第7話 国の行く末

 ――憂鬱ゆううつであった。


 待遇に不満があるのではない。この国全体に対する不満だ。

 折角、色々な人材が集まる場が設けられたのに、有用な意見や報告内容があるにも関わらず、それらを活かせない。


 政治家は政治闘争に明け暮れて軍を知らず――。

 軍は軍の都合でものを見て政治や外交を知らず――。

 国民はそんなのどうでも良いと思うように、野球やらトーキーに熱中する。


 これでは国民統合など、夢のまた夢である。


 一度この国の政治をひっくり返してみようじゃないか――。

 国中が乱心している中、今から六年前、青山五丁目の一軒家から、が生まれた。


 目を見張るのは、その人員である。

 


 右翼、左翼、民間技術者、政治家、軍人、教員、哲学者――。

 挙げ句は大陸浪人に至るまで、玉石混淆ぎょくせきこんこうの体である。

 総勢いくらになるのか、事務局の人間でも把握していないのではないか。

 省庁間の垣根を越え、官民の垣根を越え、思想の垣根すら越えている。

 この国の行く末を担っていくをしている集団。


 ――よくこんな集まりが出来たものだ。


 ――東京、丸の内。

 事務所の二階、日の当たる会議室の一室、――その片隅でぼんやり微睡まどろみながら思い出していた。


 この集まりの発足当初は、国際情勢などの『時事問題懇親会』といった風情で、色々な関係者が呼ばれた。

 その第一回。

 私は講師側で招聘しょうへいされた。


 最初こそ、有志の寄付やらで成り立っていた研究会も、時勢と人脈のうねりにより徐々に拡大し、程なくしてビルに居を構えることになった。

 丸の内とは言っても、古い煉瓦造りのビルである。

 新しさも、荘厳さもない。ただただ雰囲気が良い物件なのである。


 ――暖かい日差しが、眠気を誘う。

 三宅坂陸軍参謀本部喧噪けんそう罵詈雑言ばりぞうごんから離れて、部屋の片隅で椅子に座って寛いでいるのは、それはそれは貴重な時間だった。


「どうも、ご無沙汰しております」

 不意に後ろから声を掛けられた。


 研究会事務局の酒井だ。

 この二十年も歳が離れた青年は、研究会創立時からいる結構な古株で、第一回で呼ばれた時に初めて会った。

 人柄も良く、周りから可愛がられており、今では各部会の連絡調整に当たっていた。


「お忙しい中、ありがとうございます。お昼はどうされますか」

「いや、もう済ませてきましたよ」

 素っ気なく返した。ただ、気兼ねがない故である。


 つい二年前――。

 皇道派粛正人事に巻き込まれ、歩兵第十四連隊長としてソ満国境の東寧に事実上、左遷された。


 国境の警備――、閑職である。

 私は当時、失意のどん底にいた。


 彼は研究会の視察で、いつ戦端が開かれるか分からない、を訪れたのだ。

 前線基地とは言え、ソ連兵の歩哨がちらほらいるくらいで、緊張感とは無縁であった。

 季節は冬本番ではないが、ソ連との国境であるから、それは恐ろしい寒さであった。


 事務所内でをつつきながら、「これまでも、これからも重要なのは対ソ戦である」と懇々こんこんと説明したのを覚えている。


 あれから二年――。

 私は中央へ復帰し、日差しの温もりに包まれて寛いでいる。

 浮き世離れに加えて、感慨深いものがあった。


 酒井の印象は、実直かつ柔和。頭も十分きれる。

 若い文官だが、中々見所がある――。

 彼のことを、そう見ていたので、外連味けれんみのない会話が出来た。


 少しの間を置き、あぁそういえば、と思わせぶりに酒井が呟いた。


「お昼で思い出しましたが、殿は生まれてこの方、財布を持ったことがないそうですよ」


 ――妥当である。


 世が世なら――、いや、今現在に至るまで、やんごとなき家柄の、まさしく血筋に恵まれた公家の血統である。

 先祖を辿れば、それこそ藤原鎌足ふじわらのかまたりまで遡れる。

 五摂家の一つ。

 まさしく貴族中の貴族である。


 もっとも、自分はよく目を掛けて戴いている、――いや、それどころかであるから、そのような表現は少しばかり鼻に掛かった。


 しかし、自分より位も年齢も、態度も含めて尊大な人間など幾人もいる研究会である。

 酒井の気苦労は想像に難くなかった。

 だから、『殿様』などという言い振りは、彼なりの気の使い方なのだろう。


 酒井は出席者に資料を一通り配り終えると、隣の席に座り、尋ねてきた。

「この間発表されたですが……、一体どこから手に入れてきたんですか?」


 ――随分と愚直ぐちょくな質問である。

 酒井の言う『アレ』とは、先日、この研究会の分科会で、部下に報告させた報告書である。


 この研究会で取り扱う分野は多岐にわたり、政治、経済、文化、教育に至るまで幅広い。その中でも軍事動向というのは、陸海軍の現役将校を招聘しており、それで呼ばれる訳だ。

 もっとも、今回は急遽予定が入ったこともあり、内容を熟知している部下に報告させた。


 レポートは、『』である。


 要旨は、非常に単純明快である。

 昭和14年10月現在――、独仏両国は宣戦布告をしながら睨み合いを続けている。

 非常に奇妙な状態ファニー・ウォーが続いているが、すべからせきを切るような戦闘状態に入る。


 長らく冷や飯喰らいと思われてきた機甲師団。

 独逸空軍ルフトヴァッフェとの共同作戦を以て、アルデンヌの森を越え、マジノ線を迂回。

 神速の機動力を以てフランス本土を蹂躙せる――。


 兵器の優劣では、そんなに差の無い独仏二国であるが、ドイツの小型爆撃機スツーカを初め、航空部隊、砲兵部隊との緊密な連携をもって陣地を潰し、高速な敵地侵攻を可能にする機甲師団の大侵攻により、脆弱地域を悉くことごとく突破包囲し、遂には英仏海峡に迫る勢いで短期間のうちに決着するだろう――。


