たわらせた。

 男の呼吸はまだ荒い。医師がいそいそと聴診器を準備しながら、発見時の状況を尋ねる。

 しかし――、なんと返答したら良いか。

 『見ず知らずの男が、突然焚き火に倒れ込んで来た』

 ――ありのままである。

 首を傾げる間もなく医師は男に聴診器を当てようと、男の上着をはだけさせる。

「うわッ……」

 医師の素っ頓狂な声に、男を見る。

 ――意識を失った男。

 開かれた胸。

 汚れだと思っていたのは、染み。

 はっきりとした黒い染み――。

 いや、染みではない。

 

 写真、タイトル、段落――。

 はっきりと識別出来るが、男の胸に浮かび上がっていた。

 ただ、全て反転されている――。

「こ、これは……」

 二人揃って声を失うばかり。

 それでも医師は確認のために、男の胸に手をかざす。さらりと肌の上を指が滑る。にじむことはない。

「彫り物……か。いや、こんな彫りなど見たことない」

 驚きはそれに止まらない。

 文字が僅かに薄くなり濃くなり、緩やかに明滅している。

「な、なんなんだ、これは……!」

 見たことも聞いたこともない。

 それ故に奇怪。それ故に戸惑う。

 ――だが、男は生きている。

 その事実が医師を素早く現実に引き戻した。

 息が乱れながらも脈を取り、瞳孔を確認し、一通りの検診を行う。一息ついたところで、酷い嘆息たんそく混じりに呟いた。

「足の裏の血豆や浅い切り傷はありますが、ただ意識を失っているだけのようですな」

 ――

 男の呼吸は整い始め、苦悶の表情は既にない。男は胸をはだけたまま夢の中にいる。

「やれやれ。こんなのは、……見たことも聞いたこともないわい」

 大陸で勤務したことがあるという元軍医の院長。医師は、禿げ上がった頭をつるりと撫で回す。

「何か変わったご病気なのでしょうか」

 医師の溜め息が益々深まる。

「皮膚病……、蕁麻疹じんましんでもない。皮膚炎、乾癬かんせんでもない。インクの転写でもない。……いやぁ、やはり聞いたことがない」

 胸に明滅する新聞記事らしき文字が浮かび上がる――。

 手の込んだ悪戯には見えない不気味な現象。

 ――匙は投げられた。

 医師が幾度も溜め息をつき首を傾げた。しかし、ふと思い出したように「ところで――」と尋ねて来た。

「本当に知らない方なんですね?」

 静かな首肯。

「――警察に届けますか?」

 順当に行けばそれが落とし所。

 しかし、何故か警察に届け出をする気にはなれなかった。これがどう見ても泥棒や強盗の類いであったならば、そのまま警察を呼んでいた。しかし胸の文字を見る限り、それどころでない事情を抱えていそうだった。

「警察に届けないのならば、取り敢えず様子を見ては如何です?」

 こうなったのも何かの縁です、と医師は続けた。

 ――縁、縁なのだろうか?

 幾らかの逡巡の末、男を一時的に引き取ることにした。 

 幸い部屋は開いている。父母はもう居ない。経済的余裕は、独り身故にあった。何より、男が苦しんでいるように見えた事が一番の理由だった。

 医師は合点したように微笑んだ。

 それでも「彼が起きたら、出自を確認してください」と告げ、てきぱきと身支度を調え、書店の玄関から医院に戻っていった。

 あっという間に静寂が戻った。

 男は静かな寝息を立てている。いつも暮らしている空間で、――。

 突然の非日常に心が落ち着かない。

 ずっと裸にしておくのも悪い。そう思い掛け布団を掛けてあげようと近づいた。

 胸の文字は左右反転している、言わば鏡文字。読みにくいが読もうと思えば読める。

 好奇心が覗かせた。


【岡田首相辞職 町田氏に大命降下】

 