 ――まるで、見聞きしたかのような臨場感があった。

 しかし、出自は打ち明けられない。

 打ち明けたら大変なことになる。

 もっとも、打ち明けたところで、冗談と思われるだけであろうが。


「表立っては言えませんが、からですよ」

 のらりくらり、体よくかわす。

 それっぽさを少しでも出せば、後に細かく聞いてくる人間はいない。


「……そうですか。ソ連総領事あたりですかねぇ」

 酒井は不思議そうにしていたが、彼にとっての現実的な落とし所で妥協した。


 ――出自は不明、されど精緻。

 このレポートは、『電撃戦ブリツツクリーク』なる火兵かへい主義を訥々とつとつとまとめたものだ。


 高度に機械化された歩兵部隊。戦車を中心とする機甲師団。

 高度な意思疎通を可能にした通信網。長距離砲の代わりに拠点を破壊する無数の軽爆撃機。

 それらを統合運用し、かつ権限を各司令官に委任することで得られる、敵中枢部の崩壊と残敵の包囲殲滅戦。


 ――部下が作成した概要を読んだ時、衝撃を受けた。

 兵の多寡をひっくり返す戦法の極致――。

 かつての欧州戦争の奇跡、『タンネンベルクの殲滅戦』の如くである。


 我が国の限られた戦力では、どう足掻いても平押しでは負ける。

 ソ連だけでも困難だというのに、英国、米国まで考えたら、もうどうしようもない。

 負けないためには奇策か、新兵器か、精神論かと、軍人はつい夢見がちである。

 だが、戦術、運用、通信技術の特化等の工夫で覆せる部分はあることが証明されたのである。


 その結果、今後の推移が大凡見えてきた。

 しかし――、見えてきたが故に、興奮は灯火ともしびの如くふっと消えた。


 ――絶望的な展開が、容易に予想できたからである。

「レポートでは、独逸ドイツ仏蘭西フランス戦で勝利するが、対英戦で苦戦し、いずれ戦争目的の一つである対ソ戦へ向かう、とされていますが、非常に興味深い分析でした」

「……そうですな」


 ――興味深い。

 確かに興味深い。

 だが、もしそうなったら――。


 独ソの総力戦――。

 想像するだけで、頭が重くなった。


 今般の戦争は、なのだ。


 膨大な国土と人員を備えたソ連。

 機械力と組織力に勝るであろうドイツ。

 ――お互いに憎悪の限りを知らない。

 このまま戦争になったら――。


 絶望感に打ちひしがれるしかなかった。

 だから、松岡洋介の言うような、日独同盟は駄目なのだ。


 日独同盟による国際的発言力の強化を図り、アメリカと対等に渡り合う。

 彼の意図は分からなくもない。

 しかし、その後は、ソ連との絶望的な総力戦が待っているのだ。



 いや――、自分が目指していたものが、まさしく、そのではなかったか。


 これ以上聞き出せないかと思ったのか、酒井は自分の席に置いていたコップを飲み干し、一息をついた。

 一息ついたと思った途端、そうだそうだ――、とまた思いつく。

 気を遣わせてしまって、申し訳ないには申し訳ないが、つくづく接待に気忙きぜわしい様子だ。

 ころころ話が変わる。


「この間耳にしたのですが、あなたの部下は非常に優秀という噂ですよ」

「あぁ、黒葉君のことですか」


「そうです、そうです。確か九州帝国大学の哲学でしたね」

 私の部下に、黒葉という男がいる。

 面従腹背めんじゅうふくはいでもない。事務連絡から会談調整まで、何事も適切にこなす。

 まさしく、有能な部下である。

 この間のレポートも発表したのは黒葉だった。


「優秀な奴と言いますと、尾崎君も大層評判ですね」


 また、ころりと話が変わる。

 しかし、その言葉を、表情一つ変えずに、胡乱な視線のまま聞き流した。



 ――

 元新聞記者。元研究会嘱託。

 尾崎秀実のことだ。


 尾崎の大陸に関する分析や調査報告は、他の参加者が舌を巻くほどである。

 中々優秀な新聞記者がいたものだと、話題になった。


 人懐っこく、しれっと秘密を漏らしてくれる。

 ――と思ったら目だけが笑っていない上に、こっそり共産主義者の集会を開く。

 一筋縄ではいかない人物だ。


 最初の頃は、事変不拡大を論調としていた。

 しかし、戦況がやや好転し、漢口攻略戦の前、突然それまでの主張である不拡大路線をひっくり返して、漢口討つべし、と声高に主張し始めた。


 人によっては訝しむ者もいたようだが、お人好しの殿に至っては、きっと何も気づいていないに違いない。



『――尾崎はコミンテルンのスパイだ』



 言葉が、脳裏を過る。


 ――あの情報。

 出自が明かせぬ『


 有能なスパイが、身近に、本当に身近に居る。

 尾崎、ゾルゲ、クラウゼン――。

 恐らく特別高等警察特高すら掴んでいない、極秘情報。


 ――嗚呼ああ、何故私は知ってしまったのだ。

 知らなければ悩まずに済んだのに。

 知ったからには手を打たなければならぬ。


 ――早く、早く、早く。

 大事にならぬうちに、芽を摘み取らねばならぬ。

 憂鬱は加速し、幾十にも折り重なり、真綿で首を絞める。

 一度に断つことは出来ない。

 、一本一本解体するしかないのだ。


「……どうかしましたか」

 沈思黙考しすぎたようだ。酒井がいぶかしんでいる。


「あぁ、大丈夫ですよ。ちょっと欠伸あくびがね」

 このご時世に欠伸とは、貴方も大したものですね、と笑われた。

 十分な皮肉であったのだろう。


 笑顔で返そうとした時、不意にドアのノックが甲高く響く。

「失礼します」

 ドアが滑らかに開き、初老の男が入ってきた。

 の付き人だ。


「……殿様、ですかね」

 誰に言われるともなく、その場にいた全員が起立して出迎える。

 そして、ドアからぬっと現れる。


 不機嫌なのか機嫌が良いのか、相変わらず読めない顔。

 血統あらたかに、若くして担がれた大神輿。

 国民の期待を背負いながら、逡巡しゅんじゅんしてしまう政治家。

 この研究会の存在意義にして、子爵。

 前総理大臣、――近衛文麿このえふみまろ


 ――不機嫌か機嫌が良いのか読めないのは、自分も同じか。

 心中で嘆息を吐き、一礼の後、席に座った。


 国策研究機関、国の頭脳を集めた悩める知識人集団、『昭和研究会』の臨時集会が始まった――。

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