 大見出しにそう書かれていた。写真は反転しようと人は人。そこに写っていたのは、確か民政党の党首、愛称『ノンキナトオサン』の町田忠治だ。

 ――

 岡田首相は、後に辞職し、広田弘毅内閣が組閣したばかりだ。日本全体が震撼し、騒ぎに騒がれた大事件だ。間違うはずがない。

 にも関わらず――、男の胸に写る記事のようなものは語る。

「これは……」

 あまりの不思議に、震える指先が男の胸を擦ろうとした時である。

 幽かに男が動く。

 呻きと共に、目が身体が、まさしく起きようとしていた。

「だ、大丈夫ですか……?」

 男は声に反応するように静かにまぶたを開く。

 視線が泳ぐ、ぼんやりとした顔。状況を読み込めていない視線。男は何処か傷むのか、呻き声を発しながら弱々しく起き上がろうとした。

「まだ起き上がっては駄目です」

 すかさず制止した。男は抵抗することなく再び横になった。

「ここは……」

「私の家です。貴方は、庭で倒れていたのです」

「庭……」

 ようとして掴めない意識。

 会話は出来る様子なので、医師に言われたことを確認する必要があった。

「つい三十分ほど前です。私が焚き火をしておりましたら、突然貴方が焚き火に倒れ込んできたのです」

「……」

「それからお医者様を呼びまして、怪我がないか確認してくださいました」

 ――異常はあったが、まずは触れまい。

「お医者様はお帰りになりましたが、貴方の事を確認しておくように言われております」

「私の、事……」

 呻き、男が俄に苦悶の表情を浮かべる。

「大丈夫ですか……?」

「あ、頭が痛い……」

 何処か打ったのだろうか。しかし、外傷らしい外傷はない。

「ご無理はなさらないでください」

 男の態度は従順であった。やはり泥棒の類いではなさそうだ。

「まだ混乱があるかと思いますが、……幾つか伺っても宜しいですか?」

 男は瞳を閉じて首肯する。

 色々確かめなくてはならない。

「お名前は?」

長田おさだ……春隆はるたかです」

「それでは長田さん。お住まいはどちらですか?」

 ――寸時の沈黙。

「分かりません……」

 分からない、とはどういうことか。

 記憶が混乱しているのだろうか。思量を重ねるまでもなく、一時的な記憶の混乱は考えられた。

「そうですか……。それでは、今日は何年何月何日ですか」

 何処かで読んだ、患者への状態確認項目。まさか本当に聞くことになるとは思わなかった。

 男は僅かに目を細め、呟く。

「……昭和十一年四月二十七日です」

 ――

「それでは、誰かご家族のお名前は分かりますか?」

「家族……」

 茫然と天井を見上げる。その先に誰かが浮かんでいるのだろうか。しかし、その答えは深い溜め息だけだった。

「思い出せない……」

 その後、いくつかの問いを重ねてみたが、大した事は分からなかった。

 ――名前は分かる。

 今が昭和何年かも分かる。日付もあっている。

 だが、家族も住所も自分の出身も分からないようだった。学校名を尋ねても駄目であった。

 では胸の記事は?

 視線を長田の胸に落とすと、――いつの間にかであろうか、胸の記事は

 そんな馬鹿な――、と声が出そうになった。

「お、長田さん。あと、一つ伺って宜しいでしょうか……」

「はい」

「胸の、……染みは……一体……」

 長田は言葉を理解していないようだ。長田の視線も胸を滑るが、そこには唯々健康的な肌色をした胸があるばかりである。

「染み……とは、何ですか?」

 今度はこちらが言葉を無くすしかない。医師も私も見たあの記事は、一体何処へ消えた?

「……長田さんの胸に、先程まで大きな染みが、あったのです」

 ――鏡写しの新聞記事、が。

 長田の回答は単純明快である。

「ないじゃないですか」

 本人に心当たりがない。それが分かった時点で、これ以上聞くのをやめた。写真やスケッチを取っていれば別かも知れないが、そんなものはない。本人が見ているのに、ないものをあると言っても要領を得ないだけだ。

 ――静寂が、再び戻る。

「長田さん、私はこれから診てくださったお医者様の所に、報告して参ります。それまで横になっていてください」

 長田の顔に疑義は浮かんでいない。

「本当に、申し訳ありません」

 後にも先にも、まずは報告である。そう思い立ち上がると、長田が縋るように問うてきた。

 ――お名前を聞いてもいいですか。

 ――望月甲斐と申します。

 長田の顔が、僅かに笑った。

「かい、さんですね。……よろしくお願いします」

 誠に従順、純朴である。

 この青年をいかがしたものか――。

 言い知れぬ不安に駆られながら、医院に足を運んだ。

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